scene 5. 解離

 夕食後、ようやく先生がおいでになりましたよとメアリーが呼びに来た。ケイレブは言葉であれこれ云うよりも読んでもらったほうが早いと、まだ完成はしていない小説の原稿を封筒に入れて持ち、部屋を出た。

 ケイレブの担当だという医師、アロイシャスは、ケイレブの話――自分は殺人を犯したことがあるのに、その記憶が失われているようだということ、その殺人は巷で話題になった〝魅惑の殺人鬼〟による犯行とされているものの一部ではないかということを聞くと、そんなばかなと笑い飛ばした。喰い下がるようにして示した原稿の殺人シーンも、アロイシャスは苦笑いするだけでまともに読む気すらもないようだ。

「いいですかクロウリーさん。そんなのはすべてあなたの妄想に過ぎません。大丈夫、安心してください。あなたは殺人鬼なんかじゃありませんよ。記憶に曖昧な部分があるのは、それは解離性障害によるものです。あなたはその治療のためにここにいるんです」

「いいえ先生、妄想なんかじゃありません……。断片的にですが、覚えているんです。血で真っ赤に染まった死体や、刺された女性の生前の顔や、刺した感触まで……! こんなの妄想では有り得ない。どうぞ、その原稿を読んで〝魅惑の殺人鬼〟が起こした事件についての新聞記事とでも見比べてみてください。一致しすぎているんです、だから、やっぱり僕は――」

 必死に訴えるケイレブに、アロイシャスは眉根を寄せた。話が途切れるのを待って「まあ、落ち着いて」とその顔を覗きこむ。

「クロウリーさん。ところで、食後のお薬はちゃんと飲まれましたか?」

 不意に訊かれ、ケイレブはぐっと言葉に詰まった。やはりという目つきで、アロイシャスは傍らにいたメアリーになにか指示をした。

「だめですよー、お薬はちゃんと飲まないと。せっかく良くなってきたんですから」

 程無く戻ってきたメアリーは、注射器となにかのアンプルを手にしていた。なにを打つつもりだとケイレブは思わず立ちあがり、「す、すみません。つい飲むのを忘れて……部屋にあるんで、戻って飲みます」と診察室を出ようとした。

「クロウリーさん――」

「大丈夫です、薬飲んで、もうやすみますんで! 変なことを云ってすみませんでした」

 たぶんあれは鎮静剤かなにかだろうとケイレブは思った。アロイシャスは自分の話をまともに聞こうとしていないようだったし、妄想を垂れ流す面倒な患者はおとなしく眠らせておくに限る、くらいに思っているかもしれない。

 ケイレブは逃げるように廊下を足早に歩いた。そしてふと、原稿をアロイシャスに渡したままだったことを思いだした。しまったと振り返り、戻ろうか、それとも明日メアリーにでも頼もうかと迷う。

 けれど、やはり大切な原稿だし……と、ケイレブはまた来た方向へと歩きだした。いろいろ考えるためにも、今はあの原稿は手許に置いておくべきだ。薬があると言い張れば、無理遣り注射を打たれることはないだろう。

 診察室のドアの前で立ち止まり、もし自分を無理遣り取り押さえようとしたりする素振りがあれば、すぐに逃げようと心の準備をする。ふぅと息をつき、ノックをしようと手を上げたそのとき、ぼそぼそと話し声が聞こえた。

 ドアにぴたりと耳をつけ、ケイレブはアロイシャスとメアリーであろうその会話を聞いた。

「――でも、せっかくあんなに良くなってきたのに……良くなってきたから、記憶の一部も戻ってきているのでしょう。なのに閉鎖病棟へだなんて、お気の毒すぎます」

 閉鎖病棟!? ケイレブは目を丸くして息を呑み、盗み聞きを続けた。

「しかしね、自分を殺人鬼だと信じこんでいるんだよ? こんな物騒な小説まで書いて、人殺しのことで頭をいっぱいにしてるんだ。殺した感触まで覚えてるだなんて、はっきり云ってまともじゃないよ。いつまた錯乱するかわからないし、そのとき本当に誰か刺されでもしたらどうする。

 閉鎖病棟に移すと云ったって拘束衣を着せるわけじゃなし、完全に自由を奪うわけじゃない。タイプライターさえ与えておけばおとなしいんだろう? 部屋を移動するだけだ、今までとなにも変わらない。移すべきだよ」

 それを聞き、ケイレブはそろそろと後退り、急いでそこから離れた。廊下を折れ、診察室から死角になると壁に背中をつけ、冗談じゃないと天井を仰ぐ。

 記憶が曖昧なのは解離性障害の所為だとアロイシャスは云った。古い映画で観た程度の知識しか自分にはないが、解離とかいうのは確か多重人格症のことではなかったか。

 もしそうなら、記憶に妄想か現実かわからないような曖昧な部分があるのも納得である。今は自分のことを小説家のケイレブ・ノーマン・クロウリーだと思っているが、それ以外に人格があって、その別人格が殺人を犯しているのだとしたら――なんとなく覚えているような気がするけれど、はっきり自分の記憶だとはわからないのも無理はない。

 とにかく、あのアロイシャスという医師は、自分を閉鎖病棟に移す気らしい。この施設のなかにそんなものがあったことさえ初耳だが、閉鎖病棟などと名がつくのがどんなところかは知っている。檻に閉じこめられ、食事にはスプーンしか与えられず、自由に部屋から出ることもできない。自殺防止のため二十四時間監視が付き、扱いやすいよう薬漬けにされるのだ。

 そんなところへ移されたら、今度こそ本当に頭がどうかしてしまう。逃げよう。もうここから逃げだすしかない――ケイレブはそう心に決め、交差している広い廊下の真ん中で足を止めた。

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