第25話マルムの男
三人分の足音が、邸宅前の馬車回りに柔らかく響く。
馬車回りは敷石で作られた歩道と、ライムストーンが敷き詰められた馬車道とに分かれていた。
招待された令嬢たちの馬車の中に、一際立派な物が二つあった。
一つは黒く艶やかな船底型の馬車だ。
扉にはロザモンド公爵家の紋章が鈍銀で描かれている。
もう一つは、柔らかなオリーブ色の木材の扉に鈍金で家紋が描かれた、カンディータ公爵家のものだった。
分かりやすい目的地を目指しながら、僕は邸宅の前庭に目を向けた。
「アゼリア嬢、ここで働いている使用人はマルム王国の者が多いのか?」
「いえ、2人だけですよ。ほら、例えばあの方」
フロレンスの問い掛けに、アゼリアは庭にいた人影に目を向ける。
低木の濃い緑と鮮やかな赤い花で織り上げられた庭の合間に、枝木を落とす男の姿が見えた。
土埃に汚れて煤けた黒髪を一つに結び、生成りの綿の上衣と黒くゆったりとしたパンツを身に付けた長身の青年の眉間には、薄く皺が寄っているようだ。
涼しい目元は僅かに細められ、真剣な眼差しで器用に枝木を落とす姿は凛々しく、まさに職人といった具合だ。
「庭師かしら?」
「ええ、お母様が嫁入りの時に連れてきた人で、アーベントという名前の方なんです。とっても植物に詳しいんですよ」
アゼリアは胸の前に手を寄せると、匂やかな淡い桃色の唇を綻ばせて、まるで自分のことを語るように嬉しそうに笑ってみせる。
その幸せそうな姿に、僕は思わず釣られて笑みを溢した。
「…大切な方?」
「はい、私にとっては兄のような人なんです。不器用で、優しくて…───私が落ち込んだ時に、花をそっと送ってくれるんですよ。彼は…何にも言ってくれないけれど」
大切な思い出を抱き締めるように、胸に添えられたアゼリアの指に柔らかな力が滲む。
庭師であるアーベントの柘榴色の瞳が一瞬だけこちらを向いたかと思うと、冷ややかな光沢の目はアゼリアを見た時だけ、微かに眦を緩めたように見えた。
「信頼しているのね」
「はい!」
アーベントの顔を見つめながら、僕は呟いた。
はにかむような彼女の表情は、家族といた時よりも明るく見える。
カンディータ家の馬車の前まで辿り着くと、僕の姿を見た御者が御者台から下りてきて、扉を開く。
フロレンスの手を支えにタラップに足を掛けると、僕は馬車へと乗り込んだ。
白く柔らかな革張りの座椅子に腰を預けてから、開いたままの扉から身を乗り出す。
「今日はありがとう。アゼリア様と仲良くなれて、嬉しかったわ」
「光栄です。ローゼ様」
ぱっ、と小花が咲くような可憐な笑い方をみせてくれるアゼリアから、今度はフロレンスへと顔を向ける。
「フロレンスも、またね」
笑って別れようとした瞬間、手首が掴まれ、僕は息を詰めた。
手首を掴むフロレンスの掌の皮膚は硬く、その奥には怒りの焔が確かに宿っているようだった。
驚いて、反射的に身を引こうとした瞬間、僕の耳元にフロレンスの唇が寄せられる。
「ヘリオスとの婚約、考え直す気になったらいつでもお言い。私は君の味方だよ」
「え…」
フロレンスの言葉は思わぬものだった。
僕が意味を理解する前に、唇が離れていく。
見開かれた僕の瞳の中に、彼女の顔が映し出された。
風に靡く艶やかな髪は薄紅色の光沢を帯びて、彼女の白い頬を彩る。
澄んだ薔薇色の瞳は、夕日を照り返して鮮やかに燃えるようだ。
それはまるで、炎の守護者の名を戴き戦場に立つ彼女の姿を見ているようだった。
言葉を出せないままの僕を置いて、フロレンスは何事もなかったように僕から手を離した。
「明日、楽しみにしているよ。ローゼ、噴水広場で待ってるからね」
「え、ええ…私も楽しみにしているわ」
何事もなかったように笑い掛けるフロレンスに、僕はぎこちなく微笑み返した。
馬車の入り口から外へと傾いていた僕の身体を引き戻すと、腰をもう一度落ち着ける。
御者によって扉が閉められると、程なくして馬車は走り出した。
見送ってくれる二人の姿が小さくなっていくと一人ぼっちの僕の身体は、馬車によって心細く揺れる。
僕はフロレンスに指の力が残る手首を自分の手で掴むと、思わず呟いた。
「フロレンス…分かってたんだ…」
婚約式の夜に、フロレンスも僕と一緒に公太子の愛人の匂いを記憶したはずだ。
だからこそ、ヘリオスの愛人の正体を知った今、婚約を考え直すようにもう一度言ってきたのだろう。
フロレンスの気持ちが痛い程分かる。
僕の中でも腸が煮えくり返らんばかりの怒りが、ずっと煮詰め続けられているのだ。
同時に、こびりついて離れない疑念が再び頭をもたげた。
───ベアトリーチェが…僕らから母上を、奪ったかもしれない。
そんな疑いを心の中で唱えた瞬間、感情のままに全てを壊してしまいたくなる衝動に駆られる。
僕は意識を反らすために、窓の外へと目を向けた。
左右に並ぶ丈の低い草花は、異国の色鮮やかな赤い花弁を優美に揺らしている。
その赤さがまるでベアトリーチェの瞳のようで、僕の心の内側で吹き荒れる嵐を慰めてくれはしなかった。
「早く戻ってきておくれ、ローゼ…」
僕が母との約束を破る前に。
父の願いを壊す前に。
フロレンスに全てが暴かれてしまう前に。
僕には、愛する妹の笑顔が必要だった。
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