ヘーラクレレダイの嫁

淀川 大

プロローグ

 猛暑が続いているとはいえ、さすがに九月になると雲の形も変わる。夜の闇の中でも、街の灯りに照らされた空には秋らしい鱗雲が広がり、ゆっくりと流れている。薄墨を滲ませたような天幕の向こうには、無数の星々が輝いているのだろう。高層マンションとビルの間にわずかに見える小さな夜空を自室の窓から覗きながら、こう考える。


 私はその星の一つになれているだろうか。


 小説家を目指して上京。執筆活動を始めて十年が経とうとしている。掌編から始めて、短編、中編、長編と書いてきた。いくつものコンテストに応募はしてみたが、尽く落選し続けている。原因が分からない。作品の内容か、文体か、テンポか。


 溜め息と同時に落ちた自分の両肩の重みで我に返り、視線をパソコンのモニターに戻した。ネットニュースでは今夜のスーパームーンが取り上げられていた。


 そうだ、これだ。これなのだ。この雲間に輝くスーパームーン、私はこの月のように、他の星の光にも、覆う雲の影にも、都会の夜の街の光にも負けないほど強く激しく美しく光を放つ存在になりたいのだ。その光で夜道を照らし、人々を導きたい!

 

 月はいにしえから何も変わっていない。古典文学、和歌、神話、何にでも描かれている。時世が変わったからと月が変化したことは一度もない。それが月の美しさだ。

 よし、書こう。私は私の道を行こう。おもねることなく、私の言葉を伝えていこう。それこそが真の文学なのだ。


 息抜きに開いたネットブラウザを閉じようとマウスに手を掛けた時、とある事件記事が目についた。スクロールしてみる。


 ――また都内で爆発事件発生。連続爆弾魔の仕業か⁉ 夜の東京に無差別テロの恐怖! 次の標的はどこか! 

著者 凡芭ボンバ明彦アキヒコ――


「物騒な記事を楽しそうに書いてるんじゃないわよ。何なのよ、この記者」


 私は少し強めにマウスのボタンを押してブラウザを閉じた。後ろにあった書きかけの文書アプリが画面いっぱいに広がる。今度コンテストに出す予定の私の作品原稿だ。


 題名 超合金嫁  作者 星月ほしつき伊織いおり


 そう、題名だけ。完全に筆が止まって、いや、キーを打つ手が止まっている。題名は絞れたのに、物語が浮かばない。こんな事は初めてだ。何がいけないのか。


 嫁を題材にした作品を募集しているコンクール。大手小説サイトの主催だけに、ハードルは高い。募集要項でいろいろと制約がある中でも一番の難問は題名縛りだろう。「ちょう」で始まる題名であること、それが今回の作品の条件だ。「超イケメンと結婚して……」とか「超絶魔法でノリノリ結婚……」などという作品は星の数ほどエントリーされている。これらに埋もれないためには、違う角度から攻めなければならない。超合金、これしかない。


 題名は、我ながら良く出来ていると思う。ちょうごうきんよめ。音もいいと思う。何が私の手を止めているのだろうか。


 ペンネームは気に入っている。小説を書き始めた頃からずっと使ってきた名前だし、今後も使い続けたい。出来れば戸籍を変えて改名したいくらい好きな名前だ。


 調べたところ、戸籍上の名前、つまり本名の下の名前を通称に変更する法律的な手続きはあるらしい。問題は苗字だ。それを変えるには星月姓の人と養子縁組して養子となるか、星月姓の男性と結婚して改姓するしかない。


 結婚……。仮に「星月」という苗字の男性を探し出せたとして、その殿方が私のタイプの人とは限らない。イケメン好きの私としては、そこで人生最大の岐路に立たされるはずだ。キラキラ苗字の「星月」を採るか、イケメンとの結婚の夢を採るか……。


 壁に貼ったアイドルグループのポスターに目を遣る。口元が緩む。その下の、散らかった六畳ワンルームの床が視界に入り我に返った。


 いけない。妄想なんてしている場合じゃないわ。書かなきゃ。


 このコンクールの賞金は十万円だ。溜まっている家賃も払える。何としても書かねばならない。でも、書けない。だって


 嫁になったことがないから!


 小説を書き続けながらのフリーター歴十年、アラサーと言われて気が付けば独身。どくしん。ドクシンじゃ!


 私は強く頭を掻いた。ミディアムショートの髪が少しきしむ。キーボードの上に落ちたのは……フケ?

 いけない。女子力が落ちすぎだわ。超合金嫁のプロットを練ることに集中していたこの二日間、化粧どころか入浴すらも忘れていた。明日は月曜日だからバイトが始まる。お弁当屋さんだから清潔にしておかないと。


 私は慌てて椅子から腰を上げ、玄関へと向かった。下駄箱の横の鏡を覗いて髪を手櫛で整えると、コロナ対策と偽って、マスクでノーメイクの顔を隠す。下駄箱の上に置いたままのスポーツバッグを開けて、中を確認した。着替えの服と下着は入れてあった。


「よし、行くか」


 私は下駄箱の上から引き下ろすようにスポーツバックを取ると、それを肩に掛けて外に出た。少しだけ夜風が涼しい。


 玄関ドアに鍵を掛けた私は、月明かりに照らされた夜道を銭湯に向けて歩いていった。


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