第3話 巨手の魔

 柔らかな満月の光が辺りを照らす中、一台の車が山間にポツンと佇む廃墟の前に停まった。既に深夜になろうという時間だが、今夜は満月だけあって、周囲はかなり明るい。

 車から降りた二人の人影…狛と佐那は、目的の廃墟へゆっくりと近づいていった。


「ここが試練の現場かぁ…でも、なんでこんな所に病院が?」


 キョロキョロと辺りを見回す狛。確かに、ずいぶんと辺鄙な場所である。かろうじてここに至るまでの道路は舗装されているが、山間部だけあって道は狭く、カーブも多くてお世辞にも利便性が高いとは言えない雰囲気だ。


「昔、この辺りにはいくつか集落が点在していたのよ。その人たち向けの施設だったの。今は高齢化で人口が減ったのと、残った人達も少し離れた都市部へ移住したりして、集落そのものが無くなってしまったみたいだけれど」


 そう言って、佐那は病院を見上げている。月明かりに照らされた大きな建物は、かつては人々が頼った大事な施設だったのだろう。あちこちにヒビなどが見えるものの、ガラスはしっかり残っているし、廃墟によくある若者の落書きなどもない。しかし、何か近寄りがたい、異様な気配を漂わせていた。


「利用者が減ったのには、他にも理由があってね。医療ミスで若い女性が亡くなってしまったの…お腹にいた赤ん坊と一緒に。それ以来、女性の幽霊を見たって噂が絶えなくて、人が寄り付かなくなってしまったらしいわ」


 同じ女性として何か思う所があるのか、寂しげに語る佐那の姿を見ていると、まだ初恋もしたことがない狛の胸にも、言いようのない寂しさが去来する。


「それじゃ、除霊が試練ってこと?」


「それだけかどうかは、中に入って調べてからよ。この試練は貴女の適性を見る上で、状況を的確に判断する能力があるかも見るものだから。本当に除霊が必要なのかも含めて、きっちり自分の目で見て、考えなさい」


 話しながら、佐那は鍵を空けて、金属の丸い押手が着いたガラス製のドアを開き、狛を見据えた。もわっとしたかび臭くて生温い空気が、外へ漂ってくる。思わずごくりと唾を飲み込んで、狛は病院内へと足を踏み入れた。


 建物の中に入ってみると、造りこそ古いが、中は思ったよりも綺麗な状態に見えた。入ってすぐのエントランスは左側に受付があり、右側は待合室だったのだろう、既にベンチなどは引き払われているから、がらんとした広い空間があるだけだ。

 待合室側の壁はガラス張りになっているので、月明かりでいくらか明るいが、奥に繋がる廊下の先は完全に闇に包まれていて、何も見えない。


 狛は腰に下げたツールバッグから、持参した懐中電灯を取り出して電源を入れ、廊下の先を照らしてみた。しかし、特に異常は見当たらない。ただ、何か異様な気配を感じるのは間違いなかった。


 狛の後に続いて建物の中へ入った佐那は、じっと狛の様子を伺っている。先程はああ言ったが、実の所この廃病院での除霊は、すでに終わっている。


 試練の内容は人によって様々だが、今回の狛の試練は、この何もないはずの場所でどういう行動をとるか、それを見る事が一番の目的であった。犬神家の一族において、狗神に選ばれた時点で、強い霊力を持っているのは間違いない。その実力を活かすも殺すも、第一に必要なのは状況を把握する力である。


 退魔士や祓い屋といった裏稼業は、霊的な存在を信じない人間や、それを感じ取る事が出来ない人間には全く理解できない世界だ。


 それにかこつけて、詐欺師のように依頼主を騙し、必要のない儀式を行ったり、道具を高値で売り捌く詐欺まがいの同業者もいる。そんな悪徳業者になることは、絶対に許さないのが犬神家である。時には何もない事を見抜く目を持つことも、犬神家の退魔士としては重要な素質とされた。

 ただ、この場所に立ち入ってから何か妙な気配がすることを、佐那も感じ取っていた。もしかすると、浮遊霊か何かが入り込んでいるのかもしれない。危険なものであれば対処が必要だが、そんなアクシデントにも狛が対応できるかどうか、それもまた監督役として佐那が見極めるべきポイントでもある。


(事前の試験では、狛は霊力の強さ、霊気量の多さ共に素晴らしい成績を記録してる。反面、この子は少し精神面が弱いと言われてたわね。私と拍が甘やかし過ぎたのかしら…?)


 兄である拍からすれば実の妹なので当然だが、佐那にとっても狛は可愛い妹分であった。母の命と引き換えに生まれた狛は、母という存在を知らずに育った。一族の中には、母に近い年齢のものもいたし、非常に身内を大事にする彼女達は親身になって狛を育ててきたが、やはり実の母がいないというのは寂しいものだ。


 そんな狛を不憫に思い、拍や佐那は、狛を特に大事に育ててきたつもりだ。ただそれが、彼女を甘やかす形になっていた可能性は十分ある。今回の試練において、佐那が監督役を引き受けたのは、自らの甘さを排した視点で、客観的に狛がどの程度の見る目を持っているのかを佐那自身が確かめたいと願ってのことでもあった。

 

 しばらく室内の様子を伺ってから、狛はゆっくりと奥の廊下へ足を踏み入れた。エントランスを抜けて廊下を進むと、左に処置室と書かれた看板と部屋があって、その向かい側はトイレのようだ。

 トイレの入り口には『使用した検尿容器は、トイレ奥の棚へ』と書かれたボロボロの張り紙がある。そこまで進むと、廊下の先、突き当りの壁付近で何かが動いたようにみえた。狛は咄嗟に懐中電灯の光を向けたが、何も見えず物音も聞こえない。


「気のせい…?かな」


 そう呟いた瞬間、突如轟音と共に、目の前の天井が崩れ落ち、巨大な手が狛へ向かって襲い掛かってくるのが見えた。


「きゃあああああああっ!」


「危ないっ!!」


 少し後ろから様子を窺っていた佐那は、その突然の出来事にも一瞬早く反応できた。素早く狛の腕を引っ張り、強引に後ろへ引き倒す。だが、目前に迫る巨大な手は握り拳になって、瓦礫を弾きながら、代わりに佐那を殴りつけた。


「うぐっ…!!」


 強烈な一撃を喰らい、吹き飛ばされて廊下の壁にぶつかる佐那。一方、引き倒された狛が辺りを見回すと、信じられない光景が目に飛び込んできた。


「い、痛ぁっ…な、何…!?」


 白い壁は瞬く間に黒く変色し、赤黒く錆びたような色をした血が、夥しいほど壁や床一面に滲んでいる。トイレ前の張り紙や処置室の看板は読めない程に文字化けして、腐った血と肉の匂いが、にわかに立ち込め始めていた。


 異界化だ。


 異界化とは、強力な妖気にあてられて、建物や空間が全く別のものに変質してしまった状態を指す。ただし、それは一介の幽霊や悪霊などに出来る芸当ではない。腕の有る術者によるものか、或いは相当な妖怪でもいなければ起きない現象だ。だが、近くにそんな強力な存在がいれば、すぐに解るはずでもあった。


「な、何がどうなってるの…」


 その間に、困惑する狛を守るように狛の影が一瞬輝き、そこからイツが飛び出す。大きさの差は歴然だが、唸るイツと巨大な手は、少し距離を取って睨み合うように対峙した。


「イツ…そうだ、佐那姉!!」


 そんなイツの姿を見て我に返った狛は、すぐに立ち上がり佐那の方を見やる。佐那は意識を失っているせいか、微動だにしない。

 すぐに駆け寄って様子を確認したい所だが、迂闊には動けなかった。今はイツに気圧されているように見える巨手が、いつまた襲い掛かってくるか解らないからだ。


 体力にはそこそこ自信がある狛だったが、この状況で佐那を抱えて逃げるのは難しい。となれば、まずは敵の排除を優先するしかない。せめて怯ませるか、あわよくば撃退できれば、それが一番いい。そう踏んだ狛は、ツールバッグから数枚の霊符を取りだし、霊力を込めつつ身構える。


 改めてみると、とてつもなく大きな手だ。170cm以上ある狛の身体をも、すっぽりと包み隠せるほどのサイズに見える。これだけの巨体に通じる術があるのかと思うと、狛の背中を冷や汗が伝う。


 だが、ここで心を折るわけにはいかない、庇ってくれた佐那の為にも。気合を入れ直すように、丹田に霊力を込めて思い切り息吹く。そうして練り上げた、目に見えるほどに強い霊力を全身に巡らせると、狛はイツと共に巨手へ向かって駆け出した。


「凍刃符!」


 そう叫んで、右手に持っていた青い霊符を投げつける。それは巨手の指先に命中し、鋭い氷の刃に変わって肌を切り裂いた。しかし…


「くっ!やっぱりダメ!?」


 岩をも切り裂く凍刃符でも、巨手の指先を傷つける程度のダメージにしかならないようだ。指の一つも切断出来ればと思っていたが、サイズが違い過ぎる。逆に、狛の攻撃で気を荒くしたのか、イツを警戒して動かなかった巨手は、猛然と狛に襲い掛かってきた。


「わわっ!!」


 時にイツの威嚇を駆使して攻撃を食い止めたかと思えば、次は走り回り、飛び跳ねながら狛はそれらをかわしていく。異界化の影響だろう、先程まで廊下だったはずの場所は、少し広い洞窟のようになっているので避けるのには好都合だ。その合間に、何度も凍刃符を投げつけてはみたが、やはり、効果は乏しい。


(なんだろう?何か、見落としがあるような…)


 冷静に次の手を考えつつ、抱いた違和感が狛の頭をよぎる。余所見をしている余裕はないが、何かが気になって仕方がない。そんな狛を叩き潰すように、巨手は大きく浮き上がり、進行方向にその腕を勢いよく振り下ろした。


「ヤバっ!」


 急ブレーキをかけて咄嗟に大きく後ろへ飛び避けると、狛の背が壁にぶつかる…そして、気付いた。


(そっか、こいつ、左手だけ…!)


 それと同時に壁が砕けて巨手の右手が現れ、狛の身体はガッシリと掴まれた。


「しまった…!?ううぅっ!!」


 もっと早く気づくべきだった、片方の手だけが目の前にあることを。おそらく敵はこれを狙っていたのだ。

 恐るべき力で、ギリギリと全身を締め付けられる。骨が軋み、身体が圧迫されて、呼吸すら満足にできない。だが、敵はこのまま握り潰すつもりだと気付くのに、時間はかからなかった。


「あああああああああ!!」


 叫び声を上げる狛を助けようと、イツが懸命に巨手へ嚙みつくも全く意に介さない。


「佐那姉…ご、めん…」


 両手を塞がれた事で霊符を繰り出す事も出来ず、次第に意識が薄れていく中、不意にコツコツとこちらへ近づく足音のようなものが聞こえた。


「…おいおい、人のねぐらでずいぶん好き勝手してくれてるじゃねぇか。一体全体、どこのどいつだ?この大馬鹿野郎は」


 男の声と共に、その場にいる者達全ての動きがピタリと止まった。とてつもなく強力な霊気が、いつの間にか周囲を包み込んでいる。それに恐れをなしたのか、巨手は狛をその場に放り捨て、両手で男を叩き潰そうと凄まじい勢いで襲い掛かった。


「馬鹿が、そんなもん当るかよ」


 男はひらりと宙に舞って、巨手の右手を横合いから思い切り蹴りつけた。両手は壁に激突し、その勢いで左手からぐしゃっと潰れたような音が辺りに響く。


「ギャアアアアアアアアアア!!!!」


 洞窟の奥から、この世のモノとは思えない怖気を含んだ絶叫が上がり、ずるずると音を立てて、巨手は両手共に奥へと消えていった。どうやら撃退出来たらしい、つい先程まで洞窟のようだった風景が、元の病院に戻っている。戦いながら、待合室まで戻ってしまったのだろう、差し込む光が再び室内を照らしていた。


 狛は咳き込みながら息を整えていると、何か柔らかいものが頬をくすぐっているのに気付く。慌てて顔を上げると、いつの間に傍まできていたのか、月明かりを逆光に、猫耳のようなものを着けた男がこちらを見下ろしていたのだった。

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