ひとり救える

 忙しい、と断ってくれたらそれでよかったのだが、電話を受けるなり、すぐにでも会いたいと言ってくれた。ただ、赤ん坊が寝つくのを待ちたいのと、旦那さんが帰ってきてからのほうが話しやすいということで、盆休み明けは残業が多いらしい旦那さんの仕事の都合もあり、恐縮ながら夜の十時にうかがうことにした。私の家も、彼女の家も、阪神のおなじ駅の徒歩圏内にあり、ほんの数分で向かうことができる。夏のかさぶたが剥がれかけたアスファルトはすっかり涼しくなり、ナトリウム灯にてらされた月極駐車場の草むらはおそるおそる秋の鳴き声をまぜていた。工場跡地の再開発がすすむ新興住宅地の端っこに充電中のあかいハリアーを見つける。第一子の誕生日から選んだというナンバープレートと、リアガラスのなかから吸着盤で貼られたポケットモンスターのソーナンスの「BABY IN CAR」に見覚えがあった。彼女の家だと分かったが、人感センサーであたたかい照明が灯ったのち、いちおうアルファベットの表札を指さし確認してから、カメラを覗きこむように、ゆっくりチャイムを押した。

「はーい」

 私が来ることは分かっていたのだろう、インターフォンで応えるまでもなく、新緑色が映えるウェルカムリースを揺らしつつ扉が開いた。うれしそうな笑顔をしてくれているのに、私はうまく笑えなくて、申し訳なくなる。かるく化粧をして訪れたのだが、彼女はすっぴんだったのも、へんに意識しているようで落ち着かない。

 夜分にすみません、と三和土に整えられた革靴に目線を落としながらかぼそい声で挨拶をし、商店街で買った手土産のホームラン最中を紙袋から取りだして渡したあと、玄関脇のささやかな和室に案内してもらった。応接間として使っているのか、現代風の正方形をした琉球畳はまだ新しく、こぢんまりとしたちゃぶ台を囲んでドーナツみたいな座布団が四つ並んでいるぐらいで、あんまり生活感を受けない。どこからか線香の香りがする。赤ちゃんがいる家特有の乳臭さも漂っており、どうにも居住まいが悪かった。

「正直、返事をくれるのを待ってたから、春子さんから連絡をくれて、すごくうれしい」

 小母さんは心底そう思っているというふうに口元のしわを緩め、ましろい百合の模様が底面を飾る琥珀色のタンブラーに氷をうかべた麦茶をみっつ、手慣れた仕草でちゃぶ台の窓際をのぞく各辺に並ぶコルク製コースターに添えて、私の真ん前の末席に正座した。彼女の旦那さんだという、ふたまわりぐらい年上に見えるI♡NYのTシャツが異様に似合った老紳士も、彼の背丈からすると低いように感じられる鴨居をくぐるように、うつくしいロマンスグレーの頭を丁寧に下げながら和室に入ってきたが、二階からサイレンのような泣き声が轟くやいなや、「失礼」と言い残してすぐさま振り返り、階段を駆け上がる軽快な足音ののち、泣き声はぱったりと落ち着いた。

「旦那さん、すごいですね」

 しずまりかえった二階を見上げながら独り言のように呟く。小母さんとツーカーというか、手際がいい。ふだんからしっかり子育てに携わっているのだと分かる。

「一人目のときはそうでもなかったんだけど、次の子ができてから、すっかり溺愛しちゃって」

 小母さんはねむたげな猫のような一重まぶたをさらに細めて言った。目尻にわずか現れたカラスの足跡が寂しそうだった。

 そうだ、一人目の子の心臓手術のための募金を集めているとき、旦那さんはまったく顔を出さなかった記憶がある。ボランティアのうちでは、「旦那さんはもう諦めていて、奥さんが孤軍奮闘でがんばっている」という噂が漏れ聞こえることがあった。実際のところはよく分からないけれど、すくなくとも、募金が集まったときの彼はすごく嬉しそうだったし、一緒にアメリカに飛んだことも知っているし、手術を受けられず亡くなったとき、小母さん以上にカメラのまえで涙を隠していなかったことも知ってる。大人の男があんなふうに泣くのはあってはいけない。あのとき私は、命の重みというものを感じたのではなかったか。震災のときはあれだけ亡くなっても、身内をみな失っても感じなかった。麻痺していたのだ。だってそうしないと潰れちゃうから。いま私の手元には、ひとりぶんの命だけがある。そう望めば救うことのできる、ひとりぶんの命が。

「冬馬くんの手術日程はもう決まってるの? 心臓手術は順番待ちだし、早めに動いたほうがいいわよ。私たちだって、間に合わなくて歯がゆい思いをしたわけだから」

 小母さんは私の目を射貫くように見据え、ていねいな所作で麦茶をすすり、タンブラーを両手でことんと置いたあとにそう促す。要点をたしかめるような口調に、彼女が元々は高校の現代文教師だったことを思い出した。お金のことは心配しなくていい。言葉にしなくても、そう言ってくれていることは分かったし、これまで何度かはっきりと言葉にしてくれたこともある。

 心臓手術の費用としてクラファンで集まった三億円のうち、アメリカ渡航費用などで使った分もあるが、大半は未使用のまま宙に浮いたという。残り金額は下一桁までプロジェクトのウェブサイトに公開されているし、これまで何にどれだけ使ったかも、郵便はがき代などというわずかなものも含め、仔細な表としてまとめられており、結果的に未達成となったいま、さいごの処理として「心臓手術を必要としているほかの子に渡す」ストーリーも、募金を集めているあいだずっと気丈で謙虚だった小母さんらしく、チラシの裏にも書かれたわかりやすいFAQとして共有されていたことだった。

 たとえば街頭で募金を集めているときにふっと人通りがなくなった瞬間とか、なんどか雑談として、冬馬くんの件を漏らしたことはあった。尼崎といえば、春はキャンプ、夏はロード、秋はドラフト、冬はスキャンダルと、阪神タイガースのことを話しておけば美容院だろうとタクシーだろうとまず間違いないが、そういう場で矢野采配の3番近本起用を弄るのもどうかと思うし、単にちょうどいい話題が思いつかなかっただけで、けっして熱心に語ったわけではなかったけれど、彼女たちはよく覚えてくれていて、もし手術を望むならお金を回してもいいと話を進めてくれていたのである。

「いや、でも、三億円という大金なわけですし……」

 ここまで来ておいていまさらなにが「ですし」だ、「おすし」だ、「リトマス紙」だ。つまらない連想で口をもごもごさせながら、汗をかいたつめたいタンブラーを手のなかでもてあそぶ。援助してくれるといっても、冬馬くんが特別なわけじゃない。おなじ病気を持っており、おなじ手術に使ってくれるなら、誰でもいいということである。たまたま心臓の欠損持ちの甥を持つ私が近くにいたから話が進んだだけで、あえて恐縮することでもない。気にしていたのはなんなんだろう。

「春子さん、冬馬くんの命が救われることを望んでないの?」

 反語として訊かれたはずの、冗談っぽい問いかけに、私の胸はうっと詰まる。その言葉は核心をついていた。

 夏美を引き取ろうと決めた日のことを思い出す。あのとき、愁香は私のあげた「水のいらないボディソープ」で股間を洗ったあとこう言ったのだ。「恋にいちゃんってあんまりうまくないね」。このことは私と愁香しか知らない。恋を責めたりもしなかった。ただ私は、愁香をしずかに詰った。罵倒するよりも髪の毛を引っ張り回すよりも、そういうやり方が愁香にはいちばん効くのだと、昔からよく知っていた。べつに浮気だの不倫だのにいまさら腹が立ったわけではない。おなかのなかに冬馬くんがいるにも関わらず、避妊もせずにしたのが、どうしても許せなかった。「あなたには、夏美を任せておけない」という台詞をいまでも口にしたときの舌の強張りまでよく覚えている。それを聞いた直後、愁香は海に飛び込む自殺未遂を起こし、結果、冬馬くんの心臓には欠損ができた。冬馬くんにはなんの罪もないということは分かっている。それでも私は、償ってほしい。ほかならぬ、愁香が、だ。三億円を用意するのであれば、本来、愁香が奔走するべきではないのか。どうして私がここまで手を尽くさなければならないのか。考えても、考えるほど、「三億円を受け取る」という結論には繋がりそうになかった。

「悪いですけれど……」

 苦くないはずの氷が溶けてうすくなった麦茶に顔をしかめながら、ゆっくり絞りだそうとすると、小母さんはスマホをたしかめた。「あ」と漏らす。なにか通知が来たらしい。ちょうどおなじタイミングで、私のスマホも震えた。恋の変顔で夏美がバカ笑いをしているロック画面には、ライブ配信の通知が現れている。めずらしいな、夏美はインスタに動画をアップすることは、毎日といっていいぐらいよくあったけれど、ライブ配信をしているのは観たことがない。私に気をつかってくれたのか、重い雰囲気を紛らわそうと考えたのか、小母さんが食パンみたいに大きなサイズのスマホを横向きで麦茶のポットに立てかけてくれて、ふたり覗きこむようにその配信を追う流れとなった。

『えーと、こんにちは、夏美です』

 あ、夏美だ。顔がアップになっているから、インカメラで自撮りをしているらしい。というか、彼女にはハンドルネームがあったはずなのに、いきなり本名を名乗るなんて、どうしたんだ。それにここはどこだろう。背景はうすぐらくてよく見えないけれど、愁香の自宅ではないように見える。いつも化粧をしっかりきめて動画に出ていたはずが、アイメイクもぼろぼろに剥がれおち、かわりに目のしたの浅黒いクマが目立って、意外と真剣に取り組む体育祭のあとでも見せないぐらい疲れ切った様子だった。

『いま、福島に来てます』

 深夜とはいえ、こういうコンテンツを楽しむ層には夜行性が多い。少しずつ視聴者数が増えていく。あ、桁が上がった。

『福島は、すごくいいところです。海がきれいで、魚がおいしくて、いや、そんなところどこにでもあるやろ、って感じなんだけど』

 いつもなら掴みを意識して大げさなぐらい抑揚をつけてしゃべるのに、聴き取りにくいほどの不器用な言い回しで、心配になる。それに夏美は幼い頃からYouTubeに慣れ親しんだいまどきの子らしく、あるいは私がそうだからか、ふだんは標準語をつかう。関西のなまりが口をつくのは、模試の結果が悪かったりとか、彼氏と喧嘩したりとか、気まずいときだけだ。

『ふぐすまは、いいとこだっぺ』

 夏美はへたくそな福島弁で言った。派手に滑った空気をみな共有しただろう、視聴者が激減するんじゃないかと画面端の数字を追ったが、観ている人はどんどん増え、二万人を越えた。夏美にこんなにフォロワーがいただろうか。二万千、二万二千。いや、この人数は。

『それでわたしは、ふぐすまに、福島に来て、なんで来たかっていうと、家族がいて。生き別れの家族が。いやこれ、ほんまなんですよ。いや展開ベタかいって感じなんだけど。あのね、わたしの両親は、血のつながった本当の両親ではなかったんです。でもすごくいい人で、それも友だちみたいな感じだったから、それでショックは受けてないというか、そりゃそうだよね、って感じなんだけど。で、本当のお母さんは福島にいて、うん、血のつながりを感じますね。お父さんはありがちというか、津波にさらわれて行方不明です』

 すこしずつ夏美のトークがなめらかになっていく。ほんとうに話したいことに近づいているのだと分かる。夏美は、強い子だった。「大会に優勝して奨学生になるからやっていいでしょ」と気をつかいつつ自分で洗濯した道着を背負って武道に通っていたし、子どもの頃から男の子相手の喧嘩でも負けるどころか怪我らしい怪我をせず、控えめな他の子より目立つ地雷メイクを先生に叱られたり、いじめられっこを庇ったのち友だちにハブられてもあっけらかんとして、泣き顔を見たことは一度もなかった。そのぶん、自分の本心をあまり言わない子に見えた。私にたいしてすら、「春子は友だちみたいなもんだから」と弱みを見せない凜々しさがあった。いまようやく、夏美は本心を明かそうとしているのだと分かる。だとすれば、言いたいその相手は誰だろう。

『それでわたしは、福島に来て、弟に会えました』

 夏美の声色が氷のように堅くなった。聞いたことのない声だった。夏美がかつてなく遠くに感じられた。

『運命の再会っていったらそうなのかもしれないけど、ぜんぜん、かわいい弟じゃなかったですね。まあそのへんも、ありがちなのかもしれないけれど。生意気で、口汚いし、すぐ手が出るし、まあそのたびに反撃してやるんだけど、ブレーンバスターで』

 夏美はスマホを膝のうえに置いたんだろう、捨て犬みたいなくしゃくしゃの表情がフレームアウトし、かわりに無機質なクリーム色の天井が映る。ぶらさがった三桁の数字のとなりに循環器内科のかすれた文字を見つけた。ここは病院じゃないのか。それも心臓の。小母さんが私の手を握ってくれて、それでようやく私は自分の手がはげしくふるえていることを知った。

『……もっと、かわいがればよかった』

 夏美の涙がカメラのレンズを濡らし、画面が滲んでいく。いま彼女は、血を分けた弟を失おうとしていることを知った。

 つづく夏美の言葉は、ほとんど言葉になってはいなかったが、冬馬くんにむけた愛にあふれていた。彼女の気持ちに感応していく。私はやっぱり、私が冬馬くんを救う資格があるとは、どうしても思えない。それでも世界でたったひとり、夏美にはあるんだろう。おなじように愁香にとって私は、たったひとりの姉なのだ。オネエマンなのだ。いまになって私は、ずっと彼女を救いたかったことを知った。夏美が泣き叫んだ『わたしが死んだらよかったのに』は、あの震災のとき、私がおなじように思った言葉だった。

『なじょだらっ!』

 スマホの画面がぐらりと揺れ、赤いランプがついたICUの鉄扉を力まかせに頭で叩く夏美の姿が見切れていた。それはいつかの、恋を叱りつけた海晴さんにそっくりだった。

『なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ! なじょだらっ!』

 彼がかつて口にした福島弁の意味を知る。そしておなじように震災のとき、私は私を中心にしてぐるぐる回るヘリコプターを見上げながら「なんでやねん」と叫んだのではなかったか。助けて、なんて言えなかった。「奇跡の子」は、言わなかった。

 私はふるえがとまった人差し指でライブ配信のしかくい停止ボタンをタップした。

「冬馬くんの、心臓手術のことなんですけど」

 夏美の本心を知ったいま、私の本心を知ったいま、ようやく言えることがあると思った。麦茶はほぼ飲めていなかったし、のどはからからに乾いているにも関わらず、その言葉は吐き出されるのをずっと待っていたかのようにすんなりと現れた。

「私はやっぱり、三億円を受け取る資格があるとは思えません」

 両手をハの字で置いたちゃぶ台に身を乗りだし、小母さんの焦げ茶色をしたやさしい虹彩を睨むような前のめりで言う。

「ただ、夏美にだけは、それがあると思うんです。あなたがもしよかったら、夏美にチャンスを与えてほしいんです。いっしょに福島に行って、会って、それで彼女に三億円の価値があるのか、それを確かめてほしいんです」

 唾が散る。自分がこんな熱っぽい口調で話すのかとおどろいた。小母さんも目を丸くして、うれしそうに微笑み、

「春子さんにとって、夏美ちゃんは、ほんとうに大切な娘なんですね」

 と言った。

 私は胸を張ってこう答えた。

「いや。世界一大切な、友だちです」

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