第11話 ナァグャャルルア

 天使が死ぬと、その役割を引き継いだ新しい天使が創られる。基本的には同じ設計図のもと、前任者に問題があれば改善を加えながら、たとえばナジャは今代で百二十四人目の塔の管理人『ナァグャャルルア』であった。


 ナジャと呼ばれる者も、ナージャと呼ばれる者もいた。本名のナァグャャルルアで呼ばないと絶対に返事をしない者もいたという。


(前任がたしか『ナージャ』呼びだったっけ。オグルが言ってたような気がする……)


 幼いナジャに、まずは前任者と同じように『ナージャ』と呼びかけてみたが反応がなく、『ナジャ』と呼んでみたら顔を上げた。そのときからナジャは『ナジャ』となった。


 デビットが案内したのは繁華街ソルティアの外れのほう、ほとんど旧市街ペルポネとの境と言っていい辺りにまばらに集う、店の廃墟群だった。


 駅前で煌びやかに主張していた建物たちと違って、外装はおとなしい。彼の隠れ家は、何件か建ち並ぶレンガ造りのうちの一つで、かつては中がのぞけたのだろうガラス窓が完全に段ボールに覆われているために、見た目からはなんの店だったのか判断しかねた。


 中に入ってしまえば、右手にでかでかと鎮座するカウンターとその背後にそびえる酒瓶の棚で、ここがバーの廃墟であるとわかる。


 デビットは慣れ親しんだ我が家とばかりに奥へ進むと、テーブルに置かれたランプに火を灯した。ナジャを手招きして、破損が一番少ない革張りのソファーに座らせる。


「あ、見たいって言ってた『ナージャ』の絵、取ってくるね。実はグレイの家から勝手にもらってきたやつだから、いつもは見つかんないところに隠してあんの。あいつ、ノックもなしにあがりこんでくるんだもん」


 隠れ家まで歩く途中、他愛もない話をするうちに少年の緊張はほぐれたようだった。幾分くだけたようすで話しかけてくれるようになった彼に、ナジャは野生の小動物に懐かれたような気持ちになる。


 かつては従業員用のスペースだったのであろう奥の扉へ駆けこんだデビットは、すぐに小さな額縁を持って戻ってきた。少年はそれを、絵が表側になるように胸に抱えている。


 ないはずの心臓が、わずかに跳ねた。


 波打つ白金の髪が、白い頬とあごを覆っていた。きゅっと閉じたくちびる、彼女としてはあまり嬉しくない広い額。背中からは純白の翼が生えて、額縁を隙間なく埋めていた。


 ターコイズの瞳がナジャを見つめている。


 いまのナジャよりも少し年上に見えたが、よく見慣れた顔つきだった。ただ、なんとなく表情に違和感がある。顔を背けても鏡の中の自分はじっとこちらを見つめてくるような、肌の粟立つ、薄気味悪い感覚だった。


(ナージャ……)


「ほら、ここに文字みたいなのがあるだろ。俺は字は読めないんだけど……グレイに聞いてみたら、『ナージャ』って読むんだって」


 彼の指さした箇所には、たしかにぎこちない文字が刻まれてあった。


 ナジャは意識して、ゆっくり息をした。


 たとえデビットに読み書きの知識があっても、これは読めなかっただろう。いまとなっては名前を記すときにしか使わない古代天使文字で、『ナァグャャルルア』とあった。


「……グレイは、どうしてこの絵を」

「さあ、詳しいことは教えてくれないけど、フツーに、ナージャさんのこと好きなんじゃない? じゃないとあんな何枚も描かないよ」

「ほかにもあるの?」

「すごいよ。部屋のなかそれでいっぱいだもん。しかもまったく同じ絵なの。でも溜まってくると、まとめて燃やしちゃうんだよね」


 もったいねーの、とデビットは無邪気に口を尖らせる。


 ナジャはめまいを覚えて、ソファーの背もたれにぐったりと寄りかかった。全身から、ねばつくような冷たい汗がにじみ出る。


? そんな可愛らしい感情じゃない……くり返し同じ人の絵を描いて、最後にはまとめて燃やすだなんて。それに、この絵は……この、心臓は——)


 白を基調にして描かれた天使の胸もと、ひときわ目を引く赤い果実。林檎と柘榴をかけあわせたような見た目をしているが、ナジャはこれが天使の心臓であるとすぐに気づいた。


 オグルに何度も説明されてきた。

 恋をした天使は、心臓を持つ。

 果実のかたちをしているというそれは、口にした者の願いをなんでも叶える。ただし、心臓を食べられた天使は命を失ってしまう。


(……この絵のナージャは、たぶん前任者。オグルははっきりとは言わなかったけど、やっぱり彼女は恋をして死んでしまったんだ)


 終末と創世の狭間で命を落としたという彼女。幾千も昔に消えたその姿を、なぜグレイが絵にできるのか、もしもナージャの恋の相手が彼だったならば見えてくるものがある。


「……ねえ、デビットくん。グレイっていつからこの街にいるのかとか、知ってる?」

「え? さあ、昔からいるって言ってたけど」

「彼って、いま何歳なの?」

「えー、彼女のお姉ちゃんが知らないのに、俺が知ってるわけないじゃん」


 彼女ではないと、訂正することすらどうでもよくなるくらい、少女は疲れきっていた。頭を駆けめぐるありえない想像を、否定することができない。


(あの男は、天使の心臓を食べて、創世からずっと何千年も生きつづけてきた……?)


 ナジャは口もとを押さえながらうつむく。

 そんな彼女を、額縁の中のナージャは微笑みを浮かべて見上げている。


(……もしそれが真実だったとして)


 頭の芯が冷える。


(彼があたしに近づく理由は……?)


 唐突に、入り口の扉が開けられた。

 デビットの言ったようにノックも声かけもなく、彼は隠れ家の中まで入りこんでくる。


「さすがデビットくん、いい手際だったよ。はいこれ報酬」

「別に」


 キャスケットと共に、小さな布袋がデビットに投げ渡される。


「あれ、その絵なんで」


 大股に近づいてくる足音。

 すぐそばに革靴が見えても、ナジャは顔を上げられなかった。


「ったく、ほんとに手癖が悪いな」

「いーじゃん、どうせ燃やすんだろ」


 なおもうつむいたままでいるナジャの前で、膝が折られる。よっと、とわざとらしく声を出しながら、黄昏色がのぞき上げた。


「顔色悪いな。大丈夫か、ナジャ?」


 気遣いを模した目に、鋭利な光がはらむ。

 そっと浮かべられたのは、ナジャの疑いをあえて肯定するような挑発的な笑みだった。

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