ロッコク堂

 ロッコク堂の屋外にある仮設のような狭いトイレの和式便器に難渋して形だけ水を流し、帰りたくないなあ、としばらくトイレを出てすぐの木陰にしゃがんで蝉の鳴き声の主を探しつつクーラーで冷えた体を馴染ませていると、簡素なサッシ窓の向こうに展示スペースを見つけた。なかでカフェと繋がっているようで、どうやらこっちもロッコク堂らしい。カフェにあるメニューはレインフォレストのカエルマークが並び、コーヒー豆はフェアトレードだったしケーキなんかも卵はエシカルのものを使っていたりして、店内にあるポスターや雑誌類には人権擁護の匂いが漂っていたから、きっとリベラルな団体であることは察していた。荒くれのイメージが根強い尼崎も気質としてはリベラルで、市長はしばらく女性だったし、同性のパートナーシップにも理解があり、ずっとそういう風土のなかで過ごしてきたから、わたしも初めての選挙では左寄りの政党に入れると決めているし、現社の授業の模擬選挙で政策比較しても同性婚と選択制夫婦別姓に理解がない党は受け入れがたかったし、人権や戦争に関わる募金なんかのボランティア活動には「意識たっか」「推薦狙い?」と嗤われながらも前のめりで参加した。そういうことをしていると、何だか気持ちが落ち着くのだ。それはインスタの「映え」と対極にあるくせ、何処かで繋がっている。例えばどちらも制服がよく似合う。敢えて泥臭くマズローの欲求段階説を引用するならば、社会だとか他者についての承認欲求なのだ。よってボランティアだからといって綺麗なわけじゃないし、インスタだからといって下品なわけではないけれど、有体にわたしがわたしであるため、自由に根差すリベラルというものを肯定的に受け止めていて、ずいぶんと前向きな気持ちで、愁香さんにたいしてだけ後ろめたく、わたしはカフェの隣にあるそのスペースの引き戸を慎重に開けた。

 そんなに広くはない空間に雑多なものが詰め込まれて見えた。壁中を手書きのポスターが埋め、子どもの運動会ぐらい整列していない長机のうえには本やフリーペーパーの類いが雪崩を起こしている。誰かの部屋みたいだな。と思えば、端っこに置かれたくろい袋にはっと気づく。福島に向かうとき夢に見た、愁香さんのあの部屋に似ているのだ。

「さっきカフェにいた子だよね?」

 振り返ると、髭もじゃのおじさんがこちらも本で埋まったカウンターのような場所のスツールに腰かけていた。カフェの注文を受けてくれたときは阪神が負けた日の春子ぐらい無愛想にしていたのに、今はレンズのない丸メガネの向こうの目尻に柔和な皺が現れている。中学のとき、わたしは幼なじみをリンパ性の白血病で亡くしていて、仲良しだったくせ正直あまり悲しくもなく友だちとふざけ合いながらお通夜に向かうと、そんな軽薄なわたしを受け入れてくれた彼女の父親の表情に似ていた。

「どこから来たの?」

 尋ねられる。どこから来たのだったか。

「アマです」

 と、訊かれたらいつもそう答える通りの模範解答を咄嗟に口にした。

「アマって、尼崎?」

 わたしの曖昧な回答をおじさんは拾ってくれた。よく分かったな。関西圏以外の人にとって、尼崎はそう馴染みのない土地だろうに。

 不器用に頷くと、おじさんは部屋中のポスターをゆっくりと見渡し、

「尼崎も、震災に見舞われた町だったよね」

 と、目を細めた。

 言ったのだ。「も」と。ここに展示されていたものは全て、震災に関わる資料だった。

 いわゆる阪神大震災はもう二十年以上も前。つまり、わたしが産まれるより前だから、物心がついた頃には液状化したポートアイランドも真っ二つに割れた高速道路もすっかり復興が進んでおり、わたしはその爪痕を授業で学んだり社会見学の資料館で眺めたりしただけで、実体験としては知らない。彼は何らかを共有したいように見えたが、わたしはそれをできるだけのものを持っていなかった。少なくとも、言葉では。

 気まずいから、わたしは展示されているポスターだとか本を見て回ることにした。やってみれば、むしろ気まずさは加速する。たぶん、そういう風に気安く触れていいものではなかった。展示は震災のうち、福島に関するものが多く扱われている。かなりのスペースが原発事故に割かれていた。分かりやすく展示されてこそいたものの、わたしにはその内容が分からない。前提知識は恋の小説から摘まみ食いしたものが多少あっても、実感はまるでなかったことに気づく。むしろ、分からないということが分かった。

 気づけば三十分以上わたしは広くないだけに息苦しいほど密度の高いスペース内を知らない水に入れられた金魚のように所在なくうろうろしていたらしい。知りたい、あるいは、知らなければならないと思ったことがいくつかあったのか、それとも、単に気まずさの言い訳をしたかっただけか、震災を記録した当時のフリーペーパーのうち余部があるものをいくつか集め、ハードカバーの写真集を一冊だけ買おうと、値段も確かめずにカウンターに持っていく。

「高校生だよね? 尼崎の高校生から見て、どう、福島は?」

 おじさんは顎髭を摩りながらそう尋ねてきた。尼崎のガテン系を思い出させる気安い口調にわたしも心を許してしまったのか。

「……なんか、わたしがここに来てもよかったのかな、って」

 思ったことをそのまま言ってしまい、すぐに後悔した。言うべき言葉ではなかった。そして、取り返せる言葉ではなかった。けれど、これまで口にしたことがないぐらい、正直な言葉だったのは違いない。きっと彼らが心を込めて選び抜き展示したもののそれぞれが、わたしの言葉を見つけてくれた。たぶんわたしが此処に、福島に来て、感じていたそれを言い表すとすれば、「来てもよかったのかな」という言葉が最も近い。

 おじさんは坊主頭の天辺を平手でぺしっと叩き、舌を出して破顔した。重いはずの言葉をこんな身軽に笑い飛ばしてくれる人がいることに驚いた。

「震災には不真面目に向き合ってもいいと思うよ。俺はね」

 染み渡る。わたしが本当のことを言ったから、彼は本当のことで応えてくれた。そのまま受け取ることはできないし、してはいけないと思い、丁寧に、言葉を選びながら、できるだけ皺のない千円札三枚を突き出し、「残りは寄付してください」と噛みながら伝えた。写真集は二千円だったから、寄付できたのは僅か。それなのに、彼は後頭部のへこみが分かるぐらい頭を深く下げながらジーンズの生地で拭った両手で受け取ってくれて、微かに触れた親指を通じ心のなかがほんわかと温かくなった。

 カフェに戻ると、愁香さんの姿はない代わりに汗をかいたグラスと少し多いように見えるお金と「ガッチャン、おいしかったよ」と滲むボールペンで書かれた紙ナプキンが置き去りにされ、外に出て軽自動車を覗き込むと、愁香さんがトランクに盛られた衣服の山にコリー犬みたく埋もれて幸せそうな顔で眠っているのを見つける。起こさないようそっとリアゲートを開け、愁香さんの柔らかい髪の毛を掬って耳を現し、かたつむりの曲線に見惚れながら「ありがとう」と囁いた。愁香さんは呻くように「どういたしまして」と答え、たぶん寝言だったのだろう。起きたらもう覚えてはいないだろうけれど、わたしは福島にいる間、何度か愁香さんに「ありがとう」を伝える機会があるような気がした。

 春子との電話では、ロッコク堂で買った写真集のことを話した。津波の被災地から見つかった遺品をたくさん映したフルカラーの写真集で、だいぶ度肝を抜かれ、怖かったり、気持ちわるかったりも、正直したけれど、ロッコク堂のおじさんがくれた「不真面目に向き合ってもいいと思うよ」という言葉に支えられ、思ったことを不遜さも気負わず全て春子にぶちまけた。それから、阪神大震災のことを春子に尋ねた。彼女から当時のことを聴いたのは初めてで、神戸に住んでいたことも知らなかったし、仮設住宅の生活だとか、生理なのにお風呂に入れなかったときの惨めな気持ちとか、壊れたストーブの電気コードで首を吊って死のうとしたことまで聞き、やっぱりわたしは、不真面目でいいとは思えない。じゃあどうすればいいんだろう。答えは、きっとわたししか持ってない。「わたし、もうちょっと福島にいたい」と春子に伝えた。春子はわたしが夜中コンビニに出かけようと玄関で靴を履いてるときキッチンから流水がシンクを叩く音とともに投げてくるような声色で「ちゃんと帰ってきてね」と言った。帰るよ。もちろんね。そのとき、わたしは何を持っているだろう。買った写真集とか、買ってもらった服とか、代えがたい冬馬との思い出とか、此処にしかない海の匂いとか、後ろ髪を引かれる思いとか、それとか、恋とか。分からないんだ。だってまだ、そのときじゃないんだから。それでもわたしは、過去よりも未来を愛しているのだと知る。電話を切れば、今日も夜空は眩しかった。「明るくて眠れないからカーテン閉めて」と冬馬は寝返りを打ちながら頼りない声で訴える。そうか、君にとってこれは、明るいのか。無性に嬉しくなって冬馬の布団に忍び込むと「暑い!」と蹴り飛ばされた。冬馬といろんなことを話したくて、いろんなことを聞きたくて、でもそれは今じゃない。だって明日は来るんだから。そのことがやっぱり、とても嬉しくて、汗の匂いが馴染んだタオルケットをぎゅっと抱き締めた。

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