心臓をあげる
世界にはこんなに静かで、寂しい場所があるのか。こんな場所が震災後の福島だったのかもしれない、と、堅いベンチにだらりと座ったまま不遜なことを考えてしまう。ぽつぽつと僅かに灯りが点るだけの薄暗い廊下が避難所にもよく似て、写真でしか見たことがないはずなのに、こんな匂いを何処かで嗅いだことがある気がした。冷房が効き過ぎていて、夏用の制服には寒く、鳥肌がぶわっと二の腕に泡立っている。歯ががちがちと鳴った、のは、寒さの所為じゃない。ただひたすらに、怖かった。わたしは何も分かってなかったんだな。そう思った。福島のことも、震災のことも、家族のことも、わたしのことですらも。分かってないことを分かってなかった。馬鹿だ。責めたかった、あるいは、謝りたかった。その代わりに、祈っていた。手をいつの間にか組んでいて、額を両の拳に当て、目を瞑り、
「神様……」
と細い息を切るように唱えた。誰かに話せるとすれば、或いは、尋ねられるとすれば、今はスマホしかなかった。震える指紋で不器用にロックを解除し、誰に連絡すれば良かったのか、春子か、恋か、愁香さんか、福島の、尼崎の誰かか、何処にもいない。たったひとりを除いては。わたしはインスタを立ち上げた。ライブを開始する。夏休みの夜更け、退屈な時間帯だったんだろう、すぐにインスタ上でのみ名前を知る何人かが現れた。散々と不義理をしていたくせ、わたしがまだこんなに求められていることに驚く。
「えーと、こんばんは、夏美です」
わたしにはハンドルネームがあるのだが、今は本名で話したいと思った。いつもなら、取り留めのない話すことがすらすらと出てくるのに、今日はもどかしい。にも関わらず、話したいことは明確だった。
「いま、福島に来てます」
多分、言いたいことが言えてる。インスタの向こうの空気が変わった。アンチフェミニズムの言動で有名なYouTuberが炎上した時「言いたいことを言えば世界は動く」と開き直っていたのがあの頃は許せなくて、でも今は許されたい。
「福島は、すごくいいところです。海がきれいで、魚がおいしくて、いや、そんなところどこにでもあるやろ、って感じなんだけど」
いや、言いたいことは他にあっただろ。わたしは尼崎に住んでいるくせ、普段は標準語なのだが、本心にないことを言う時は関西弁になる癖がある。いつもインスタで話す時もそうだった。関西弁で話せば、好きなように話すことができる。けれどそれは、言いたいことではなかったし、言うべき本当のことは何処にもなかった。もっと本当の言葉を。福島の言葉を。
「ふぐすまは、いいとこだっぺ」
そうじゃないだろ。派手に滑った。それなのに、聴いてくれてる人が増えていく。二万人を越えた。わたしにはこんなにフォロワーがいただろうか。いや、この人数は、と、唾を呑み込む。
「それでわたしは、ふぐすまに、福島に来て、なんで来たかっていうと、家族がいて。生き別れの家族が。いやこれ、ほんまなんですよ。いや展開ベタかいって感じなんだけど。あのね、わたしの両親は、血のつながった本当の両親ではなかったんです。でもすごくいい人で、それも友だちみたいな感じだったから、それでショックは受けてないというか、そりゃそうだよね、って感じなんだけど。で、本当のお母さんは福島にいて、うん、血のつながりを感じますね。お父さんはありがちというか、津波にさらわれて行方不明です」
不器用に、でもできるだけ丁寧に、喋っていく。聴いてる人はいつものような、もっと明け透けな女子高生らしいトークを期待していただろう。例えば生理ナプキンを忘れた時の失敗談ならいくらでも話せた。けれど、かつて被災地だった福島でそんなことを話したら、「そんなこともあったよね」と、誰も笑ったりしない。じゃあ何を、誰に話せばいいのか。わたしは頼りない糸を手繰るように、恐る恐る、言葉とその行く宛を探していった。
「それでわたしは、福島に来て、弟に会えました」
口から洩れた声の冷たさに驚く。
「運命の再会っていったらそうなのかもしれないけど、ぜんぜん、かわいい弟じゃなかったですね。まあそのへんも、ありがちなのかもしれないけれど。生意気で、口汚いし、すぐ手が出るし、まあそのたびに反撃してやるんだけど、ブレーンバスターで」
はは、と笑った。可笑しくなかった。何一つ、可笑しいことなんてなかった。
「……もっと、かわいがればよかった」
決壊したかのように、わたしは思うままをぶちまけた。ちっとも言葉になってなかっただろうけれど、やっと言いたいことが全部言えた。冬馬のばか、ぼけ、くそやろー。心臓の欠損ってなんだよ。このままでは中学校に上がれないってどういう意味だよ。アメリカでしか手術できない? 費用が三億円かかる? アホか。わたしがクラファンで集めようとしてるのはたった一千万円で、しかも全然届いてねえよ。三億円手に入るんなら、ハメ撮りでもパパ活でもやってやんよ。そのために処女を捨てるのなんか屁でもねえよ。でも、無理なんだよ。無理に決まってんだろ。わたしは無力だ。わたしがあの時、死ねばよかった。わたし、冬馬に何をした? オナニーを覗いて、ぶん殴って、さんざん罵って。謝るよ。謝るから、帰ってきてよ。わたしの心臓あげてもいいから。
「なじょだらっ!」
弾かれたように立ち上がり、赤いランプがついたままのICUの鉄扉に思い切り頭を打ち付けた。
「なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ!」
忘れたい。忘れたい忘れたい忘れたいんだよ。今わたしはやっと福島の人の痛みが分かった気がした。いや違う。わたしが、福島の人だったんだ。春子はその言葉を使わなかったけれど、福島で震災を体験したわたしだって、震災で心臓の欠損を持ったまま産まれた弟を失おうとしているわたしだって、被災者であることをふいに去来した諦念に思い出した。あの時は簡単に忘れることができたのに、今はできない。それが十年の長さなのか。忘れたい。ではなく、忘れない。でもなく、忘れられない。の痛みを思い知る。いや、こんなもん痛くなんてなかった。叩いても叩いても扉は開かなかった。わたしはやがて力尽き、扉に寄りかかるようにして深い眠りに落ちた。漠然とした意識の中、波の音がした。波に浚われていくわたしの体を感じた。
(おおい、夏美ぃー)
声がした。
(冬馬のことは、任せたぞー。まだこっちにゃ来させんじゃねえぞぉー)
とても優しい声だった。
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