第5話

 薄雲ひとつない、美しい夜だった。

 優雅で閑寂とした部屋にひとり。用意してくれたミルクティーの湯気がしだいに消えゆくのを見つめながら、わたしは王子を待っていた。

 金色の月が、黒い空を優しく照らす。丘の上から見る空の広さに感銘を受けつつも、心は緊張で強張っていた。

 ここはジアラーク城の一室。壁紙から絨毯、家具に至るまで、すべてを金と青で統一した客間だ。

 あのあとすぐ、わたしは王子に招かれここへ来た。この世界で目覚めて以来、初めて屋敷の外で過ごす夜。

 屋敷に帰宅が遅くなると連絡を入れたところ、父であるシナリク伯爵は、ふたつ返事でこれを了承した。

 容易に想像できる。わたしと王子の仲がさらに深まったと勘違いしている、彼の喜色が。

「……」

 自分がここへ招かれた理由はわかっている。これから質される内容もわかっている。もしかすると、もう屋敷へは戻れないかもしれないことも。


 ——君は……誰だ?


 あのときのあの言葉が、頭から離れない。

 返答に窮して押し黙っていると、ちょうど従者たちが戻ってきた。息を切らし、汗の滲んだその手には、わたしの指示した物がしっかりと握られていた。

 水で洗い流し、ワインで消毒をし、綿布を包帯代わりにした。

 一連の処置を施しているあいだ、わたしはひとことも喋らなかった。……喋れなかった。処置が終わったあとも、しばらくは目を合わすことさえできなかったが、帰り際に彼のほうから声をかけられた。城で話がしたい、と。

 いったいどうなってしまうのか。

 間違いなく、婚約は解消となるだろう。それだけで済むとはとうてい思えないが、誤魔化したところでどうしようもない。きっと彼には通用しないし、それ以前に、馬鹿がつくほど正直な自分が上手く誤魔化せるとも思えない。

 全部話そう。それしかない。

「悪い。待たせたな」

 ノック音と同時に王子が入ってきた。思わず肩がびくっと跳ねる。

 髪を崩し、ラフな格好に着替えた彼は、普段よりもさらに幼く見えた。

「ミルクティー、飲めなかったのか?」

「い、いえ。そういうわけではないのですが、その……すみません」

「ああ、いや、謝らなくていい」

「……」

「……」

 沈黙が、重く垂れ込める。

 どう切り出せばいいのか、王子は模索しているようだった。眉を顰め、視線を下へとずらし黙考している。こんなにも深刻な彼の顔を見たのは初めてだ。

 ややあって。

 ついに、彼が口を開いた。

「回りくどい言い方は得意じゃないから単刀直入に訊かせてくれ。……君は、誰なんだ?」

「……っ、……わたし、は……」

「人払いはしてある。今ここにいるのは、俺と君だけだ」

 真っ直ぐで力強い彼の眼差しが、わたしの目を捉えた。まるで、見えない力で、ぐっと搦め捕るように。

 やっぱり、彼に誤魔化しは通用しない。誤魔化しちゃいけない。

 わたしは、自分の身に起こったことを、包み隠すことなくすべて話した。

「目が覚めると、この体になっていました。それまでわたしは、この世界とは違う世界で、違う人間として生きていたんです」

 いまだ自分の中でも整理のついていない不可思議な事象だが、なるべく簡潔に説明するよう努めた。

 目覚めるとエルレインになっていたこと。〝わたし〟としての記憶は鮮明に覚えていること。母子家庭だったこと。母が病死したこと。看護師として大学病院に勤めていたこと。過労が原因で死亡したこと。

 話し終えるまでにどのくらいの時間を要したかわからないが、彼は、このとうてい信じがたい話に、最後まで耳を傾けてくれていた。中には、理解できない言葉や内容もあったはず。にもかかわらず、真剣に、懸命に、わたしと真正面から向き合ってくれたのだ。

「——これが、すべてです」

「なるほど。……大変だったな。突然何もかも違う世界に来ることになって」

「……信じてくださるんですか?」

「信じがたい話ではあるが、それだけの壮大な話、嘘をついているとは思えない。……それに、君がエルレインじゃないことは、なんとなく気づいていた」

「えっ! いつから、ですか?」

「最初から……になるのかな、君にとっては。気づいていたというか、違和感をおぼえたというか……。確信を持ったのは、姉上の貧血を言い当てたことと、それに対する的確なアドバイスをくれたことだ」

 この世界での常識を常識ではないと覆すだけの知恵と説得力。疑う余地はないと、そこで判断したらしい。

 この人は本当に聡明な人だ。つくづくそう感じる。

「それに、口調がエルレインとは似ても似つかないし、そもそも彼女はそれほど花に興味なかったしな」

 茶目っ気たっぷりに笑ってそう付け加えた王子に、つられてわたしも笑った。

 夜が更けていく。

 ふたりのひとときが、まるで砂糖のように溶けていく。

 それまで口をつける気になれなかったミルクティーに、ようやく手を伸ばす。入れ替えさせるとの王子の申し出を断り、わたしはこくりとひとくち飲み込んだ。

 ぬるいけど、ちゃんと味も香りもする。なんだかほっとした。

 ……というのも、つかの間。

「実は、君に婚約の解消を告げられたあの日、俺も同じことを言おうと思っていたんだ」

「……へ?」

 驚き、目をしばたかせるわたしに対し、王子が続ける。

「エルレインは、俺との結婚を単なるステータスとしか考えていなかった。王室に入るということは、単なるステータスじゃない。この国を、民を、一番に考えるべき立場になるということだ」

「ちょっ、ちょっとお待ちください! なら、どうしてあのとき保留だなんて……」

「『このような状態で王室へ嫁ぐことは、殿下にも、国民にも、不誠実だと言わざるを得ない』」

「え?」

「あのとき君が言った言葉だ。……嬉しかった、本当に。それを聞いて、俺は〝君〟との婚約を解消したくないと思った。今もその気持ちは変わらない」

 頭がついていかない。落ち着き払った彼の柔和な表情を見ていると、よけいに思考が迷走する。

 今、婚約解消したくないって言った? ……言った。

 いやいやいやいや。

「あの、殿下、そう思っていただけるのは、身に余るほどの光栄なのですが……なんというか、その、わたしは、とても王室に嫁げる器では——」

「君が俺との婚約を解消しようとした理由はなんだ?」

「え? 理由? あ、と……別人だから、です」

「エルレインじゃないから?」

「そうです」

「なら問題ない。そう知ったうえで解消したくないと思っている」

「えぇ……あっ! そ、それに、庶民も庶民なので、貴族のことは全然まったく微塵もわからないですし」

「心配いらない。君にはじゅうぶん貴族の資質が備わっている。それも、本当の意味での」

「なっ……そ、そんなこと絶対にないです! それに、殿下のことだって、失礼ながらわたしはよく存じ上げ——」

「知らないならこれから知ればいい。いくらでも教える」

「!? で、でも……っ」

「ほかには?」

「え? ほか? ほかに、ですか? うーん……」

「懸念材料はすべて潰れたな」

「……めっちゃグイグイ来るじゃないですか殿下」

「当然だろう? これでも必死なんだ」

 言葉遣いなど気にかける余裕もなく必死で反論するも、圧の強い彼の抗弁に打ちのめされてしまった。

 このきらきら顔のイケメンまったくもう。物腰柔らかい優男に見えて実は肉食系ですかそうですか。

 あの日以来、保留となっていた婚約は、この短時間のあいだに継続へと舵を切ることになりそうだ。……困る。非常に困る。

 何が困るって、嫌じゃないから、困る——。

「今度のパーティーで、君が婚約者だと改めて公言しても?」

 チェックメイト。

「……はい」

 完膚なきまでに追い詰められたわたしは、小さく肯いた。

 なんて嬉しそうに笑うんだこの人は。悔しい。かっこいい。——降参だ。

 両手で顔を覆い、項垂れる。

 この人には、どうしたって敵わない。

「攻め寄ったついでに、もうひとつだけ」

「!」

 突然、彼に至近距離から顔を覗き込まれ、心臓がどくんと高鳴った。今にも顔がぶつかりそうな距離で目線がぶつかる。

 対座していたはずなのに、いつのまに……!

 彼は、それまでの頬が緩んだ面持ちから一転。まるでわたしの心奥まで覗き込むように、静かにこう言った。

「君の本当の名前が知りたい」

 光を集めた紫の双眸が、澄んだ音を立ててきらめく。さながら宝石のように、気高く、清らかに。

 まさか、この世界で自分の名前を訊かれるなんて——口にできる日が来るなんて、夢にも思わなかった。

 彼の瞳の中で、エルレインが、つややかにわらった。

美月みつき、っていうんです。わたしの名前」

「ミツキ……」

 輝夜かぐや美月みつき

 これが、〝わたし〟の本当の名前。

「ミツキ」

「はい」

「ミツキ」

「はい……」

「ミツキ」

「……っ、あの、そんなふうに連呼されると、ものすごく恥ずかしいので……っ」

 やめてほしいと伝えるも、彼はしばらくのあいだ〝わたし〟の名前を呼び続けていた。

 愛おしそうに。

 噛みしめるように。

 頬が熱い。耳も熱い。今のわたし、たぶん顔真っ赤だ。

 彼の肩越しに浮かぶ、彼の髪と同じ色をした、金色の月。

 それは、これまで見た中で、もっとも美しい月だった。

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