第6話 住民税

 天使の窓をほどいて、ナジャはその手で額をぬぐった。まつ毛までしたたるほど濡れていたのは、水蒸気のせいばかりではない。


 ならうようにグレイとジョセフも額をぬぐい、メルクもハンカチを首もとにあてた。


 じっとりとした沈黙がおりる。周囲の喧騒が、大袈裟なほど尖って彼らの耳を突いた。


「……ちょっとって、具体的には」


 懸命に口を開いたのはジョセフだった。

 ナジャはななめ下へ俯き、指を三本立てる。


「三週間、とかか?」

「……三……分」


 メルクがハンカチを落とす。ジョセフが絶叫の用意のために、大口を開けて息を吸った。


「待て、汽車が出たのはついさっきだ」


 すかさずグレイが片手をひらいて指摘する。黄昏色に伶俐な光を混ぜ、みずからに意識を向けさせるよう、パニックになろうとするナジャたちの目をゆっくり視線でなぞった。


「あれはたった一本でオルランディアを巡っている。一周するのに二時間近くかかるはずだ。そんな短時間で戻ってくるはずがない」

「あ、あたし、嘘は言ってないよ」

「ああ。そんなことは疑ってないさ」


 グレイだけではなく、ジョセフとメルクも疑いのまなざしを向けることはなかった。ナジャはひょうし抜けして、肩を落とす。


「……じゃあ、天使の窓に映ったあれは?」

「とりあえずじきに三分が経過する。みんな、さっきの方角を見て……五、四、三」


 いきなりはじまったカウントダウンに急かされて、ナジャたちは慌てて空をあおいだ。

 すぐに数字はゼロになるが、そこからしばらく経っても黒塗りの巨体は現れない。どこかで爆発があったような音も聞こえない。


 胸を撫でおろしながらも、釈然としない思いでナジャは首を傾げる。たしかに天使の窓は、ほんの二、三分あとの光景を見せるもののはずだった。使いどころがとくにないのでそう頻繁にのぞくことはなかったが、まるきり使ったことがないわけでもない。視えた未来が外れたことはこれまで一度もなかった。


「ナジャ、それを地上で使うのははじめてなんだろう。もしかしたら、君がいた天界とここでは、なにか条件が違うのかもしれない」


 天界と地上の違い——

 はっと、ナジャは小さく息を吸った。


「……時の流れ。天界の一週間が、地上だとだいたい二年くらいになるみたいなの」

「一週間で二年……それなら、三分だと五時間ほどか。なるほど、ありそうだぞ」


 地上における天使の窓が、およそ五時間後の未来を視せるものと仮定するならば。


「五時間後……七時はちょうど、仕事帰りの人たちで列車が満員になるころです……」


 蒼白としたメルクが呟く。


「だっ、だめ! なんとかしないと!」


 地上を管理する『天使』としての衝動なのか、これまで意識してこなかった彼女自身の性格によるものなのか、少女の足は突き動かされるように地面を蹴り出していた。


 しかし数歩と行かず、ちょうどこちらに向かって歩いてきていた人物に激突してしまう。


「ぎゃッ」


 硬いゴムのような胸筋にぽーんと弾き飛ばされるが、すぐさま弾き飛ばした主の分厚い腕が伸びてきて、引っぱり起こされる。


「なんと、羽のような……」


 威厳のうかがえる壮年の男性だった。

 メルクの髪よりもさらに赤い、めらめらと燃える炎のような髪を後頭部でまげにしている。

 彼は生まれたての赤ん坊をうっかり踏みかけてしまったような顔をしてナジャを見おろした。


「ぜひ肉を食べたほうがいい」

「あ、あたし天使だから、そういうのは」


 そんな場合ではないと思いながらも、律儀に応えてしまう。焦る心情のままに視線をうろつかせる少女を、赤髪の男はじっと見つめた。


「天使……ならばやはり貴殿が塔の主か」

「うん。ナジャっていうの。それで、悪いんだけどあたしいますっごく急いでて……」


 それだけ早口で告げると、軽く頭を下げて、さっと彼のわきを通り抜けようとする。しかしその後ろにももう一人男が立っていて、行く手を阻むように立ち塞がれる。


「天使? 翼も輪っかもねーじゃんか」


 無遠慮にのぞきこんできた彼は、真っ青な髪を逆立てて整髪剤でカチコチに固めていて、眉毛はなく、つきだされた下唇には銀色のピアスが二つついていた。

 赤髪の男とは対照的ないでたちなのに、彼らは揃いの真っ白なスーツをまとって、襟には同じデザインの四色の円をかたどったピンをつけている。


「ギェ……町長ズ……」

「よぉジョセフ。元気に漫画してっかよ」

「びいいいッ!」


 メルクの背中に隠れるジョセフに、青髪の男が楽しげにちょっかいをかける。


「我はグラン=ドーシュ。ここ中心街ナツネグの町長を任されている。青髪の彼は、ネク=ロザリー。旧市街ペルポネの町長だ。我々は貴殿に、住民票をどちらに置くか決めてもらうために来た」

「じゅうみんひょー」

「そうだ。あの塔は、中心街ナツネグ旧市街ペルポネどちらの空にあるのか、判断が難しい。そのため貴殿にどちらの住民となるか選んでもらい、今後はそれに応じて、住民税を払ってもらう」

「じゅうみんぜー」


 天界には住民票も住民税もなかったが、文脈から言葉の意味は察せられた。

 単純に、なぜそんなものを課せられなくてはならないのかという疑問で首をひねる。


「えーっと……あたしべつにここに住むつもりないし、しばらくしたら出ていくよ」

「ではそれまでのあいだ、どこに属するか決めてほしい。中心街ナツネグを選べば、たくさんの肉と、蒸気機関車乗り放題券を進呈しよう」

「あっ、モノでつるのはずりぃぞオッサン。んじゃ天使、オレんとこの旧市街ペルポネを選んだら、住民税はタダにしてやってもいい」

「ネク、そういう優遇は、ほかの住民に示しがつかないからやめたほうがいい」

「ウッセー。オレんとこの問題だ、口出しすんな肉肉オヤジ」


(だめだ、全然あたしの話聞いてくれない)


 勝手に言い争いをはじめながらも、二人の町長はナジャの前からびくとも動かない。

 大きな壁を前に途方に暮れたときである。


「あ、UFO」


 ぱっと、グレイが空を指さした。


 つられて見上げたナジャは、うす汚れた雲を背景に、青白く光る円盤のようなものが浮いているのを見つける。


「君までつられてどうするんだよ」

「えっ、」


 両足が宙に浮いた。

 胴にグレイの腕がまわされていた。またもや小脇に抱えられたのだと気づいたときには、視界はすでに空の上にあった。

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