さよなら

 夏美はずいぶんと緊張した面持ちだった。制服はしばらく洗濯とかクリーニングをしていないのだろう、糊の落ちたブラウスの首元が黄ばみ、自分では結べないネクタイのプレーンノットもくたびれていたが、堅苦しく肩が張った様とぴょっこり飛び出したアホ毛はめずらしく寝坊した入学式のときよりよっぽどひどかった。もともと彼女は緊張する質ではない。武道のおおきな大会でも飄々として、勝っても負けても小事といったぐあいに拘泥せず、表彰台のどまんなかで無邪気に笑い、インタビューには「ラッキーでした」とピースにあごをのせて軽く答えたのちメダルを噛んでみせる、そんな鷹揚な彼女が、いまは血色のひどく褪せたくちびるを、濡れた小鳥の羽根みたいに震わせている。

「勝手なことしてごめんね。でも、嫌だったら断ってくれていいし、それに、素直に夏美の気持ちを話してくれたらいいから」

 何度も伝えていた言葉を確認するように耳元で囁き、示し合わせていたとおり、レストランに入ってくる小母さんに会釈をした。夏美も私にならって立ち上がり、ばさりと落ちた後ろ髪が地面に着くぐらいおおきく頭をさげた。数秒待ってから顔をあげ、夏美と小母さんが初めておどろいた目を向かい合わせたとき、わずかに空気がゆるむのを感じた。

「三億円の件なんですけど」

 座るなり、注文をするよりもまえに、小母さんは本題を切り出した。もとより尼崎の人間は、開幕前に阪神タイガースのマジックを点灯させてしまうぐらいせっかちだし、市に通学路の危険性を訴えれば二・三日のうちに立派なガードレールが建つほど、話が早い気質はあるし、とりわけ小母さんは夏美のライブ配信を観て「とてもいい子ね」と惚れ込んでしまっていたから、できるだけこの案件を前向きに進めたかったのだと思う。

「早いほうがいいと思うんですよ。私たちが遅かったとは思わないけど、結局、手術を受けるより前に体調が悪化して、もっと早ければよかった、という後悔はずっとあったし。それもあって、手術費用をなるべく早くお渡しできる方を探していたんです。冬馬くんも、いま体調が落ちてると聞いてますし、どこかで必ずまた回復してくると信じて、そのときにすぐ手術できるよう、手続きを始めたほうがいいと思います。私たちもできるかぎり手伝いをしますし、お金のことは心配しなくてもいいんで。心臓手術は順番待ちもあるから、とにかく時間勝負というか」

 あとは、夏美の気持ち次第なのだ。彼女の顔をみやると、不安そうに目線を返してきた。しっかり頷き返すと、茫洋としていた瞳にわずかな力強さが戻り、

「えーと……」

 と呟く。がんばれ。愁香によく似て、言葉足らずなうえすぐに手が出るきらいはあり、大学入試の模擬面接ではしばしば苦言を呈されていたけれど、無駄に凝った表現のある恋の小説を生理もないころから漫画がわりに読んで育ったし、京都の私大を目指せるぐらいには私も勉強を教えてきただろう。君は知らないだろうけれど、クラファンで一千万円集まったことが広まり、尼崎の商店街を歩いていればあちこちで「夏美ちゃんはすごい」と褒められ、大変だったんだよ。なによりも、ここに座っているということは、胸を張っていい。君は賢い子だ。進路指導の先生も言っていたね。少しずつ整理しながら話すんだ。

「あの、まずは、そうですね、ありがとうございます。あ、といっても、お金をいただきます、とかそういうことじゃなくって。あまりに大金なので、さすがに申し訳なさすぎるというか」

 そうじゃないだろ。榎田の失投フォークぐらい、落としどころの曖昧な話の展開に業を煮やしたのか、小母さんが顔をつきだし、

「気にしなくていいのよ! 別に冬馬くんが特別ってことじゃなくって、心臓手術を受ける子で、すぐにお金をお渡しできる子がいれば、変な話だけれど、誰でもいいわけだから。特に冬馬くんは急を要してるわけだし。どちらにとってもいい話だと思うの。この件は、事務局内にもすでに通して、合意も取ってあるし、もともと支援者の方々にも『いただいたお金は心臓手術を受ける他の子に渡します』とは表明してあるから、なにも障害はないの。お金をお渡ししたあとに、ホームページでみなさんにご報告すれば、それだけで良いから」

 と口を割り込ませた。夏美がちいさく溜息を吐いたのが聞こえた。私はテーブルのしたで夏美の手を握るが、ひどく冷えきっており、体温のひくい私ではあたためることができそうにない。

「結局のところ、夏美の気持ちの話、ということよね?」

 念を押すように、そう促すと、夏美は頷く。

「わたしは……」

 夏美はようやく顔をあげ、しばらくその気持ちを探すように目線を迷わせていたが、はっと気づいたように小母さんを見据え、今日いちばんの力強い口調で、すらすらと言った。

「冬馬が元気になれば、すごく嬉しいです。わたしの弟だし、それでなくても、わたしはたぶん冬馬のことがすごく好き、なんだと思う。けど、それは、みんな同じというか」

 ああ、これが夏美の本心なんだな、と思った。彼女はほんとうに、冬馬くんのことが好きだ。そして、好きでいる、以上のなにも望んではいない。あまりに無邪気すぎるように思ったけれど、うらやましくもあった。みんながこんなふうに、誰かのことを好きでいられたらいいのに。私も、恋のことを。恋だって、愁香のことを。それから愁香は、海晴さんのことを。

「福島に来て、わたしは、すごくたくさんの人の命がここで失われたんだと知って、いまも、苦しんでるんだって知って、わたしは、わたしたちが、こんなふうに、イージーに、三億円なんていう大金をいただいて、幸せになっていいのかな。誰がそのことを許してくれる? 津波で亡くなった人たち、原発事故に影響を受けて自ら命を絶ったひとたち、心臓手術を受けられずに死んだ彼のことも、ほかにも心臓手術を待っている子どもたちのことも、たくさんの、きっと三億円があれば助かるだろう人たちのこと、すべてを踏みにじって、わたしたちが、救われるんだろうということは……」

 つづく言葉を私は明白に予感した。それが夏美の答えなんだ。いまさら私は私が持っていた願望に気づき、つまり自分が結局のところ、冬馬くんを生かしたかったことを知り、無力感にさいなまれながら、ただ夏美の結論を受け入れようと心を決めた瞬間。

「ごめーん! おそくなって!」

 底抜けに明るい声が静寂を切り裂いた。レストランに入ってきたのは、愁香だった。よっぽど急いで来たのだろう、左右のクロックスは色が違うし、ブラジャーはしていないし、化粧をしていないどころか、前髪を輪ゴムのひとつ括りで上げ、てかてかのおでこと点線のような眉毛が丸出しだった。震災直後、福島に駆けつけたときの私の姿そのままじゃないか!

「春子ー! ひさしぶりー! 元気してた? ごめんね、遅くなって。ドラマがいいところでさ。あと、恋なんかさっさと連れて帰っちゃってよ。はっはっは。あれ、夏美、どうしたの、辛気くさい顔して。飲んでないの? あんなに酒好きなのに? あ、すいませーん」

 愁香は処理をしていない腋毛がうかがえるほど高く手をあげてウェイターさんを呼び止めたのち、手早くビールの中ジョッキをよっつ注文した。夏美と小母さんが目を丸くする一方、私はテーブルを叩いて爆笑した。そうだ、これが愁香なのだ。

「あ、このたびは、冬馬の心臓手術の費用をいただけるとのこと、助かります。ありがたく頂戴いたします」

 私は愁香にずっとそう言ってほしかったのだということに気づき、いままでのいつよりも愁香を尊敬した。愁香はたしかに恋としたけれど、震災直後のあれを除けば、昔から私よりずっとモテたにも関わらず、海晴さんにしか体を許さなかったことを知っている。そういう子だから、愁香が口にしたその言葉や、立ち振る舞いが、ただの身勝手じゃないということを、私は誰よりもよく知っている。

「ちょっと、お母さん!」

 とうぜん、声を荒げたのは夏美だった。

「なに考えてんの? 勝手に話進めないでよ。いまわたしが話してんじゃん。三億円だよ。お母さんの買ったしょうもない健康器具の話してんじゃないんだよ。だいたいいつもそう。身勝手。恋が福島に来たのも、けっきょくはお母さんのせいじゃん。それでわたしも追いかけてくるはめになってさ、それはそれでよかったけど。元はといえば、お母さんとか冬馬のこととか、わたしに話してくれてたらよかったじゃん。なんでこっちきていまさらドッキリしないといけないんだよ。わたし、もう高校生だよ。大学入って、人生もほぼ決まって、ふうやれやれってときに、じつはほかにお母さんと弟がいて、福島でひもじく暮らしてますとか、いまさら知らされるってなんの罰ゲームよ。だいたい……」

「はいカンパーイ!」

 ビールジョッキが運ばれてきて、愁香が夏美のそれにゴングのごとく勢いよくぶつければ、泡がはじける。腹を抱えて息を切らしながら笑う私と、作り笑顔を貼りつけたまま困惑している小母さんを尻目に、愁香と夏美は蝶ネクタイを気取ったウェイターさんが顔をしかめるような罵詈雑言を並べながら先を争うようにジョッキを煽りあった。そんなことを思ってたのかというような、ふたりが言いたかっただろうことをぜんぶぶちまけた。愁香が恋のことを好きじゃなかったこととか、ほんとうは私に嫉妬していたことも初めて知った。夏美にとって冬馬くんが大事で、でもそれ以上に私が大事だってこともはっきり教えてもらった。ふたりが、人生でいちばん大切なものはなにか、確認しあうかのようだった。私にとってそれはなんだろう。決まってる。いま目のまえにある、この時間だ。

 いよいよ愁香はテーブルにつっぷして豪快ないびきを立てながら寝てしまった。ながいトイレからあやしい足取りで帰ってきた夏美は、愁香の飲み残したビールをいっきに飲み干すと、からっぽのジョッキを机に叩きつけ、あごをくいと上げて、声たからかにこう宣言した。

「三億円、ありがたく頂戴します」

 私はそっとその場を抜け出し、トイレに入った。ホテルらしいといおうか、フローラルな香りがただよう、とてもきれいなトイレで、ひろい個室のりっぱな便座にウォシュレットがあることはあらかじめ確認していた。用を足すこともせず、ヴァギナに水流を当て、ふっと息を吐いたとたん、目から水があふれてきて、なんなんだこれ、人間ポンプかよ、苦笑しながら、慌てて音姫を押す。とおくから、潮騒が聞こえる。さよなら、海晴さん。

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