04 脆い幻想
ぞわり、と背筋が凍る。緩んでいた身体は死体のように硬くなる。心臓は鈍く、ドクンと唸る。淡々として告げられるあからさまな無慈悲に、静寂は冷たく凍りつく。額はぬぐったそばから汗を噴きだし、震えだす歯を食いしばる。
ゆっくりと頭をもたげて映ったものは、際立った感情も灯らない
孤児を殺せ。
その
なんで俺が?
そう自問自答をするが、答えが見つかることはない。
教皇の口からまた言葉が吐きだされる。
「殺せなければ、貴様が死ね」
「……今、なんと」
そんなこと。いや、違う。なにかの間違いだ。夢だ。そうだ、これは悪夢だ。目を覚ませばいつも通りの日常が待っているはずなんだ。
クラウスは勅命から目を背き、現実に侵入禁止の看板を掲げて、心の奥深くに逃げこんだ。
親指と中指が擦れて、フィンガースナップの軽快な音が教会に満ちる。
現実逃避から引き戻され、クラウスは否応なしに現実に目を見る。
黒い三つ編みがかすかに揺れる。目の前には、メイドがしゃがんでいた。身を包んだピナフォアとホワイトプラムをかざる髪。眼鏡の奥で睨みつける空虚な眼を、あっけにとられてじっと見つめる。
メイドはクラウスに目もくれず足元に置いた
クラウスは茫然とあたりを見渡すがメイドは影も形もない。扉は閉まったままだ。
「こ、れは……」
あらわになるそれは、鞘である。ひとつも装飾がなされず
鞘から抜けば、磨かれた刃はたちまち
教皇の声が耳を突いた。
「くれてやる。
冷たい刃に映る青ざめた表情。短剣の魔性を振り払い、静かに悟る。神さえも射殺すような鋭いまなざしを教皇にくれる。眼は濁り、ドス黒い。
心から燃え広がるのは、先ほどのメイドも忘れるほどのとてつもない憤怒。
短剣を握る手は、狂おしいほどに震えていた。
「どう、してだ……?」
ぼそりと呟く。腸が煮えくりかえり、沸騰していく感覚が、心から頭までを伝う。
「どうしてだって聞いてるんだよ!」
唇が、眼孔が震える。
「あいつらを、殺す? ふざけるな。あいつらの今を、夢を、踏み躙る気か!」
「わからないか? 救済は死によって
身震いがする。口を噤んでしまう。頭が空白に占領されてから、なにも理解ができなかった。それでも吼え続けた。
「殺しが人を救えるか!」
「嗚呼、救えるとも。もちろん孤児どもだけではない。死こそが人類を救う。それが世の
違う。
クラウスは思う。救いは人を殺す口実にはならない。殺人が救いになる道理もない。この世には天国も地獄も、輪廻転生すらもない。死の先に訪れるのは
「あぁ、そうか。アンタは、そう思うんだな」
そのときだった。血の滲む赤い感情は、太陽のように熱く、赤い波は心の底から
怒りは我慢という防波堤を越え、やがて
時が流れるたび、波は波を洗い、せせら笑い、煽り立て、クラウスを怒りの津波に引きずりこみ、溺れさせていく。その波が引くことは決してない。
クラウスは
「ふざけるなよ。教皇オオオォ!」
クラウスは殺意の我がままに、
横腹に隠すようにして両手で握った短剣は、白く光る。
鋭く突きだした腕。刃は狙いを定めないまま、止まった。そのまま刃先は
意識をとっさに震える刃先に集中させた。
力をこめた。刃はめりこむ。肉を掻きだし、心臓を貫き、
しかし確かな不可解に気づいたのは、刃先が肉に絞められてなおも、震えたままだと知ってからだった。思えば、外衣に滲むはずの鮮血も滴らず、悲鳴も耳を打たない。
あぁ、そうか。
脳裏はこれが錯覚だったのだと、ようやっと気づく。再び教皇を見たとき、
突きだした腕は止まっていた。それは皮膚を開いて
彼女はゆっくりと口を開いた。
「腕、一振りだ。私はその気になれば、腕の一振りで貴様を殺せるだろう。……覚えておくんだな」
刃先は、硬い指先で突き返された。
「
背を向けると、
扉は軋み、バタン、と音を立てて閉まる。
渡り廊下に戻ると、とたんに腰が抜けて、かすかに
身体はみっともなく震えあがり、動かない。心臓はまだ恐怖を打ちつけている。視線は天井を見上げ、肺は浅い呼吸を繰り返していた。まだ冷たい視線をその背中に感じて、彼は忙しなく、
窓に映る遠目からの景色をながめて、わずかに冷静さを取り戻す。
月光は
改めて渡り廊下を踏み歩くと、革靴がしっかりと音を出す。
そのたびに記憶の中からは、教皇の宣告が鮮明に甦ってきた。
——明日、貴様が孤児どもを殺すのだ。
慈悲で満ちた無慈悲なその言葉を
「俺は……どうすればいい?」
生涯に溶ける
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