邪道の剣
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邪道の剣
夜空には満ちることのない星が輝き、深い青色の空に光る。
星座がはっきりと見え、銀河が天の川として輝いている。
そこに満ちた月が静かに浮かぶ。
雑木林の間近にある線路沿いの木々は、月光の下で静かに並んでいた。
木漏れ日のように柔らかな光が葉っぱを透かし、地には銀色の影が落ちて、風に揺れると波打つように揺らめく。
夜風は、草原を優しく撫でていく。
その風に吹かれると、自分が小さくなったような気がする。
まるで、この星に降りたった異邦人のように。
自然の中で、人間という生き物は、あまりにも小さな存在なのだ。
月光浴でもするように、一人の少年が佇んでいた。
黒い打裂羽織を着た少年。
長めの前髪を額にかけ、そこにしっかりとした面立ちがあった。
だが、武骨ではない。
顔は親から譲り受けたものだが、環境でその面立ちは変わる。
恵まれた環境ならば、穏やかなものに。
荒んだ環境ならば、厳しいものに。
少年の場合は親から譲り受けたもの以上に、環境でできあがった面立ちが感じられた。ガラスのような透明で冷ややかで、浸食を受けつけない不変さを持つ。そんな面立ちだった。
発育の良い今日日の子供は、中学生くらいでも大人と似た体格から、年齢を見誤ることもあるが、長い年月から見れば人間の2、3年の歳の違いなど取るに足らないことであった。
だが、少年の長い前髪の奥に存在している眼に宿るものが、切った張ったの世界で生きる者さえも戦慄を憶えるものがあるとしたら、話しは別だ。未成年という青い存在としては片付けられない。
手には、鍔の無い刀を右手に、腰には脇差があった。
刀の寸尺は二尺(約60.6cm)しかない。刀の定寸が二尺三寸五分(約71.2cm)なので思いの外短いが、造りは蛤刃と呼ばれる戦国期にみられた刀。
短い刀より長い刀の方が有利と思われるのが一般的な印象だ。
事実、幕末期には長刀が流行し、幕末に勤王の志士が好んで差した刀・勤王刀は刃長が長く、反りの少ない。切先が鋭く、刺突に用いた場合、どこまでも深く貫く目的で作られている。
だが、戦国時代は小太刀の方が重宝されていた。
それは戦場ではもみ合いになり組み討ちになることが多いため、刀身の長さでは勝負にならないからだ。それに引き替え、小太刀や短刀は携帯性が良く、暗殺対応を含めて護身用として用いられた。
また、短い分取り回しが利くので、敵の懐に飛び込まなければならないときなどにも向いている。
そのため、実戦では長い刀よりも短い刀の方が多く使われた。
少年は、長さのある打裂羽織の裾を風になびかせながら、じっと佇んでいる。
彼の周囲には、刀を手にした四人の男がいた。
彼らは皆、同じ黒装束を纏っている。
闇に溶け込むような漆黒の衣に身を包み、目元以外を全て覆い隠していた。
一見すると忍者のようでもあるが、彼らが纏う雰囲気には、どことなく血生臭さが漂っていた。
少年は彼らに見覚えは無い。
だが、少年は狙われる理由は腐る程あった。
裏の世界に関わる者は、大抵が脛に傷を持っているものだ。
そして、脛に傷がある以上、恨まれることもある。恨みを買うということは、命を狙われることと同意語である。
少年は男らに目を向ける。
男達は、少年を囲むようにして立っている。
1対4で勝てる道理はない。
そもそも、多勢に無勢という言葉もある通り、数の差は圧倒的な戦力差となる。
だが、そんな状況にあっても、少年は落ち着き払っていた。
静かな湖面に風が吹くかのように、心がざわめくことはない。
それどころか、感情すら読み取れない無表情のままであった。
ただ、瞳だけが異質な輝きを放っており、男達はその光を恐れるように、僅かに後退した。
その隙を逃さず、少年は地を蹴った。
一瞬で間合いを詰めると、先頭にいた男に向かって刀を横様に薙ぐ。
男は咄嗟に反応し引くが胸元を浅く斬られる。
血が滲み、痛みに顔を歪めた男が後退する。
その間に他の二人が動く。
左右から同時に襲い掛かってきた。
一人は袈裟懸けに斬りかかり、もう一人は逆胴を狙ってくる。
少年は、振り下ろされた刀を足捌きで躱し、そのまま踏み込みもう一人の男の腹部を切り裂く。
二人同時の攻撃に対し、躱しながらの斬撃であるが故に、少年の刀は致命傷を与えられない。
それでも、深手を負わせたことには違いなく、二人は苦痛に呻きながらも距離を取った。
仲間がやられたことに怒りを覚えたのか、それとも恐怖したのか、最後の一人は奇声を上げて刀を振りかぶって突進してきた。
少年は慌てることなく、右手に刀を下げた無構えにて迎え撃つ姿勢をとる。
するとそこに、一つの影が飛び込んできた。
ミリタリートレーニングジャケットを着用し、テーパードジーンズとスニーカー姿の青年だ。
年齢は20代半ば。
黒髪は短く整えられ、清潔で爽やかな印象を与えていた。
身長も高く体格も良いため、スポーツマンのように見えなくもないが、目つきの鋭さと醸し出す雰囲気がそれを裏切っている。
なおかつ手には刀が握られており、その切先からは赤い雫が流れ落ちていた。
黒装束の男の一人が利き手を押さえている。
刺突が入ったことを意味していた。
出血量が多くなり、傷口を押さえる手が赤く染まっていく。
「誰だ!」
黒装束の男が訊く。
すると、青年は言った。
「敵だ。お前達にとってはな」
青年は答えると同時に、左手を前に突きだした。
掌を開き、五本の指を揃える。
指の間にはコイン大の小さな石があった。
それが弾けて消えるように、勢いよく射出される。
銃弾のような速度で飛んだそれは、正確に男の顔面を捉える。
鼻骨を砕かれた男は悲鳴をあげながら顔を押さえて仰け反った。
指が食い込み血が流れ出る。
「印字打ちか」
少年は青年の技を見抜いた。
【印字】
石を投擲することによって対象を殺傷する戦闘技術。礫術とも。
手で投げることを始めとして、投石器を使用するもの、手ぬぐいや
日本における石を用いた投弾・飛礫は、弥生時代を通じて見られ、この時期の出土品は北部九州に多く、また土製も見られる。民族例では、棒や紐による遠心力を利用して、射程が100mを超え、上達すると350 - 450mも飛ばせる。
原始的ではあるが、投擲武器としての印地打ちは離れた敵を倒すのには最も効果的で、源平合戦の時代のみならず、後の時代を経ても合戦の場には必ずと言っていい程石投げが戦いの技術として用いられてきた。
印字打ちはただ遠くに投げるだけでなく、相手の回避行動を先読みし、ニ個同時に投げることで命中率を上げるなどの術もある。
黒装束の男達は、予想外の青年の出現に戸惑い、攻撃の手が止まってしまった。
青年が放った印字は、全て狙い通りに当たっている。
しかも、相手は顔を潰されて怯んでいるので反撃に転じられない状態だ。
「退け」
黒装束の一人が言った。
すると男達は踵を返して逃げ出した。
不確定要素が出現したことで不利を悟ったのだろう。
そして何より、青年の実力を正確に把握したからであろう。
青年は追わなかった。
いや、追う必要が無かったと言った方が正しいだろう。
何故なら、青年の目的は黒い打裂羽織の少年なのだから。
「敵の敵は味方。とは聞くが、お前の場合は違うようだな」
少年は青年に言う。
青年は、それを追うことなく見送ると、彼は振り返る。
「諱隼人だな……」
青年は訊く。
「だったらどうする?」
少年・隼人は答えた。
その声はまだ幼さが残るものの、落ち着いたものだった。
しかし、その眼光だけは鋭い光を宿している。
隼人は、それ以上は答えない。
青年は手にした刀を向けた。
月明かりに照らされる刀身は妖しく光り、闇夜の中に浮かび上がる。
刃長は二尺三寸五分(約70.6cm)。反りは少なく、重ね厚く身幅が広くなっている剛刀である。
そして、刀を持つということは、彼が裏の世界の住人であることを示していた。
対して、少年・隼人の持つ刀は寸尺の短い刀。
二人は対峙する。
「俺は沖宮雅彦。立ち会いたい」
青年――雅彦が言った。
隼人は自嘲気味に笑う。
「俺のようなガキ相手にしてもつまらないだろ? やめておけよ」
だが、その言葉に対して、雅彦は静かに首を横に振った。
その顔は真剣そのもので、冗談で言っている訳ではないことが伝わってくる。
だからこそ、余計に不気味だった。
雅彦は続ける。
「《なにがし》と言ったらいいのか? それとも分かりやすく言った方がいいのか、魔傅流と?」
そこで言葉を切ると、ゆっくりとその流儀を告げた。
【北川魔傅流】
上州にて魔物から伝承されたという、より恐るべき魔伝剣術。
秘伝中の秘伝剣術として、上州の地をでることなく、また僻地における秘密性故に『本朝武芸小傳』『日本中興武術系譜略』『撃剣叢談』『新撰武術祖録』といった江戸期におけるどの武術流儀解説文献にもその流儀の記載はない。
しかし、師範家や周辺に残るいくつかの秘伝書群により、その驚異の秘伝剣術が確かに存在したことを証明することができる。それらの資料には北川魔傅流という奇妙な名称が記載され、同流儀が伝えた様々な秘術の内容を表している。
つまり魔傳流は、兵法三大源流である念流、神道流、陰流に匹敵する古い歴史のある古式剣術であることが伺える。
ちなみに、兵法三大源流とは、剣術の源となる三つの流派。
本格的な剣術流派が成立し始めたのは室町時代まで遡る。念流、神道流、陰流の、これら三つの源流として剣術は大きく発展し、後世にいくつもの流派を作り出し700以上にも及んだ。それ程多く派生した剣ではあるが、その祖先を辿っていくと、この三つのどれかから発生した剣術を言われる。
つまり、剣術史における第四の古式剣術が魔傅流となる。
「魔傅流。剣術史における虚構ではない、まさに伝説――レジェンドというわけだな」
雅彦は抜いていた刀を右八相に構えた。刀の柄を顔の右横に立てる構え。
刀を抜いた剣士同士の出会い。
それは殺し合いの始まりを意味する。
隼人は手にした刀を右手に下げたまま、動かなかった。
一見無防備に見えるが、無形の位と呼ばれる古流剣術の構えだ。
無形の位は隙だらけだ。
どこからでも斬り込めるが、自然体であるが故に、どうとでも対応できる。元々構えていないのだから、構えが崩されることもない。
形のない攻撃体勢をとっている訳だが、形がないということは、相手がどんな形でどこから攻めてきても、それに対して自由自在に相手の出方に対応することができる。
それは、隼人もまた一流の使い手であることを物語っている。
(面白い……)
雅彦は思った。
これほどの剣士に出会うことは滅多にないからだ。
そもそも裏の世界に生きる者は、表世界の人間との接触を避ける傾向にあるため、必然的に出会う機会も少ないのだが、それにしてもこれは僥倖と言えるかもしれない。
両者共に睨み合ったまま動かない。
先に動いた方が不利になるからだ。
(さて……。どうしたものか)
隼人は考える。
迂闊に飛び込めば、たちまち斬られる。
それほどまでに相手の力量を感じることが出来た。
(ならば……)
隼人は一歩前に踏み出した。
同時に雅彦が飛び込んでくる。
左袈裟斬り。
左の鎖骨から、右脇腹を斬る刀法。
しかし、その動きを読んでいるかのように、隼人は左に身体を捌いてそれを躱すと、右手に下げていた刀の柄に左手を寄せる。刀が両手で握られた瞬間、隼人は、刀をすくい上げる様にして、すれ違いざまに雅彦の右脇腹を斬り付ける。
だが、雅彦は右脚を引いて、隼人の斬撃を躱すと同時に、そのまま横薙ぎの一閃を放った。
隼人は、間一髪で後ろに飛び退くことで回避するが、僅かに刃先が肩先をかすめる。
血が一筋流れ落ちるが、気にする暇はない。
すぐさま追撃してくる雅彦に対し、今度は隼人の方が仕掛けた。
低い姿勢からの逆袈裟斬り。
下から上へ振り上げられる刃を、雅彦は冷静に見極める。
隼人は刀を振り上げることで、防御態勢がガラ空きになった。その足元めがけて、雅彦は渾身の力を込めて斬撃を放つ。
狙い
――はずだった。
その瞬間、信じられないことが起こった。
なんと隼人は、刃先が届く寸前に右脚を上げ、振り下ろされた雅彦の刃の上に足裏を乗せたのだ。
隼人は、そのまま膝を折る勢いで前のめりになる。
このままでは刀を折られると判断した雅彦は、大きく後ろへ跳んで間合いを取った。
(何という奴だ!)
雅彦は驚愕していた。
今の一撃は間違いなく致命傷を与えるつもりだったし、避けられることも想定済みだったが、まさかあんな方法で対処されるとは思いもしなかった。
しかも、隼人はまだ本気を出していないようだ。
そう思うと、全身の血液が沸騰するかのような興奮を覚える。
「脛斬りの刀法。柳剛流か」
隼人は雅彦の流派を看破した。
【柳剛流】
江戸時代中期、武州出身の岡田惣右衛門奇良が江戸に道場を構えて創始。
剣術、居合、長刀(薙刀)、突杖(杖術)を含む総合武術。
岡田惣右衛門は、心形刀流を大河原有曲から学び、各地を旅して三和無敵流(三和無敵流第4代の広沢長喜より学ぶ)や東軍新当流、山本流などを修行したのち、独自に脛斬りの技を工夫して創始したとされる。
剣術は頭部を含めた上半身への攻撃を防ぐ術には優れていても、ひとたび下肢が狙われてしまうと、普段経験している稽古や試合とはまったく勝手が違う為、見ない位置からの攻撃となるからだ。
剣術が隆盛を極めた江戸時代、剣術流派において足元を狙う刀法は、暗黙の了解で禁じ手とされていた。
しかし、剣術に限らず武術は相手を殺し、自分が生き残る術とするのが本来の役割だ。
そこに禁じ手や反則はない。
岡田惣右衛門は徹底した実戦志向が根底にあり、その強さは向かうところに敵はなく、猛威を振るったという。
雅彦は改めて目の前の少年の強さを再認識していた。
「剣術においては邪道と呼ばれかねないこの剣術をここまで知っているとは……」
感心していると、隼人が言った。
隼人にしてみれば、この程度のことは常識である。
「魔物の剣に比べれば、その程度で驚くことなど何もないさ」
雅彦は苦笑した。
「どうやら、こいつは本物の化け物らしいな……。魔物の扉を開いてしまったかもしれんな」
雅彦は覚悟を決めたようだった。
隼人もまた無形の位に構え直した。
両者の間の空気が張りつめていくのが分かる。
再び緊張が高まり始めたその時だった。
サイレンの音が鳴り響いたかと思うと、急に辺りが騒がしくなった。
遠くからパトカーのサイレン音が聞こえてくる。その音に驚いたのか、鳥たちが一斉に飛び立っていった。
赤色回転灯の明滅が、木々の間から見える。
二人は一瞬目を合わせる。
「無粋だな」
雅彦は小さく舌打ちをした。
警察が動き出したということは、すでに騒ぎを聞きつけた近隣の住人が集まってきている可能性があるということだ。
これ以上ここで戦うのは得策ではない。
それに、この場にとどまっていれば、いずれ警察もやって来るだろう。それは避けたいところだった。
「水入りってやつだ。続きはまた今度にしようぜ」
隼人が、そう言うと、雅彦は刀の刃を拭って鞘に収める。
互いにこれ以上争う気はないということを悟ったのだ。
二人の剣士が去った後、静寂が訪れる。
やがて、パトカーが到着し、警官隊がやって来た時には、既に二人の姿はなかった。
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