第14話 ナジャとして

 金属の擦れる音があった。

 ソファーから立ち上がったナジャが、テーブルに置かれるランプを手に取ったのだ。


 橙色のあかりだまりを床や壁に揺らしながら、少女は挑みかかるような足取りでまっすぐカウンターまで歩み寄っていく。

 影が無理やり散らされて、少しうつむき加減でいた男の顔が照らしだされる。ズボンにすその収まりきっていない、だらしなく着崩されたシャツの胸を片手でつかんでグッと背伸びをすれば、引っ張られた男のからだが前へ傾いて、目にかかる前髪が額から浮く。


 隙間からあらわれた満月のような瞳を、ターコイズがつかまえる。


(迷子みたいな目……)


 まなざしは揺れていた。

 現に男は、前世界から一人きりでつれてこられたのだ。行くあても帰る場所もとうに失ってしまっている。自分自身のことすら忘却にさらわれてしまって、その手にはもう、ナージャに抱く絶望しか残っていない。


 どんな思いで絵を描きつづけてきたのか、とても想像しきれるものではなかった。だがそれがどれだけ彼にとって重要な作業なのか納得はできた。ナージャへの執念は、いまは失われてしまった心臓の、影のようなものなのだろう。手放したとき、いよいよ彼は自分自身のなにもかもを忘れ去ってしまうのだ。


 黄昏に浮かぶ、ターコイズ。

 映り込んでいるのは自分のはずなのに、まるで知らない色のように見えた。


 男からすれば、ターコイズはほかの誰のものでもない、ナージャだけの色なのだろう。


 ナジャに向けられる瞳をキャンバスにして、見慣れた髪や頬に、無遠慮に絵の具が重ねられていく。いまこのとき彼の目に映っているのは、ナジャではなくナージャだ。あるいは最初から、塔から落ちるところを助けられたときからすでにそうだったのか。


「グレイ!」


 シャツをさらに引きながら、ナジャは頬をひっぱたくような勢いで名前を呼んだ。


「グレイグレイグレイグレイ——」吸いこんだ息をすべて使い切ろうとするように、何度もくり返す。額まで赤くなって、ランプを握る手が震えはじめたところで、ようやく呼吸が挟まった。「……うん、こんなとこかな」


 ぺたり、靴のかかとが着地する。


「これまで呼ばなかったぶん、まとめて呼んでみた。あのさ、心臓、おそろいじゃないよ。あたしには最初からなかったけど、グレイにはグレイの心臓があった」


 シャツが放されて、しわを伸ばすように手のひらが置かれる。瞬間、かすかにグレイは身震いしたが、手を払うことはなかった。


 互いの熱と、呼吸の振動が交わる。

 けれど鼓動はどちらからも伝わらない。


「正直、なんて言ったらいいかわからない。ナージャもあたしも『塔の管理人』で、他人事みたいに感想を言うのはおかしいし、だからってナージャのかわりにあたしが謝ったりするのも違うと思うし……ただ、絶対、ナージャみたいにはなりたくないって思った。グレイがグレイだってこと、あたしはちゃんとわかってたい。さっきたくさん名前を呼んだのは、その決意表明みたいなもの」


 いったん呼吸を挟むと、彼女はこわばっていた頬をぎこちなく笑みのかたちにする。


「……それで、だからってわけじゃないけど、グレイにはあたしのことちゃんとナジャとして見てほしい。すぐには無理でも、そのうちナージャのことなんて思い出させないようにしてみせる。っていう、これも決意表明」


 ランプはいつの間にか揺れをおさめて、二人の足もとを穏やかに照らしていた。

 ややあって、グレイはぽつりと呟いた。


「熱烈だな」

「……いやなこと思い出させた?」

「いいや? まあ、ある意味ではそうなのか。ナージャに想いを告げられたときより、よっぽど告白っぽいなと思った。……なんなら少しドキドキしたよ、久しぶりに」


 笑えないジョークだと顔をしかめたナジャだったが、はっとして眉間のしわを伸ばす。


 そうして彼女は、またもやつま先を立てて、ぶつかるように男の胸に飛び込んでいた。とっさに後ずさろうとしたらしい男の背中から、背骨とカウンターが強かにぶつかる音が聞こえたが、かまわず片耳をあてがう。


「ちょっと、ナジャさん?」

「し。いま心臓の音探ってるの」


 グレイを抱きこむようにカウンターに手をつけば、これ以上なくからだは密着する。

 彼は弾かれたように両手を浮かせて、そのまま所在なげにさまよわせた。


「冗談だ。そんなことしてもなにも聞こえない。ていうか、離れてくれ。俺、君の言うとおり、それなりに天使嫌いなんだよ」

「触ってたしかめてみるかって言ったのはそっちでしょ、我慢してよ。……ねえ、ほんとにドキドキしないの? これっぽっちも?」


 訝しげな視線が噛み合う。


「こんな美少女に抱きつかれてるのに」

「その美少女な外見が俺の地雷なんだが」

「あ、そうか。そうだった」


 『ナージャ』に抱きつかれれば、ある意味ドキドキしそうではあったが、それは意図するところではない。しぶしぶ離れながら、少女は考えこむようにくちびるを尖らせる。

 グレイは耳の後ろをかいた。


「……で、どうして突然」

「天使は恋をして心臓を得るでしょ。同じように、グレイの心臓も戻せないかなって」

「ああ……」


 まったく思いもしなかったとばかりに、気の抜けた声があがる。


「可能性はあるかもしれないが、嬢ちゃんで試すのは難しいんじゃないか? ナージャと同じ見た目だってだけじゃなく」

「もしかしてケンカ売ってる?」

「いや……見たところ、十代くらいだろう君。さすがにガキ——」わざとらしい咳払いが挟まる。「お子さまじゃあ、ちょっとな」

「やっぱりケンカ売ってるよね!」


 なんだ、とナジャは肩から力を抜いた。


(いやなやつだって思ってたけど、ほんとに性格の悪いやつだった。数千年変わることのなかった、生まれもっての性悪ってかんじ)


 さっぱりとした、久々に晴れ間を見たような心地でそんなことを思う。


 彼の言葉のすべてが真実だと、確信できる証拠はない。結局近づいてきた理由も曖昧なままである。しかしグレイという男から受けた印象は、きっと正しい。オルランディアに立ちこめる暗雲のように、うす黒く汚れて、触れようとしても一向につかめない——相変わらず信用ならないところに、少しは信じてあげてもいいかという気にさせられた。

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