第21話10年前
僕はアゼリアの勇気へ敬意と感謝込めて、微笑みを向けた。
「数種類を使い分けておりますが、一番のお気に入りは母が愛用していた金木犀の香りですわ。わたくしにとっても、一番だ愛しい匂いなんです」
口にすると亡き母との思い出が、まざまざと甦る。
母は姉妹である大公妃殿下と共に他国まで噂されるほど美しく、慈悲深かった。
幼い頃に抱き締めてくれた母の言葉が、今でも思い出される。
『人を好きになることも、憎むことも、人らしさなのよ。見ないように目を背けていたら苦しいだけ。だから、人間らしい自分も他人も、許して上げられる人になってね』
母の柔らかな性格は公爵家と対立する貴族たちの間を取り持ち、一時は派閥の対立さえも失わせるほどだった。
そんな亡き母に対しての同情と憧憬が、柔らかな沈黙としてテーブルを囲う令嬢たちの間に広がっていく。
このまま、空気が落ち着いていこうとした時に、再び毒が投げ込まれた。
「ああ、どうりで古くさい香りがしますこと」
思わず向けた視線の先で、ヒルデの毒々しい唇がティーカップに振れていた。
アゼリアは瞳を大きく揺らして、自分の姉であるヒルデの横顔を凝視していた。
「お姉さま、何てことを…、…」
妹と姉とでこれ程までに性格が違うとは、どういうことなのか。
僕は怒りを通り越して底冷えするような冷静さを取り戻すと、真っ直ぐにヒルデの燃え上がる瞳を見つめた。
「緑の公爵家は血縁…とりわけ肉親をとても大切にいたしますから、父母から受け継いだものは大切にしていきたいと思っているだけです」
「ああ、ご家族を大切にされるから、公爵夫人と妹の大公妃殿下が毒殺され、公子様も倒れた時、公爵様は国を滅ぼそうとなさったのかしら?」
打って変わって低く潜められたヒルデの声はまるで、蛇が這うような厭らしさを帯びていた。
その言葉に追随してテーブルを囲う令嬢たちが囁き合う。
「恐ろしいこと…そんな家系の方が大公妃になられるなんて、何かの間違いではないかしら?」
「本当よ。よく大公閣下がお許しになりましたわね。」
「大公妃殿下まで巻き添えになって、公爵家でなければ責任問題になって、首も飛んでいたでしょうね」
緑の精霊の公爵家への不安と恐れが、近くで聞き耳を立てていた令嬢たちにまで伝わっていく。
同時に僕の頭の底から呼び起こされる恐ろしい記憶が、僕を現実から過去へと連れ去っていった───
※
記憶の中で幼い僕が、息切らせて走っていく。
短い銀色の髪が汗で張り付いているのも気にせずに、邸宅の中庭に続く回廊に出て、外へ出た。
庭には、白やピンク、赤や紫、様々な薔薇がモザイク模様を作るように植えられている。まるで絵画のような美しさだ。
母のために父が薔薇で埋め尽くした庭の中央、生け垣を左右に分けるようにして作られた蔦薔薇のアーチに、僕は飛び込んだ。
連なるアーチでできたトンネルは陽射しを遮って、陽射しの眩しさを和らげてくれている。
葉っぱの間から注ぐ木漏れ日は、水溜まりのように地面に落ちていた。
僕はその陽だまりを勢い良く蹴って、走り続ける。
アーチの先にはガゼボがひとつ。
テーブルにはお菓子が並び、楽し気な笑い声が聞こえてきた。
僕の瞳に、二人の姿が映り込む。
「母様、叔母様!」
大きな声で二人に呼び掛けると、母と大公妃殿下の顔がこちらを向いた。
青葉の隙間から注ぐ太陽の欠片で照らされた母は、星を湛えた瑠璃色の瞳を細めて、愛し気に僕を見つめていた。
その横には、キラキラ輝くサファイアの瞳一杯に笑みを宿す、大公妃殿下がいた。
「やってきたわね!可愛い甥っ子め!!」
「ジーク、いらっしゃい」
活発で、茶目っ気たっぷりに笑う少女のような大公妃殿下は、気さくに僕の身体を抱き上げると、くるりと回ってみせた。
そんは僕たちの姿を見上げる母はおっとりと微笑んで、僕を座らせるために、椅子を引いてくれる。
僕が椅子に座り紅茶を注がれると、不思議な甘い匂いが漂ってきていた。
「珍しい香りね。蜂蜜かしら?」
そう呟いた母の言葉が、僕が聞いた最後の言葉だった。
次に僕が見た景色は、見慣れた自分の部屋の天井だった。
頭がぼうっとして、身体が酷く痛む。
乾上がってしまったような喉を必死に鳴らして母の名前を呼ぶと、代わりに父と妹が僕を抱き締めてくれた。
あの時に見た二人の表情は、今でも忘れられない。
遭難した人間がポラリスを見つけたような。
あるいは絶望の中から一粒の希望を拾い上げたような、そんな顔をしていた。
泣き崩れる二人に抱き締められながら、窓の外に向けた僕の瞳に映り込んだのは、母の愛した薔薇園が枯れ果てている光景だった。
腐り落ちた植物が国土を汚染していくのに焦り、父を逆賊として処刑しようとする動きがあったこと。
母と大公妃殿下を殺した毒の正体も、動機も、実行犯のメイドが自害したことによって突き止められなくなってしまったという事実。
全てを知ったのは、エスメラルダ公国の国土が回復してからのことだった。
※※
僕たち緑の精霊の加護を持つ人間が与えた恐怖、不信は今もなお人々の心に巣くっている。
毒で焼かれた喉の痛みが甦ったかのように、僕は声を出せなくなってしまっていた。
『ジークヴァルト、お前は私のように憎しみに囚われてはいけないよ』
妻と大公妃殿下を喪い、力を暴走させ、公国を滅亡へと追いやり掛けた父の悔いに満ちた重い声を頭の中で繰り返す。
───でも、だったらどうしたら良いんだ。
謝ればいいのか。
激怒すればいいのか。
泣けばいいのか。
笑い飛ばせばいいのか。
僕は答えが見つけられずに両手を強く握り込んでいた。
思わず俯いてしまいそうな僕の肩に、力強く手が置かれる。
同時に悪意と不安が満ちる庭園の中に、ガタンッ、と椅子を引く大きな音が響いた。
しん、と周囲が静まり返る。
僕は思わず傍らを見上げると、僕の肩に手を添えて佇むフロレンスの美しい顔があった。
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