第2話(3)試したいこと
薄暗いレンガ造りの道を現と甘美が歩く。
「ふむ……」
「極々普通の夢世界ですわね……」
「いや、普通ともちょっと異なるな……」
「え?」
「気が付かないか?」
甘美が周囲を見回してからハッとなって呟く。
「……ここまで誰とも遭遇しませんでしたわ……」
「そうだ」
「どういうことなのですか?」
「さあな」
現が両手を広げる。
「さあなって……」
「私もこの夢世界に精通しているわけじゃない、ほぼ推測にしかならないが……」
「それでもお聞かせ願いたいですわ」
「……簡単に言うと、心に抱えている悩みがこの夢世界に反映されていると思われる……」
「ええ」
甘美が頷く。
「ここまで誰とも遭遇しなかったというのは異常と言ってもいい……通常時を知らないわけだから何とも言えない部分はあるのだが……」
現が苦笑する。甘美が口を開く。
「……田中教授はお悩みが全くないということ?」
「それはどうも考え難い、普通の人間ならば、何かしらの悩み事やストレスを大なり小なり抱えているものだ」
「そうですわよね……」
甘美が腕を組む。
「仕事のことはもちろん、こういってはなんだが、年齢的に考えて、健康面についての不安などもあっておかしくはない」
「ええ……」
「考えられることは一つ……」
現が右手の人差し指を立てる。甘美が問う。
「なんなのですか?」
「……全てを覆いつくす巨大な悩みがあるということだ」
「全てを覆いつくす……」
「ああ、他の悩み事など些細なことと思われるものだ」
「それがこの夢世界に?」
「……奥まで行けば分かるんじゃないか?」
現が道の先を指差す。甘美が深々と頷く。
「……行ってみましょうか……」
二人は歩みを速める。しばらくして現が呟く。
「通路が少しばかり広がってきたか……?」
「!」
甘美がピタッと立ち止まる。
「……いたか」
「ええ、この角を曲がったところに……」
甘美が角を指差す。二人はそっと覗き込む。
「ウウウ……」
「む!」
黒く丸々と太った影がそこにはうごめいていた。両手で頭を抱えていることから、かろうじて人型の影だということが分かる。
「ふむ、あれがこの夢世界のボスのようなものか……」
現が冷静に分析する。甘美が尋ねる。
「どうしますか?」
「それはもちろん、取り除くしかあるまい」
「よ、よろしいのですか?」
「ああ、あれがいわゆる悩みの種なのだからな」
「で、では……」
「ちょっと待て」
角を曲がろうとする甘美の肩を現が掴む。
「な、何ですの?」
甘美が首を傾げる。
「考えがある……」
「考え?」
「ああ、ここは任せてくれないか?」
「え、ええ……」
現の申し出に対し、甘美は戸惑いながらも頷く。
「では……」
「お、お気をつけて……」
現が角を曲がり、太った影の前に進み出る。
「ウウ……」
「ちょっと失礼」
現が太った影に呼びかける。
「ウ……? ウウ……」
太った影は一瞬、現の呼びかけに反応したかと思われたが、また頭を抱える。
「呼びかけには一応反応するようだが……」
「ど、どうするのですか?」
様子を見ていた甘美が問いかける。
「ふむ、ちょっと試してみたいことがある」
「試してみたいこと?」
「ああ」
現が背中にしょっていたキーボードを体の前に持ち出す。
「いつも通りではありませんか」
「まあ、見ていろ」
「はあ……」
「……~~♪」
現がキーボードを弾いて音を奏でる。
「優しい音色ですわね……」
甘美が目を細める。
「ウ……」
「……~~!」
「えっ⁉」
現が急にメロディーの雰囲気を変えたため、甘美が驚く。
「ウウッ!」
太った影が暴れ出す。
「ちょ、ちょっと! 刺激を与えてどうなさるのです⁉」
「静かに!」
現が甘美を制する。太った影が何やらぶつぶつと呟く。
「ウウッ! ……パ……ツ……シテ……ドウモ……シイ……」
「え……?」
「~~♪」
「あ、曲調が戻りましたわ……」
「ウ? ウウ……」
「また大人しくなった……」
「~~~♪」
「さらに優しい音色に……」
「ウウ……」
太った影が霧消する。現が呟く。
「……戻るとするか」
「う……」
田中が目を覚ます。
「良い夢はご覧になれましたか?」
甘美が声をかける。
「え、ええ……」
「それは良かったですわ」
「うん……」
半身をチェアからゆっくりと起こした田中が頭を軽く抑える。
「? どうかされましたか?」
「い、いいえ、なんでもありません……」
甘美の問いに田中が首を左右に振る。現が尋ねる。
「……ご気分はいかがですか?」
「……はい、お陰様でいくらか晴れやかになりました……」
「そうですか……順番が前後してしまって恐縮なのですが、こちらの書類に必要事項のご記入をお願いいたします……」
現が紙を田中に手渡す。
「は、はい……」
「あくまでもこちらの記録用です。外に出るということはあり得ません」
「わ、分かりました……これでよろしいでしょうか?」
席を移した田中が書類の記入を終え、現に渡す。現がそれにざっと目を通す。
「……はい、大丈夫です。以上でセラピーは終了となります」
「そ、そうですか……」
「お支払いの方、よろしいでしょうか?」
「ええ……お願いします」
「……ありがとうございます」
「それでは失礼します……」
「お気を付けてお帰り下さい」
田中が事務所を後にする。甘美が首を捻る。
「……いくらか?」
「ふっ、気付いたか」
現が笑みを浮かべる。
「完全にクリアになったわけではないのですね」
「そういうことだな」
「よろしいのですか?」
「アフターケアもしっかりと行わなくてはな……」
現が書類をピラピラとさせる。
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