第10話 ちょっと変わった朝の出勤

 ひとしきり笑い、すっきりした祥順は複雑な表情の寛茂と、普段通りの浩和というギャップに出迎えられた。再び笑いの渦に巻き込まれそうになり、今度こそはと押さえ込んだ。


「はぁ……すみませんでした」

「いや、構わないよ。それより時間」

「本当だ」


 残りの朝食を急いで口に運ぶ。なぜか食べ終わっていなかった寛茂もかき込むように口へ放り込んでいる。

「先に少し片付け始めるよ?」

「お願いします」

 空になった皿を回収する姿はさながらレストランのウェイターである。その様子を見ていたい気持ちに誘惑されながら、何とか朝食を食べ終える。せっかくの素敵な朝食である。味わわなければもったいない。


 コーヒーを飲みながら腕時計を確認すれば、普段よりも余裕のある時間だった。少しほっとしながら、慌ただしく鞄の整理をしている寛茂を見つめた。

 いつ「行く」と言われるか分からないから不安なのかもしれない。証拠に浩和の動きを気にしているそぶりを見せている。

 一応声掛けをしておいた方が良いだろう。


「あと十分くらいしたら出社しますよ」

「はい!」


 いい返事をした寛茂は、引き続き荷物の整理をしている。祥順自身はそこまで準備の必要なものはない。出勤時に使っている鞄に綺麗なハンカチを入れるくらいである。

 ジャケットと鞄を部屋から取ってくると、寛茂が浩和と家事を交代するところだった。


「良いですよ、間に合わない分は水に浸しておけば問題ないんですから」


 イレギュラーに一晩彼の面倒をみたとはいえ、この家にやってきたからにはお客さんである。まあ、浩和はそういう感覚ではなくなってしまったから、適当に家事も任せてしまっているが。


「でも、何かしないと俺の気が済まないんです」

「伊高さんの気持ちだけの問題なので、そこは勝手に解決してください。ほら、グズグズしていると遅刻ですよ?」


 あえてしれっと、時計を叩いて見せながら歩く。一瞬唖然とした表情を見せた寛茂だったが、祥順の様子に一層慌て出す。彼のような単純で真面目ながらにポジティブな人間は好ましい。


「カジくん、お待たせ」


 ジャケットを着て戻ってきた浩和は笑っていた。もしかしたら、一連の流れを見られていたのかもしれない。彼は棚に立てかけてあった自分の鞄を持ち上げて寛茂を見やる。

 ブリーフケースを肩に掛け、重心をずらして立つ姿はモデルみたいである。今更だが、そのブリーフケースがデザインの割に多機能な事で有名なブランドのものだと気が付いた。できる男はツールにも気を使っているのか。


「ヒロ、家主を困らせるなよ。家主がルールだ」


 祥順が考えている事を、爽やかかつ分かりやすく言い換えて寛茂に伝えてくれる。こういう時、祥順が発言するとストレートすぎて空気が悪くなってしまう。浩和がうまく取り持ってくれるお陰で、何度も危機を脱している気がする。

 何だか、浩和がいなければ生きていけないようになってきたかもしれない。

 浩和に甘えっぱなしの自覚はある。浩和が率先的に甘やかしてくるからこその状況だというのは、あながち間違ってはいないだろう。

 だが、こうして甘やかしてもらえるのを嬉しく感じてしまうのだから、きっともう末期なのである。


「カジくん、ヒロも準備できたから行こう」

「ああ」


 さっと革靴に足を入れた二人が玄関から出た。光の長方形に男が二人。何だか不思議な光景だった。普段は見れない光景に、視線が釘付けになる。

 社外に人間関係を広げるのって、意外に楽しいのかもしれない。そう祥順は感じたのであった。




 三人で揃って出社するというのも、中々におもしろい体験だった。普段よりも少しだけ賑やかな出勤。エレベーターに乗り、おのおの別の階で降りる。

 出勤中の会話はもちろんオフの過ごし方や、普段の食生活だったりと仕事とは関係ない話ばかり。浩和と共に過ごす時とはまた違った風で、酔い潰れた男を成り行きで介抱したにしては楽しかった。

 寛茂の明るい性格も相まって、面倒だとか負の感情を抱くまでもなかった。それに、初めて浩和と同じベッドで眠ったのだが、いつも以上に快眠だった気もする。


 スキンシップが人間のストレスを緩和させるとは聞いた事がある。一つのベッドで他人と寝たからかもしれない。思った以上に人の体温は祥順に安らぎをもたらしたようである。

 また、普段とは違った状況で脳が活性化されたのか、少しばかり頭の回転も早い気がする。単純に快眠だったせいかもしれないが。だとしたら普段はそこまで眠れていなかった事になり、それはそれで今後の睡眠の質について考えないといけない。


 祥順はそんな事を考えながら仕事の準備をしていた。

「おはようございます」

「あ、栗原さん。おはようございます」

 千誠の声に顔を上げて反応すると、菩薩のような笑みをした彼が立っていた。


「昨晩はありがとうございました」

「えっ?」

「伊高さんが、はしゃいだまま私にまで報告してきましたよ」

「ああ……」


 昨日酔い潰れて祥順の家に泊まった事を言っているのだろう。寛茂の口地の軽さには閉口したくなるが、口止めをした記憶はなかった。そりゃ、あれだけ興奮していたら誰かには言うだろう。


 千誠はそっと紙袋を渡してくる。


「これ、受け取ってください」

「えっ」


 寛茂の面倒をみたのと、千誠が贈り物を寄越すのと関連性が全く分からない。不思議そうに見上げれば、凪いだ湖面のような顔が見下ろしていた。


「彼は今、私の身内みたいなものですから。上役が代わりに礼をするのは当然の事です」


 かしこまっているのか、アットホームなのか、祥順には分からなかった。ただ、拒否はできないな、とだけ。


「じゃあ、いただきます」

「はい。ありがとうございます」


 紙袋の中身はコーヒーショップで売っているマフィンが二つ。チョコレートチップがたくさん混ぜ込まれたそれは、独特なスパイスを加えているのもあって中々店頭で見かける事のない売り切れ必至の一品である。

「っ……これっ!」

 祥順の驚き方へ満足そうに頷き返し、にっこりと吉祥天の笑みを見せてくる。


「滝川さんと、二人で召し上がってください」

「……はい…………」


 去っていく綺麗な背中を見つめながら、祥順はマフィンの入った紙袋を優しく抱きしめるのだった。

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