第34話弟殿下

アーベントに足を踏み出そうとした瞬間、僕の手から扉の感触が音もなく、急に失われた。

思わず視線を向けると、室内の暗闇から、ぬっ、と何かが突き出る。


「────…っ!?」


それが腕だと理解するより先に、身体が羽交い締めにされる。

反射的に開いた口が、掌で塞がれた。

足掻こう、と地面を掻いた爪先は地面から浮き、容易く室内に引き摺り込まれる。

混乱しながら必死に身を捩ると、僕を捉える頑強な腕はより一層に力を増していった。

相手の正体を求めて必死に周囲に視線を向ける。素早く走らせた目に飛び込んだのは、外に通じる扉がぽっかりと口を開いている様だった。

その横に、一人の背丈の高い人物────黒い影のような男が立っていた。

扉に手を掛けた影の男は、開いた時と同じ静けさで外界への出口を閉ざしていく。

扉の隙間から入り込んでいた外の光が途切れ、室内は完全な暗闇となった。

同時に、低められた声が僕の耳朶を穿つ。


「助けてやる。暴れるな」


低く、深みのある声だった。

どっしりとした重さは、支配することに慣れた人間特有の自信を帯びている。

僕は、この声に聞き覚えがあった。

考えが纏まらない間に、薄い壁一枚隔てた外で靴音が響く。

アーベントと連れの男の足音だ。

冷や汗が流れた。捕らえられているこの状況にも、外の靴音にも。

逃げ出すために暴れるか、言うことに従うか。

素早く状況を天秤に掛けて、僕は押し黙る方を選んだ。アーベントたちに正体がバレるよりは、命令に従う方がましだ。

徐々に靴音が完全に遠ざかって、十分に気配が離れると、僕の身体は約束通り、解放された。

乱れた息を吐き出し整える間に、暗闇の中にそっと火が灯る。

扉の横に佇む影の男がランタンを掲げ、部屋の闇を取り払ったのだ。


ランタン持つ男の顔は、外套についたフードを深く被っているせいで、伺うことができない。

しかし、屈強な肉体と武骨な手の厚み、指の節の硬さが荒事に慣れた雰囲気を滲ませていた。

僕の力では倒せないだろう。そう、瞬時に悟らせるぐらい、圧倒的な体格差だった。

ならば、他に活路を見出だすしかない。

僕は扉側を警戒しながら、背後を振り返った。

窓は全て塞がれ、家具の類も見当たらない古い家屋の中で、僕を捕らえていた男が堂々と立っていた。

黄金色の髪を獅子のように流し、金色の瞳が悠然とこちらを見下ろしている。


僕は、息を詰めた。


────この人が、なんで……


僕は慌てて、顔を俯けた。

不遜に細めた双眸で僕を見下ろす男は、顎に手を添えて長駆を屈めると、ハーフボンネットの影に隠れた瞳を覗き込んでくる。


「お前、どこかで見たことあんな」


おもむろに伸ばされた男の指が、僕の顎の下に結ばれているリボンの先を奪うように引いた。


「あっ……」


結び目がほどけると、両手で押さえるより前に頭から帽子が呆気なく落ちていく。

ぱさ、と乾いた音と共に帽子が虚しく床に転がる。

露になる僕の瑠璃色の瞳を、黄金色の男が捉えた。


「っ……!!」


慌てて顔を反らした僕の顎を、男の手が無理矢理掴んで正面に向けた。

獣のような野性的な眼差しが、突き刺さる。


「その目は公女、じゃねぇな。ジークヴァルトの方だろ」

「っ……アスラン殿下」


堪らず悲鳴じみた声が、僕の喉から絞り出された。


大公閣下の弟

公国の鬼神

不退転の炎

金色の獅子


幾つもの呼び名があるが、皆が共通して言うことは、一つだ。


アスランが出れば、エスメラルダ公国は勝利する。


彼がひと度戦場に立てば、全ての敵が震え出し、勇猛果敢な敵将でさえ頭を垂れて赦しを乞う。

それ程までにアスランという存在は敵国にとって、恐ろしいものだった。

獰猛な彼が外に睨みをきかせ、穏健な大公閣下が内政を安定させる。

そうやって内外を治める公国の両翼のうちの片方が、何故、ここにいるのか。


「なんで、貴方がここに。それに……どうして僕だと、分かったんですか?」


驚きを隠せない僕の顔を見下ろして、太い笑みをアスランは浮かべていた。


「小便たれのガキの頃から見てやってんだ。流石にお前ら兄妹の違いぐらい、分かるぜ」

「そんな……」


秘密を暴かれ、呆然とする僕をおいてけぼりにするように、アスランの目がゆっくりと引き絞られる。

肉親を見つめる温かさの代わりに、真剣な色に変わっていく彼の眼差しが、僕を射ぬいた。


「なんでお前がそんなナリしてんだ。ローゼリンドはどうした?」

「妹は、行方不明で……」

「ちっ、アイツらが話してたことは事実か。ジークヴァルト、お前は妹の身代わりに婚約式に出たのか?死んでるかもしれねぇってのに」


厳しいアスランの声に弾かれたように顔を上げると、僕は両手を強く握りしめた。

必死になればなるほど、砂のように指の合間から希望が零れ落ちていくと、頭では分かっているのに、力を抜くことができなかった。


「妹は必ずどこかで生きているはずです!!殺したって、なんの益にもならない!!!!何の理由もないじゃないですか!!!!」


妹が殺されるはずがない!!心の中でもう一度、叫ぶ。

緑の精霊の公爵家に害をなし、10年前のような事件が起これば、公国が滅びる可能性がある。そして公国が滅びれば、周辺国も痛手を負うことになるだろう。

今も昔も常春のエスメラルダ公国は、周辺国の穀倉を担い、飢饉になった時には同盟国でなくとも食料援助を惜しまず行ってきた。

各国にとって、エスメラルダ公国は良き隣人なのだ。

そして、国内でも妹は────10年前のことがあったにせよ────確かに、国民から愛されていた。

妹が殺されない理由を、お守りのように反芻する。

そんな僕の必死な姿は、アスランの目にどう映っただろうか。

彼は、憐れみを含んだ目で僕を見下ろしてから、溜息と共に天を仰いだ。


「まあ……確かに、国益で考えりゃ意味はねぇ。何より、お前はウィリンデ緑の精霊の家門だ。認められねぇよな」

「どういう、意味ですか。アスラン殿下」


理解できない僕に、アスランは一瞬だけ困ったように眉を歪めてから、幼い子を諭し、慰めるような優しいまろい声で告げた。


「愛情深いウィリンデの血筋が、家族の死なんてモンをよ、受け入れられるはずがない。それにお前は、何より妹を愛していただろう?」


緑の精霊の家門の愛情深さは、現実を受け入れさせてはくれない。

直系の僕が、妹の死の可能性を本能的に避けてしまうのは、当然のことだと。そんな事実を突きつけられた瞬間、心臓に軋むような痛みが走った。

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