吸血鬼の孤独と硝子玉の少女

空峯千代

第1話 るなと吸血鬼の神隠し

 私の心は、ずっと絵本の中にあった。

 どんなにつらいことがあっても、空想の世界に入れば自由で豊かだったから。

 ただ、本当に「絵本の中」みたいな世界に入ってしまうなんて。

 その時の私には、思ってもみなかった。


 眼鏡のレンズ越しに見えた視界が揺らめいて。

 そうしたら、そこに無かったはずのトンネルが見えて。


 オレンジの絵の具をこぼしたような空、蝉の鳴き声が響く中、私は見知らぬ場所に立ち入ってしまった。



 あれは、学校帰りのこと。

 どうしようもなく家に帰りたくなくて、でも行きたい場所も行く当てもない。

 このまま、ふっとどこかへ消えてしまいたい。

 夏の香りに誘われて、いつの間にかどこかに攫われてしまえたら。

 そんなことを考えていた時だった。


 通りかかった公園に、見たことのないトンネルがある。

 学校帰りにいつも通る道なのに、今まで一度も見たことがない。

 それとも、私がこれまで気付かなかっただけなのか。


 不思議に思いながらトンネルの向こうを覗くと、さらに道が続いているみたいだ。

  私はその先が気になってしまって、 なんとなくトンネルの向こうへ歩いてみることにした。


 外の熱気は夏らしいのに、トンネルの中は薄暗くてひんやりとしている。

 さっきまで聞こえていた蝉の声は、もう聞こえてはいなかった。

 しばらく歩いていると、光が差し込んできて驚く。


 視界が開けたかと思うと目の前には緑が広がっていて、そこには立派な大木が一本そびえ立っていた。


 驚いた光景はそれだけじゃない。

 大木の向こうに見たことのない生きものがのしのしと歩いている。

 その生きものは、頭は狼で人間のような身体、それでいて尻尾が生えている。

 …まるで、絵本の狼男みたいだ。


 私は決して狼男に見つからないように、大木の陰で息を潜めた。

 きっと、見つかったら恐ろしい目に遭うことだけは考えなくてもわかる。

 私は震える身体を抱きしめた。

 

 どうか見つかりませんように…!!


 そう祈っているうちに、狼男はどこかへ歩いて行った。

 こんなところにいたら殺されちゃう…。

 狼男が全く見えなくなってから、私はトンネルがあった場所へとすぐに戻る。

 草むらを音が立たないように、静かに移動して、元の場所を目指した。


 ところが、そこにトンネルはない。

 初めから何もなかったみたいに、森が続いているだけだ。

 私は、よくわからなくなってしまった。

 もしかしたら、悪い夢を見ているのかもしれない。


 すると、突然誰かに肩を叩かれた。

 いきなりのことに、短く悲鳴をあげてしまい、驚きと不安が混ざる。


 振り向くと、綺麗な長身の男性がこちらを見下ろしていた。

 外見が驚くほど整っていて、顔立ちは彫刻みたいにハッキリしている。

 けれど、芸能人とはなんだか違う。色が白くて、あまりにも瘦せていて、まるで人形のような得体の知れない美しさだった。


「おまえは人間だな」


 私は、彼の言葉に頷く。


「ならわかるだろう。ここはおまえの来る場所ではない」

「でも、帰り道がわからないの」


 彼は考えるように、腕を組んだまま黙ってしまう。


「なら仕方がない。私も元の世界に戻る道を探してやろう」


 なんで見ず知らずの私のために?

 そもそも本当に信用できるの?


 いろんな考えが頭に浮かんでは消える。

 それでも、この場所で頼れる人(?)は彼しかいない。私は大人しく彼に協力してもらうことにした。


「私の名はイリヤだ。おまえは?」

「るな」

「では、るな。ここはおまえにとって安全な場所とは言えん。生きて帰りたいなら、私から離れぬことだ。」


 それから、イリヤは私の前を歩きながら一緒にトンネルの場所を探してくれた。

 不安なことに変わりはない。けれど彼の背中を見ているとなんとなく安心できる。

 何があってもどうにかなりそうな、不思議な心地良さがあった。


「そもそも、どうやってここに辿り着いた?」

「…学校の帰り道で公園に寄って、そうしたらいつもは見かけないトンネルがあったから。気になって入ってみたの」


 イリヤは、ニヤリと微笑を浮かべた。


「それは面白いな」

「なぜ?」

「トンネルを見つけたということは、魔界に縁ができたということだからだ」


 どうやら、私が入り込んでしまったここは「魔界」というらしい。

 人間界と魔界を繋ぐトンネルは、強いエネルギーを持つものでなければ、見つけることさえできない。

 だから学校の帰り道に公園へ引き寄せられていた私は、その時点で魔界と縁ができていたそうだ。


「こちらの世界に辿り着くとは、よほどの負の感情を持っていたのだな」


 ドキリ、と胸が痛くなる。私は思わず、イリヤの顔を見た。


「なんだ、図星か?」


 彼の美しい顔が、その瞬間とても恐ろしく見えてしまった。

 夜空のように深い藍の瞳が何もかもを見透かしている気がして、たまらなく怖い。

 私は青年の姿をしている彼が、この世のものではないことを本能で理解した。


「感情のエネルギーが高まると、ごくまれにこちらへ迷い込む人間がいる。そして大抵は負の感情の持ち主であることが多いんだ」


 おまえもそうなんだろう、とイリヤが尋ねてくる。私は彼の言葉に頷いた。

 ここに来る直前、私は消えてしまいたいとすら思っていたのだから。


「中学校も、家に帰るのも嫌で…。だからどこかに攫われてしまいたいなって、つい」


 言わなくてもいいことを話してしまった、そう思った。

 けれど、イリヤは「そうか」と一言だけ言ってそれから何も話さなかった。


 しばらくして、最初に見た立派な大木が生えている場所まで戻ってきた。

 いつの間にか、折り返していたみたいだ。


 イリヤは大木にそっと触れて、こちらを向く。


「これは吸血鬼の最後の姿だ」


 彼が言っていることの意味がわからなかった。

 しかしイリヤは続ける。


「吸血鬼は強大なエネルギーを持つ。だからその身体が朽ちるまでに長い年月がかかるのだ。そして身体が完全に朽ちれば自然に還ることになっている」


 この木のように、と大木を撫でる彼の表情はなんだか切なかった。


「私もいつかはこうなる」


 その目はまるで大木を羨んでいるように見えた。

 どうやら、イリヤの正体は吸血鬼らしい。


「…私の血を吸うの?」

「吸われてみたいか?」


 イリヤはいたずらっぽく笑ってから「冗談だ」と答えた。

 イリヤ曰く、もともとは血を吸っていたけれどあまりにも長く生き過ぎたため血を吸わずに寿命を縮めているのだそうだ。


「血が飲めなくてつらくはないの?」

「なんてことはない、今はもう慣れてしまった」


 ひょっとして、イリヤも消えちゃいたいのかな。

 ちら、とイリヤの方を見る。イリヤは表情を変えずにもう前を向いて歩き出していた。


 草むらをどかしては大木を見つけて、また違う方向に歩くとなぜか大木が目の前にある。

 そうやって、何度も何度も歩いては同じ場所に戻って…を繰り返した。

 私とイリヤはお互いに顔を見合わせる。流石にこれはおかしい。いくら歩いても同じ場所に戻ってきてしまうなんて。


「これは、おそらく妖精のしわざだな」

「妖精?」

「人間をおどかすいたずら好きだ」


 イリヤは息をふっと吐いた。

 すると息は小さな竜巻になり、辺りの草むらを吹き飛ばしてしまう。

 よく見てみると竜巻に羽の生えた人の形をした生きものも巻き込まれていた。


「ほら、あれがそうだ」


 妖精は、竜巻の勢いが弱まるとヘロヘロになりながら逃げて行く。

 ちょっと可哀想だな…。

 そう思っていると今度は別の草むらから、妖精が現れた。


 竜巻に巻き込まれてしまった子とは別の妖精みたい。

 羽をパタパタと動かして妖精は手のひらに乗ってくる。あまりにもそのしぐさが可愛らしくて、私は油断してしまっていた。


 「えい」


 妖精は、私に人差し指を向ける。

 その瞬間、ぐわんと視界が揺れて真っ暗になった。


 イリヤの声がぼんやりと聞こえる。それなのに返事はできない。

 やがて意識は曖昧になり、崩れ、沈んでいった。


『あそぼ、あそぼ』

『あそぼ、あそぼ』


 頭の中に声が響く。

 声は子供みたいなのに、どこか不気味だ。

 目を開けると、そこは真っ暗だった。

 気づくとクラスの子や母が私を取り囲んでいる。


「るな」

「るなちゃん」

「ひとりじゃなにもできないでしょ」

「どこにもいけないよ」


 クラスの子や母は、私の腕をものすごい力で掴んだり引っ張ったりする。

 みんな本物じゃない。きっと偽物だ。


 そうとはわかっていても怖い。みんなが怖い。クラスの子も母も。

 私はなんとか腕を振りほどいて、化け物たちから逃げた。

 どれだけ進んでも真っ暗だ。何も見えず先があるのかもわからない。


 私は逃げたくて必死に走った。

 心臓が早鐘をうつ。肺が痛い、足も痛い。怖い。何もかもが怖い。

 走っているうちに、とうとうつまずいてしまって化け物たちに追いつかれる。

 また腕を掴まれて必死に振りほどいた。掴まれたところが痛い。これは夢じゃない。…私、このまま終わっちゃうのかな。


「るな!」


 どこかからイリヤの声が聞こえる。


「イリヤ! どこ!?」

「私はそちらにはいない! 代わりにこれを受け取れ!」


 イリヤの声がして、足元を見る。

 すると、そこには真っ赤な剣があった。

 太陽の装飾がされた細身の剣は、本の中で見た西洋の剣に似ている。

 赤い剣を拾い上げ、持ち手を握りしめる。そして剣をかまえ、目の前にいる化け物たちに振るった。


 剣を受けた化け物たちは「かなしい」「かなしい」と声をあげて消えていく。

 視界が完全な暗闇になり、次に目を開けるとイリヤが手を握っていた。


「目が覚めたか」


 イリヤは私の手を離して、今度は額に手を当てる。

 やっぱり体温を感じられない、つくりものみたいな肌。それなのに彼の手の感触がどうしようもなく有難かった。


 どうやら私は別の妖精に幻覚をかけられてしまったらしい。

 自分が幻覚を見ている間、イリヤがエネルギーを私に流してくれたらしかった。


「あの…ありがとね」


 イリヤの顔を見て、気持ちが伝わるようにとお礼を言う。


「ああ、こちらこそ」


 イリヤは優しく笑いかけてくれた。


 それから、トンネルを見つけるまでは早かった。

 大木のある場所をまっすぐ進めば、元来た道にすぐ戻れた。


「ここまで一緒にいてくれてありがとう」


 私はイリヤに向き直って、もう一度お礼を言う。


「こちらこそ刺激的で楽しい時間だったさ。今後は気を付けろ」

「うん、本当にありがとう」

「それから、トンネルを進むときは絶対に振り返るなよ」

「わかった」


 最後に、とイリヤは言う。


「縁があればまた会おう」

「うん、またいつか」


 イリヤに一度だけ手を振って、私はトンネルの中を進んだ。


 一度だけ振り返ろうとしたけれど、思い返して止める。

 彼の言葉に従って、振り返らずに真っ直ぐ歩いた。


 薄暗くてひんやりとしたトンネルの中。

 次第に蝉の声が聞こえてきて、外の光が差し込んできた。

 トンネルの外は、元の公園だ。


 後ろを振り返ると、もうそこにイリヤの姿はなかった。



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