中心街
第4話 奇妙な住民
天から逆さにぶらさがる灰白色の塔——その全貌があらわになると、どこからともなく暗雲が立ちこめてまた青空を塗りつぶした。
蒸気の熱と湿気が閉じこめられる、暗くて蒸し暑いオルランディアの日常が戻ってくる。いつでも燦々と陽を浴びる天界とは大違いだと、グレイに抱えられて空をおりながらナジャは思った。しだいに濃くなる煙は、意外にもひどい悪臭というほどではなく、煮詰めた果実のような甘ったるさがあった。
「それで、君はこの薄汚れたオルランディアにどんな用で?」
「べつに、たまたま下塔したのがここだったってだけ。特別この街に用があるわけじゃ」
うっかり終末の話など漏らせば、地上は瞬く間にパニックだ。本当はなに一つ答えてやりたくなかったが、翼を人質に取られている以上そうもいかないので慎重に言葉を選ぶ。
(うまくいけば、塔に回収するもののヒントをもらえるかもしれないし……)
「……あー、あたし、地上のことを勉強してて。地上にしかない『価値あるもの』を探してるの。記者ならなにか心当たりない?」
「価値あるもの……?」
ゆっくりとした下降で、グレイのバイクは
石畳の上にナジャをおろしたあとで、自称新聞記者はきょろきょろと周囲を見渡して、「あ」と指をさす。広場に隣接するその建物は、手のひらで上から押しつぶされたように横広で、いくつもある扉からは大勢の人がせわしなく行き来する。
「蒸気機関車とか」
「……キカンシャ?」
「そ、乗り物。俺のバイクほど高くは飛ばないけど、あの大きさの鉄塊が空を駆けるってのは、それだけでロマンだね。——お、ほら」
建物の奥から、夜を塗りかためたように真っ黒で横長の鉄塊が、うす墨色の煙をまとわせて飛び上がった。翼もないのにぐんぐんと上昇して、
ナジャはすっかりあっけにとられて、口を開けたまま、彼方へと消える黒を見送った。
「……こ、ここでは、翼がなくても空を飛ぶのがあたりまえなの?」
「あたりまえってほどじゃない。機関車が飛ぶようになったのも、空飛ぶバイクが売り出されるようになったのもわりと最近だよ。モードリ=レイクハーンっつう、超絶金持ち野郎が金を出して、どっかの技術者に開発させたって話だぜ。特許ごと買い取って、ものの数年でレイクハーンは大商家だ。もといたでっかい邸宅と妻を捨てて、さらに豪華なお屋敷に新妻とお引越し……なんて、天使サマはゴシップには興味ないよな。この街の大抵のやつは、こういうので盛り上がるもんだが」
しらじらとしたナジャの視線に気づいて、グレイは話を軌道に戻す。
「……ま、飛べるには飛べるけど、彼らの技術じゃあ君の塔までは遠く届かない」
「これは、あたしの塔まで飛んだけど」
ナジャがグレイのバイクを指さして言う。
「言ったろ。彼らの技術だって」
「……ねえ、もしかしてそのナントカハーンって人に技術を売ったのって……」
「さてな。敏腕記者にもわからない真実ってものはあるのさ」
バイクを押して歩きはじめたグレイのあとを、半目で睨みつけながら追いかける。
どんな真実も彼の口を介せば、たちどころに信憑性がなくなるような気がした。
「……蒸気機関車、たしかにすごいけど、人間の作ったものはいいかな」
(たしかどの創世でも、人間は必ず現れたって読んだ気がする。それならわざわざ保管しなくても、どうせまた生み出されるでしょ)
先代の塔の管理人は、好んで人間の文明を保管していたようだった。だがナジャは、限りある保管庫にはもっと貴重なものを入れるべきだと考えた。人間が生み出したものだったとしても、例えばそう、その世界、その時代、その個人にしか生み出せない——
「ああああーッ! クソ! うおおおお!」
思考は唐突な雄叫びに邪魔された。
ナジャは肩を跳ねさせて、あわてて周囲を見まわした。獣が出たのかと思ったのだ。
雄叫びの主は、広場のすみに置かれたベンチに仁王立ちしていた。ひょろりとした針金のような体躯の青年だ。鳥の巣のような頭をかきまわして、いまもなお「ぐおおおお!」だの「むわあああ!」だのと叫んでいる。
「あれなに! たっ、助けなきゃ⁉︎」
「あぁ、この街ではよくあることさ」
おそろしい街だと、心底思った。
ナジャが怯えながら見つめるなか、通りから飛び出したスーツ姿の女性が、鮮やかな赤毛を肩の上に揺らしながら駆けつけた。
「見つけましたよ先生! 原稿は!」
「馬鹿! 大馬鹿ッ! 見ろこの絶望の佇まいを! 聞け俺様のこの苦悶の歌声を! んなもん、用意できてるわけねーだろうが!」
「それならこんなところで騒いでいないで、早く仕事場に戻ってくださいよ! もーほんとに、締切これ以上は延ばせませんからッ」
ギャアギャアと言い合う男女。
ナジャは、なるほど、と手を叩いた。
「痴情のもつれ……」
「違うんじゃないかな」
「でもあのひと『先生』って言ってたでしょ。きっと教師と生徒の禁断のラブストーリーなんだよ。あたし漫画で百ぺん見たもん」
「——漫画だと?」
もじゃ、と濃紺の髪が割りこむ。
いつの間にか『先生』こと鳥の巣頭の青年が、ギンギンと充血する真っ赤な目を前髪からのぞかせてそこにいた。あごにぎゅっとしわを作りながら、彼はナジャを問い詰める。
「おい小娘。なんの漫画だ。誰の漫画だ。貴様が百ぺん見た! それは! ドコのドイツの! 俺様以外の漫画なんだッ、吐け!」
「先生やめてください!」
「え、えっと……」
赤毛の女性に首根っこを引っ張られながらも、男は噛みつかんばかりの勢いで迫りくる。ナジャをかばうようにグレイが割り込もうとしたが、彼にかばわれるほうが癪で、少女はおずおずとみずから進み出て答えた。
「ジャックロウ先生の『あした雨』とか」
「ア、名作……」
「リリカル先生の『ここしかない』」
「わかりみが深い……」
ようすがおかしい。
「でもいま一番好きなのは、ジメジメハリネズミ先生の『ときめき♡すとらぐる』……」
「えっ、おっ、オァッ」
いきなり言語を失った男は、耳まで真っ赤になった顔を両手で覆い隠して、呟いた。
「しゅき……結婚して」
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