しぇいかい!

 夏美から電話がかかってくることが減った。というのはどうも、クラファンというものに手を出しているらしい。クラファン、すなわち、クラウド・ファンディングは、「クラウド」という接頭辞がスペルは違うもののクラウド・コンピューティングを想起させるとおり、おもには広大なネット上でお金を募りなんらかのプロジェクトを達成するという仕組みで、とりわけ震災以降、津波に流された遺品を海底から探すプロジェクトであるとか、原発事故で住人のいなくなった廃屋を地域の人々が集まるコミュニティとして活用する仕組みであるとか、復興の文脈でひろく知られるようになった。堅気とはいえない作家らしく収入の安定しない恋に養ってもらっている立場上、私もそんなにお金があるわけではない、どころか、市営住宅のかたすみでネイルする余裕もない爪に火を灯したりしているわけだが、身近だと感じたクラファンには晩酌を我慢して心ばかりのおこづかいを入れたりはする。ちょっと前には、尼崎で心臓手術を受ける子のクラファンが行われたことがあり、主宰メンバーの何人かと夏美の学校がらみで繋がりがあったため、募金を求めてJRの駅前に立ったりもした。冬馬くんの心臓の件も頭にあったから、他人事とは思えなかったので、できるかぎり街頭で声を張り上げたりもしたが、有名でもない個人の募金に三億円なんていう大金が入るわけないだろうな、とは申し訳ないがうっすら考えていた。実際、期限まであと一週間というところで、募金額は三割にも足りてなかったと思う。しかしここで、びっくり仰天な展開があった。どこから聞きつけたのか、炎上芸のはしりとして名を馳せた大物YouTuberが慰問に訪れ、しかも激励のつもりのへたくそなラップ「知ったよ病気のやりにくさ、治ったらいこうぜ焼肉屋」が不謹慎だと、ヤフーニュースのヘッドラインを賑わすぐらい大炎上したのである。いいのかわるいのか、いまどきインフルエンサーの影響力というのは、往年のトットちゃんがあの小鳥が住みそうなしゃっぽを脱ぐぐらいすさまじく、2chの湘南ゴミ拾いオフや川崎祭の頃からとかく天邪鬼なネットユーザーらしいといおうか、おなじぐらい勢いのある同情がその子どものほうに集まったから、その事件ののち数日しないうちに三億円という募金は貯まった。残念ながら、その子はアメリカ渡航直後、体調をひどく崩してしまい、手術を受けられないままこの世を去ったのだが、そのことを律儀にも私に報告してくれたときの母親の表情はおだやかで、できることをやりきれたからだろう、たしかに彼は生きていたんだな、と、目頭が熱くなったりした。そういう美談もあれば、おなじぐらい切実なプロジェクトがぜんぜん募金を集められないまま終わることも少なくなく、どこか人生一発逆転のギャンブルめいたイメージを持たれることもあるクラファンだけれど、夏美が仕掛けるそれは「福島で被災したちいさな家族があたらしい生活をはじめるための資金を募集します」というタイトルだった。ささやかなようで、募集金額は一千万円と個人のプロジェクトのわりにかなり多く、かといって生活再建のためには少ないし、どうにもこうにも中途半端に思える。でも、それが夏美のしたいことなんだよね。だったら、私にできるのは、それを応援することだけだ。心臓手術のクラファンを手伝っていたときの縁を頼り、「うちの娘もこんなの始めたんですよ」という体で、手書きのチラシをコンビニのコピー機でこしらえ、彼女のサイトを宣伝してみた。みんなクラファンに理解があるからだろう、ボランティアで老人や子どもの世話をすることがあった夏美の人柄のよさも幸いし、「夏っちゃん? ええで」「気持ちばかりやねんけど」「今週のマガジン、『はじめの一歩』ないし、我慢するから、出したってよ」「震災は大変やったもんなあ」「福島って大阪のあそこで遊んでんとちゃうやろな」とあたたかく、ダウンタウンの出身地である尼崎らしいノリの良さとか、維新をはじめとした保守勢力を神崎川で堰き止める防波堤の町らしいリベラルの気勢も後押しとなって、玄関先でスマホのワンタッチで募金してくれたり、年配の方だと目線のところに折り目がはいった新渡戸稲造を飴ちゃんとともに握らせてくれたり、果てはビール券の束とかポリバケツいっぱいのパチンコの銀玉とか、もらって恐縮したりした。金額は、初日こそ十数万円入ったものの、だんだん目減りしていったが、そのほとんどは私が頼んだ募金だったと思う。夏美を助けられるのは嬉しかったし、またこれは愁香を助けることにも繋がるのだと思えば、嬉しいというより、ざまあみろという気持ちにもなる。一千万円が手切れ金とはいわないけれど、募金が貯まるたび、私が愁香にたいして抱いている醜い感情がすこしずつ浄化されていく気がする。

 その日の夜も、夏美から電話はなかった。クラファンに夢中になっているんだろう、募金サイトへの誘導リンクを貼ったインスタの動画はさっきアップされたばかりだ。あいかわらず制服姿でへにゃへにゃと踊る動画である。どうせ福島をテーマにするなら、もっと帰還困難区域をつめたいバツ字で塞ぐバリケードとか、かつて売られていた衣服がホコリを被ったままハクビシンに荒らされた廃店舗とか、原発事故の直後は物々しい戦車が詰めかけることもあったJヴィレッジとか、たとえば恋の小説にあられもない姿でえがかれた、震災を想起させる場所を背景に踊れば目を惹きやすいのに、彼女が選んだのは不遜な恋とは違い、ありふれた民家や商店街のまえで踊ることだった。そもそも震災から十年以上経っているいま、「復興」という文脈は、さきの五輪で華々しくデモンストレーションされた福島の聖火リレーをテレビで観れば「すっかり元通りになったねえ」なんてあつい梅こぶ茶をすする音ぐらい落ち着いてしまい、私も「夏っちゃん、いまさら何しに福島いくの?」と無邪気な反応を味わったことがあるし、日本シリーズは最終戦までもつれたすえ寒風吹きすさぶ日本製紙クリネックススタジアム宮城で「あとひとつ」を熱唱しながら楽天が日本一になったし、そういうふうに世間の興味は薄れていくんだって私も体験したから知ってる。ほんとうは何ひとつ終わってないんだってことも分かってる。夏美の動画に入る評価はだんだん少なくなり、彼女のフォロワーも右肩下がりで減っているのは意識的にカウントしていなくても分かった。なにか一言もの申したくなったのか、もの狂おしかっただけか、めずらしくこちらから電話をかけてみることにした。スマホが鳴って十数秒、出ない。LINE通話に切り替えてかけ直すと、今度はすぐにキャンセルされた。作業に熱中しているにしても、もうちょっと対応があるだろう。こっちも意地になり、「ヘイ、シリ! 泥棒猫の自宅に電話をかけて!」と吠えた。深夜なのは申し訳ないが、どうせ寝てるのは愁香と恋だけだし、子どもに気をつかうこともなく並んで寝てるんだろう、起こしたってかまやしない。

『はい、佐伯です』

 と夏美の声で応答があったので、

「夏美! 一日一回は電話しろって言ったでしょ! なにしてんの、スマホにかけても出ないし!」

 とまくしたてた。いつものやり合いである。丁々発止で「うるさいなあ、いま忙しいから」と、部屋の扉をドラムソロして飲みに誘ったときのように返事があるかと思えば、電話の向こうはしんと黙り込んでおり、こちらの調子が崩れる。

『ええと……』

 つづいた声も夏美のそれだったが、いつもならありえない反応に、思い当たる相手がひとりいた。

「え、冬馬くん?」

 ゆっくり語りかければ、

『はい』

 と聴き取れないような声がふるえた。なるほど、まだ声変わりしていないこともあって、夏美によく似ている。愁香の声も夏美に近いけれど、あの子はどこか拍子の抜けた話し方をするので、言い淀んでいるときの冬馬くんの声は夏美そっくりだった。たまの恋愛相談なんかで目を伏せた夏美はハート型に合わせた手の親指をぐにぐにしながらこういう話し方をしたっけ。聴いて春子、ちょっと言いにくいんだけど、生理がこないの。いや、アロエリーナ構文にしては重いわ。ゴムつけてなかったの? いや、そもそもしてない。じゃあ生理不順でしょ。命の母飲む? 好きな気持ちが大きすぎて、生理が止まるってこと、あるのかなあ。

「ひさしぶりー! 大きくなったねえ。声で分かるわ。電話のときの声が夏美にそーっくり。あの子も電話のとき、声がちょっと高くなるもんね」

 うれしくなって、息もつがずにしゃべってしまう。そういえば、大きくなった冬馬くんと話すのは、これが初めてではないか。いろいろ話したいことがあった、というより、内容はなくていいから、どうでもいいことを話したかった。

「覚えてないよね。私、一回だけ冬馬くんに会ったことがあるのよ。まだ冬馬くんが愁香のおなかのなかにいるときだから、そりゃ覚えてるはずないか。おなかをなでてね、歌をうたったの。サザンオールスターズの、ふるい歌」

 愁香のおなかはまだ目立っていなかった。産むのかどうするか、饐えた匂いのただよう避難所の、くたくたの段ボールと吊したバスタオルに囲まれたちいさなスペースで、きもちだけブルーシートが敷かれたかたい床に正座した膝を突きあわせ、小声で相談したっけ。愁香は産みたくないとかぶりを振った。放射能が怖い、と主張したが、嘘をついているのはすぐにわかった。すごく腹がたって、私はなにも言わなかったし、恋はなにも言えなかった。それなのにどうして産むことになったのか、思い出せば、夏美が愁香のおなかを抱きしめて離さなかった場面が頭をよぎる。そのまま疲れて寝てしまった夏美は、ちいさな顔をおなかに埋めたまま「パパ」となくように呻いた。

『あの、ありがとうございます』

 さみしい記憶にふけっていると、冬馬くんはそう言った。おどろいて、しばらく何も言えなかった。この子はどこまで分かってるんだろう。どこまで覚えてるんだろう。そして私はどこまで言っていいのだろう。

「あのね、冬馬くん、うらんでる?」

 だからいくつもの意味をその言葉に込めた。夏美には聞こえないよう、声をひそめて言った。ほかの誰も知ることができないだろうから、せめて私が、冬馬くんがうらんでいるかどうか、知っていたいと考えた。誰が、とか、何が、ではなく、彼が産まれてきたことすべてを。

『あの、うらんでます』

 そう思った。そう言うだろうと思った。

「そりゃそうだよね」

 思ったことが素直に口から出た。それを聞いた冬馬くんの体から力がふっと抜けるのを、声と音しかとおさないはずの電話の向こうがわに感じた。そうでない何かがいま私たちを繋いでいる。

『返さないといけないと思うんです』

 冬馬くんは言う。私は、うん、と頷く。

『オネエマンもそうだし、恋おじちゃんも、母ちゃんも、父ちゃんも、たぶん、命も。ぼくがこうしてここに産まれてきたことは、ほんとうは、なかったことだから。こうして過ごした時間ぜんぶ、オネエマンと会えたことも、春子さんとこうして話せてることも、ぜんぶ、奇跡みたいなものだから。ありがたいな、と。もったいないな、と思って、返さないといけない』

 誰だよオネエマンって。わらいたかったのに、汗ばんだスマホをぎゅっと握りしめたまま、とてもかなしくなってしまった。だって「助けて」という声が聞こえた気がしたから。私もそうだったように。なんで私はいま彼のそばにいないんだ。もしここに距離がないならば、すぐにでも抱きしめることができるのに。愁香との距離が救いだったこともあった。けれど私はもう、別の誰かを救わなきゃ。

『だから、重いかもしれないけど、覚えておいてほしいんです』

 これを聞いたときに私は決めた。たとえば、忘れることを決めた。

「産まれてきて、よかった?」

 そのまえに、ひとつだけ聞いておきたかった。その答え次第で、私はオネエマンじゃないけど、私だけが使える必殺技で、冬馬くんを助けたいと思った。

『おいー、夏Pー。どこ行ってんだよー。動画できたぞー。おまえ夏Pだろー。早く帰ってこいよー』

 とおくから夏美の声がする。あるいは、その声のやさしさだけで、もう十分だったのかもしれない。彼を必要としている人がそこにいるのだ。

『しぇいかい!』

 なにかを落とす音をさせつつ、冬馬くんの言ったそれは、夏美が私によく見せた、売れないYouTuberの真似だというつまらないボケだった。両手の親指を立て、眉根を寄せて目をつぶり、口をタコみたいにとんがらせる、ぜんぜん可愛くない夏美の表情が重なった。それはおなじく「奇跡の子」と呼ばれたあのときの私とも繋がっている。全校集会で、「子供を作ろう」を朗読したのだ。拍手はまばらで、体育館内はしらけきっていたのに、最前列に体操ずわりする派手なパンツ丸見えのヤンキー女子が、マスカラが落ちるぐらいの涙を流しながらひとり、ちぎれそうな拍手を起こしてくれたことを覚えている。彼女は震災で両親を失ったのだと、とおく鹿児島へ転校したあとに知ったが、一度も話さないままだった。下駄箱に残された上履きのかかとには黒マジックの達筆で「優衣」の文字。母親に書いてもらったのかもしれない。

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