奇跡の子

「ああ、やっぱり夏美、覚えてないんだね」

 電話の向こうの春子の声は何処かほっとしているように聞こえた。昨夜は酔い潰れて電話ができなかったから、春子は愁香さんと違って朝が早いし、起きてすぐ電話を掛けたのだった。福島の日本酒はやはり上等なのだろう、あれだけ飲んでも二日酔いは全くなく、下ろし立てのショーツを履いたときぐらい頭はすっきりしていた。

「あの震災のとき、夏美はまだ福島にいたんだよ」

 教えられて、ぴんとこない。わたしはあの頃、小学生だったはずだが、尼崎でも僅かに揺れたはずの地震を体験したのではなかったか。当時のことを思い出そうとすると、頭の中にくろい靄がかかってしまい、何も思い出せない。わたしは何を忘れてしまったのだろう。

「でね、お父さん、というのは恋のことじゃなくって、夏美の本当のお父さんという意味なんだけれど、津波に巻き込まれたでしょう。これはそっちで聞いたかな。そのときはもう愁香のお腹のなかに冬馬くんがいたから、育てられないなって、夏美はうちで引き取ることにしたの」

 言われたことの何ひとつリアリティがなかった。いや、リアリティがない、という空虚感こそ、あの頃のリアリティなのか。

「尼崎に来た頃の夏美はね、ひどい状態で、病院でも解離性障害って診断されたし、わたしにも恋にも全く心を開かなくて。でも、津波に巻き込まれても生き残ったから、奇跡の子、って呼ばれてたんだよ」

 何というださいネーミングセンスだ。笑ってしまった。たぶんそういうふうに、笑わせてくれたのが春子だったのだろう。笑わせてくれた。育ててくれた。母親、という在り方とはちょっと違ったかもしれないけれど、誰よりも傍にいて、可笑しいときはいっしょに笑ってくれた。

「でね、夏美が尼崎に来て一ヶ月した頃だったかな。愁香と電話で話したとき、私、電話口で号泣しちゃったの。あのときは愁香も避難で大変だっただろうし、お腹の子のこともあったし、不安でいっぱいだったのは愁香のほうだろうに、ひどいと思うんだけど。でも、私も子育ては初めてだったしね、ミルクの飲ませ方ひとつ手探りだったし、あれだけ大見得を切って夏美を引き取ったわりに、君にも悪いことしたなと思う。全部完璧にやろうとし過ぎちゃったんだろうな。恋の手助けも半ギレで断って。それで息が切れちゃって」

 うん、と頷いた。そのシーンを思い浮かべようと目を瞑る。

「で、愁香が尼崎に来てくれたことがあってね。それで、ちょっとだけ夏美の面倒を見てくれて、そのあとようやく、夏美は私にも恋にも心を開いてくれるようになったの。やっぱり本当の母親ってすごいんだな、って思って。いいのかわるいのか、私の肩の力が抜けた。私には私の夏美との向き合い方があると思えたの」

 そうだ、福島に向かっているとき、電車の中で夢に見たシーンではなかったか。多少記憶が混線してはいるけれど。むしろ、あれ以降の記憶だけがわたしにはある、といったほうが正確かもしれない。愁香さんには感謝している。でもそれ以上に、わたしは春子に感謝している。

「……わたしのお父さんって、どういうひとだった?」

 尋ねてみた。それを知ったからといって、何が変わるわけではないけれど。わたしは彼を、悼まないといけない気がしたのだ。

「すごく顔のいい人だったよ」

 まず春子はそのことを教えてくれた。

「じゃあそれ、わたしにも遺伝してるね」

 口を滑らせれば、電話の向こうで春子が笑う。他にもたぶんいろんなものをわたしはお父さんに貰ってる。目元とか、耳のかたちとか、嘘をつくときの癖とか。そんなことをひとつひとつわたしは再発見していくに違いなくて、そう思えば、生きることが慰霊で、再会なんだろう。周りの女子に死にたがりは多くいた。カラフルな薬を机の上に並べて種類や量でマウントを取ったり、ファッションみたいに手首の傷を自慢し合ったり、有りがちな思春期女子特有の慣れ親しんだムードがいきなり息苦しくなる。わたしは、生きたい。だって、生きることは、生かすことに他ならない。

「そして、立派な漁師だった。あの町にはね、津波が来たとき、男は船を沖に逃がす、女は子を山に逃がす、という教えがあったの」

 そのことはわたしも調べたから知ってる。津波は陸地でもオリンピックの短距離金メダリストぐらいのスピードがあり、だから津波を見てからでは逃げられない、と教えられるわけだが、沖ではジェット機ぐらいのスピードがあり、前の波に追いつく重ね合わせの原理でどんどん振幅が膨らむのだという。港で津波を喰らえば船は為す術なく呑まれるから、それよりも早く沖に脱出しないといけない。

「間に合わなかったの?」

 乾いた声で尋ねる。それを知ろうとすることは、お父さんには申し訳ないが、悲しいより怖かった。

「君のお父さんはね、その教えに背いたんだよ」

 そう言った春子の声のほうが乾いていた。

 お父さんは、すぐに船を出すのではなく、できるだけ多くの人が船に乗れるよう、埠頭で待ったらしい。今は津波に浚われて何もない町だが、当時は漁港と魚市場を中心にちょっとした集落が開けており、戦災を免れた古い商店街もあったりして、お年寄りが多かったのだという。痺れを切らしたお父さんは町中を駆け回り、地震に腰が抜けて動けないお年寄りを背中に乗せ、船まで運んだ。タイムリミットのぎりぎりまで、いやそれを越えてすらも、お父さんは自然に抗おうとした。轟音を響かせながら沖に迫る山のような第二波に、船はやがてお父さんを見捨て、出航せざるを得なかったという。

 三十六人。お父さんが船に乗せたことより助かった人数だ。もしお父さんがいなかったら、地震の死者・行方不明者は三十六増えていた。少なくはないんだろうが、それがお父さんの命と引き換えだと考えれば、多いといっていいのかも分からない。

 津波に呑み込まれる直前、お父さんが春子に送ったラインがあるという。転送して、とすぐに訴えたが、わたしのスマホはしばらく電源が落ちてしまっているのだった。春子には、その転送のほか、スマホの充電器を送ってくれるよう頼んだ。それと、お父さんの名前を尋ねた。「海」が「晴」れる、と書いて、かいせい、と読むのだという。いい名前じゃないか。春子はちょっと、海晴のことが好きだったらしい。しかしそれ以上に恋は海晴に惚れ込んでおり、震災前、よく福島に来ては強くもない酒に酔い潰れていたそうだ。わたしも海晴を、お父さんを、お父さんを呑み込んだ海を、好きになってもいいのだろうか。恋が福島を訪れているのは、愁香さんを好きというのもあるんだろうけれど、それ以上、海晴の姿を探してるのかもしれないな、と、彼の小説では晴れた海の描写が飛びきり美しかったことを思い出した。

「恋のこと。そろそろ許してみる気になったりしてる?」

 電話の切り際、自然にその質問が口から飛び出した。わたしは、この福島への旅の主役を自分だと考えていた節がある。そうではなく、春子にも、恋にも、愁香さんにも、冬馬にも、それぞれ物語があり、その脇役として登場する自分のことを考える。春子の物語のできるだけ良い脇役でありたかった。尼崎で春子がよく買ってくれたスーパーオオジの半額の刺身のツマのように。尼崎の魚は美味しくて、福島の魚は美味しくて、きっと繋がってる。今わたしは、春子の傷に触れてもいい、と思った。

「私は、恋を引き留めたらいいのか、背中を押したらいいのか、分からない」

 春子の答えに、わたしは咄嗟に、

「決まってんじゃん。バカ」

 と答え、そのまま電話を切ってしまった。唇が震え、頬が熱を持っていた。一連の物語の中で、一番タフなのは、春子の物語かもしれない。もしもひとつだけ選べるなら、わたしは春子のそれにハッピーエンドが訪れてほしい。と、それは春子と話した直後だからそう思っているのかもしれないけれど。冬馬と話せばわたしは彼の幸せを願うし、愁香さんと話せばわたしは彼女の幸せを願うし、恋と話せばお前はもうちょっと不幸になれや、とも思うが、わたしはわたしが幸せになりたいし、そうすることで、みんなが幸せになれるのかもしれない、という、妙な確信があった。

 数日後、春子からの宅配便が届いた。ウィルキンソンの炭酸を箱買いしたものを流用したのか、えらい大きな段ボール箱だなと思ったら、わたしの好きなお菓子ばかりたくさん入っていて、底にスマホの充電器と、春子の誕生日にプレゼントしたマスキングテープで封がされた手紙を見つける。二つ折りの小さな便箋には、春子らしいしっかりした文字で「なにも心配しなくていいから」とだけ書いてあり、後ろめたくなるのは違うから、彼女の優しさに感謝する。スマホをしっかり充電したのち、海に向かった。いつもの海の、砂浜に腰を下ろし、スマホの電源を入れた。レディー・ガガ背景の画面いっぱい見たことがないぐらいたくさんの通知で埋まっており、福島で過ごした時間の長さを思い知れば、随分遠くまで来たもんだという感慨は疲れにもよく似て、何時かの夏に六甲山を縦断したときよりも気持ちいい。友だちからたくさん届いているラインを擦り抜けて春子からの着信をタップした。「今から帰るね。コンビニで欲しいものある?」の後に「ファミマ?豚しゃぶのサラダと低脂肪の牛乳買ってきてくれる?」と遣り取りをしたのが数週間前。次の着信は一昨日。一枚のスクリーンショットには、春子とお父さんが交わしたというさいごの会話が現れていた。3月11日15時51分。春子からの「絶対に帰ってきて。死ぬのは許さない」というメッセージの直後、お父さんからは「絶対帰るから、それまで夏美を頼む」という返事と、現場猫の「ヨシ!」のスタンプが続いた。春子のたった五文字の告白に今も既読は付いていない。

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