黒の教会

小野町そわか

第一章 怒りの日

第一話 怨讐

01 幻覚

 白い吐息が冷たい身体に染み渡る、風さえ凍える鉄の夜。霞んだ月は雲にまぎれて、星のひとつも見つからない。庭園に植えられた低木だけが、かすかにライトアップされている。それは星影のように、遠くからでも輝いて見えた。

 ベルリン市の中心部にあるこの庭園の奥に、サエクルム聖徒教会せいときょうかいは建っていた。近代とは一線を画す中世の風情である。辺りにはビルやショッピングモールが不釣り合いに軒を連ね、住宅街には赤茶けた三角屋根が敷かれている。


 都市は静かだ。窓にはそろって光がなく、道路にはわだちもひかれず、酔客すいきゃくの寝息も耳を打たない。路肩にはせいぜいユリの一輪が寒々しく朽ちているだけである。

 普段から賑わう大都市は、今やゴーストタウン。静けさに包まれた鉄格子てつごうし

 しかし、聖誕祭クリスマス・イブを迎えたこの都市で閑古鳥かんこどりが鳴くのは、いつものことだ。

 1199年12月24日、決まって誰もが教会ここにいる。



 シワの寄った白い外套。首にかけられた白銀のロザリオ。祈りをささげる両腕が長椅子に並ぶ。掲げた腕、胸元で切る十字。祈る形はさまざまあれど、信者たちのことごとくはひたいに汗を滲ませて、祭壇に熱視線を送っていた。さえぎりようのない重圧に呑まれ、誰もが血の気を引いている。

 教会をぼんやりと眺めながら、クラウスはひと知れずため息を吐いた。白い外套に身を包んだ17歳の少年。彼は円柱にもたれかかって、結んだ手を天井に掲げていた。

 濁った眼に神はいない。黒の混じった碧眼の奥には、明日へのうれいだけを鮮明に浮かばせていた。


 サエクルム聖徒教会はドイツの国教だ。信仰は課せられた義務であり、その法は13世紀を間近にしてなおも覆っていない。基盤はカトリック。しかし、信仰対象は聖書から忘れ去られた創造神。信仰したとて報われるなどありえない。国民は、義務という身も蓋もない理由で、得体の知れない神を信仰しなければならなかった。

 孤児院に預けられなければ、まだ寄る方があったのだろうか。そう考えるたびに、やり場のない後悔に襲われる。

 クラウスは涙ぐみながら祈る老婆から、そっと目を伏せた。


「われらを悪より救い給え、アーメン」


 教皇が祈りのことばを告げると、とたん、静寂は遠ざかっていった。重厚な聖書が閉じる重々しい音に誘われて、信者は死体のように緊張をほどいた。衣ずれや息づかい、他愛のない雑談から根も葉もない噂話。それらが一挙に、厳粛な場になだれこむ。クラウスもまた円柱から背を離し、革靴から音を立てながら、舞台へと足を進めていった。

 聖歌隊は舞台袖から準備を整え、グランドピアノは強張った面持ちでクラウスを見やる。

 腰かけたピアノ椅子は柔く、身体は浅く沈む。同様に、忘れていたうれいごとが胸に重たくのしかかる。震える足をごまかすように揺らし、震える手で手背をさする。

 大丈夫、いつものことだ。

 そう案じて息を呑み、鍵盤蓋を開け、楽譜をめくった。


 舞台からは教会の内装がよく見渡せる。

 ドーム状の天井をしたゴシック建築。左の壁には3枚の、悲劇的な宗教画。右の壁には、パイプオルガンが魔王の如くにそびえている。その真下には床を隔てて、孤児院へと続く子守歌を描いた扉が粛々とたたずんでいる。床に敷かれたカーペットは教会の入り口から祭壇までを結び、その両脇には12個ずつ長椅子が並んでいる。そこに背を預ける信者の波は、今も絶え間なく揺れていた。

 彼らはうそぶく。信じる者は救われる、異端者は地獄で聖歌を唄う——と。

 その迷信はクラウスにとってはなはだ不可解なものであった。神はいない。そう勘づいているのは自身だけのようで、教会では憐れ極まりない神の威厳がいまだ保たれたままでいる。

 くだらない。そう胸の内で毒突いた。気がついたときには、手の震えは途絶えていた。


 雑音はぴたりと止まる。教会は再び権威とは異なった圧力を宿し、まず声が消える。次にわずかな先ほどの息さえも騒音になる。長椅子の隣を通って、指揮者が舞台へのぼれば、教会は瞬く間にコンサートホールへと姿を変えた。

 そっと鍵盤に手を預ける。観客に配られる一礼は

深く、聞こえてくる拍手もまた響く、舞台奥からの一瞥にそっと頷く。指揮棒が宙を裂く音が、たしかに聞こえた。

 審判は、下る。


 気がつけば、指は鍵盤から離れていた。ピアノには楽譜だけが残されている。教会には喝采どころか感嘆の息吹もない。無意識に撫で下ろした胸元だけが、無事に終えられたなによりの証拠だった。

 そのとき、違和感が頭をよぎった。

 楽譜をめくる、時針がかぶく、外套が擦れる、手をさする。それらの音の余韻はひとしきり鳴り渡ったあと、しだいに消え薄れていき、教会はひっそりと静まりかえる。誰かがいれば聞こえないはずの、雑音。教会は妙に、閑散としていた。

 顔をもたげると、脳天から鈍い痛みが駆けていった。それは銅鑼どらが重く打ちつけるような、脳髄の揺らぎでもあった。頭を抑え、唇をみしめて激痛をごまかす。視界はぼやけながら輪郭を失くし、意識は乗っ取られていく。

 視界の端でピアノに触れた。白鍵が沈む。たったひとつの音色が、頭の奥まで響き渡る。


 しだいに鈍痛は和らいでいった。消えかかっていた景色は霞んだままだが、色づき、輪郭も戻っている。

 ふと最前列の長椅子を見やると、そこには男が背を預けていた。瞼は閉じられているが、間違いなくクラウスをまっすぐと見つめている。白の外套は泥の飛沫を浴び、ところどころが破れている。男は異国からの亡命者のような格好でいた。

 かと思えば、その姿は靄に吹き払われるようにして消えていき、次の瞬間には汚れた外套は赤く染まっていた。懐から噴いた血飛沫は、ぽたりぽたりと一滴ずつタイル床に零れていく。胴体に突き立てられた鉄剣は窓からの稲光にさらされて、濃く陰る。


「また、か」


 口を衝いてでた言葉は恐怖ではなく、ましてや余裕でもなく、一種の呆れだった。喉からひと知れず迫りあがる熱塊を口尻から垂らしながら、景色に手を伸ばす。

 バタン。

 とたん、背後から硬い音が響く。振りかえると、目先ではピアノ椅子が倒れていた。その振動を合図に、おぼろげであった視界は澄みきっていく。タイルは白く、輝いている。賑わいだす鼓膜の先には、信者たちが雑談を交わす影があった。

 幻覚から戻ってきたのだとわかると、安堵が、胸の内を満たしていった。



 敷かれた曇天から月光がのぞき、雨風が晴れる夜20時。クラウスは窓を見ながら教会の渡り廊下を歩いていた。幻覚からまだひとときだ。遅れて怖気が湧きあがる。冷や汗が止めどなく滲みだす。かき上げた黒髪から震えを含んだ手のひらが抜ける。


 唇がへの字に曲がった青年と、皮膚の発疹に薬を塗られた少女が、むじゃきにはしゃぎながら廊下を横切っていく。日向の匂いが鼻を突いた。振りかえると、また別の少女がすーっと横を過ぎていった。その少女には脚がない。包帯が巻かれた手で車輪を転がして、先ほどの2人に着いていっている。

 ヴァルトシュタイン教会孤児院で暮らす12人は皆が皆、戦災孤児だ。戸籍の欄が空白でも、心身に後遺症を抱えても、やがて昇る朝焼けに目を向けなければならない。ベルリンという大都市は、残酷にも、そうなってしまった。


 クラウスは孤児院へと向かった。リビングルームは晴雨せいうの間のように、パズルマットを隔てて整然と乱雑の境目をさまよっていた。パズルマットには新幹線のレールが敷かれ、それを囲むように図鑑が積み重なっている。ところどころにはおままごとの小道具が置かれていた。

 6人の孤児たちは、遊び足りないとダダをこねるようにして、それぞれがなりふり構わず遊んでいた。奇声や乱暴な足音は、夜になっても変わらない日常だ。

 その中でふと、ひとつだけ、リビングルーム隅の陰影でページをめくる音がする。

 近づき、話しかける。


「なんの本読んでるんだ?」


 前方、そして上からの声にノアの顔がこちらを向いた。本に添えられた指が止まった。長い前髪の奥の瞳にはハチマキが、左手には白杖が握られている。


「植物の、図鑑、みたい」


 手渡された図鑑をパラパラとめくる。サンタンカ、シャクヤク、ゲッカビジン。写真だけがあり、その下の解説欄は膨大な点字が連なっている。時にはまるまる1ページ分あり、その分、図鑑の分厚さはほかとは比べ物にならなかった。

 クラウスはノアの隣に座り、両膝を曲げその上に顎を載せる。ノアはきっとその動作に気づかない。


「お兄ちゃん、お花ってどんな見た目なのかな」


 表情は窺いしれないが、さびしさに満ちているのだと、声色からわかる。


「花、好きか?」


 こくり、とうなずく姿が見える。遠いまなざしに天井に配る。会話は途切れた。騒がしいパズルマットの隅で、息苦しい沈黙が流れる。

 再開したのはノアの提案からだった。


「ねぇ。チェス、しない?」

「え?」

「昔から得意で、よく……遊んでたから」


 クラウスはほほ笑み、ああ、と言葉を返した。


 1人で黙々と積み木を組み立てる少年に、床にレールを敷いて列車のおもちゃを走らせる2人の顔触れ。おままごとに勤しむ3人の少女たち。その手前にある整然としたテーブルで、クラウスは椅子に座り、色あせたチェスボードに目を凝らしていた。

 互いの駒はモノクロの戦場で相対し、一手一手、磐石ばんじゃくな主戦場を形作っていく。


 向かいの席には、ノアが腰かけていた。表情からはなにも読み取れないが、机をモールス信号のように規則的に叩くその態度で、厳格なまなざしを向けているのだとわかる。

 それは一国の長さえ操る、傀儡師くぐつしの目だ。


「どうかな、これで」


 落ち着いた、それでいて不安げな声が耳に飛びこむ。熟考の末に選ばれた聖職者ビショップは、盤上の角まで後退する。


「なるほどな」


 ターンが回り、クラウスは顎に手を添え、戦略を練る。クラウスの手中には王様キング王妃クイーン、そして騎馬ナイトが収められている。ノアの容赦のない一手を掻いくぐった手駒は、キングを除いて移動範囲も広く、強力だ。

 ノアの陣地にはキングとビショップ、2体の歩兵ポーン。囮を残しつつ慎重に動かれ、まるで隙がない。

 とはいえ、


「関係ないな」


 熟考する間もなく、クラウスのナイトは上斜めに駆け抜け、ポーンの首を掻っさらう。斜め左に捉えた獲物はキングの頭。

 ノアは負けを憂慮ゆうりょするわけでも焦る気配もなく、告げた。


「お兄ちゃん、結構強いんだね」

「いや、別に、ただ感覚でやってるだけだ。強いもなにもないよ」


 ノアは笑みを浮かべながら、キングをナイトの眼前に滑らせる。それでもナイトは止まらない。クラウスのターン、ナイトの馬は蹄鉄ていてつを打ち鳴らしながら上斜め右へ疾駆し、2体目のポーンを屠り去った。


「それを生かしておくわけにはいかないかな」


 対してノアもまた強気にビショップを走らせ、錫杖によって、ポーンの敵討ちにナイトを葬る。

 この一手が最終局面を織り成し、互いの配下が生き絶える結末となった。盤上はあっという間に更地となる。


 クラウスの陣地にはキングとクイーン、ノアの陣地にはキングとビショップ。

 互いが一手を読み合い、戦術を探り合う。


 クラウスがかすかに頬を綻ばせ、キングを浮かせた。

 そのときだった。扉の奥で、足音が聞こえた。振りむくと、背後で修道服が揺れる。


「あら、お取り込み中でした……?」


 クラウスはひとつ、ため息を吐いた。

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