第11話衝撃

庭に出れば、月の冴え冴えとした輝きが、落ち着きを取り戻させてくれる。

肉厚な花弁は蒼白く、清い光に縁取られて優しく輝いて見えた。

窮屈なコルセットが邪魔だったが、どうにか息を吐き出すと、僕の鼻腔びこうに、強い香水の匂いが滑り込む。


肺に忍び込んでは、呼吸を塞いでいくような…甘く蠱惑的こわくてきで、どこか恐ろしい匂いだった。


───この匂いは…っ


僕の記憶の底から、十年前の記憶が一気に呼び覚まされる。

思わずそちらへ踏み出すと、息と足音を殺して歩いていく。

近付く程に心臓が痛いほどに脈打って、冷や汗が背筋を伝っていった。


香りが一層強くなる場所に近付くと、生け垣を隔てた向こう側から衣擦れの音と、潜められた声が聞こえてきた。


───匂いの主を確かめよう


そう思って踏み出しかけ僕の両足が、凍りついたように固まった。


「愛しい人…瑞々しい唇に触れさせておくれ」

「あら、冗談はよしてヘリオス。あなたには愛しいお姫様がいらっしゃるでしょう?」


男の声に、聞き覚えたがあった。

くすくすと忍び笑う女が囁いた名前が、決定打になる。


「ふん、あんな子供を僕が本気で相手すると思ってるのか?貧相でみすぼらしい身体に、カンディータっていう家名がぶらさがってなければ、相手にもしてない」

「あら、そんなこと仰って…そんなお嬢様と結婚するなんて、可哀想なヘリオス。わたくしの愛で慰めしましょうね」


───聞き間違えだ。


何度も何度も心の中でそう唱えた。


でも、耳に聞こえてくる男の声は、間違いなくヘリオスのもで。

脚が勝手に震え出すのを、止められなかった。

体が言うことを聞かず後ろに倒れそうになる。


───倒れたら、気付かれるっ


息を飲んだ僕の背中に、温かな物が触れた。

驚きの余り声を上げ掛けると、白く滑らかな掌が唇を覆う。


僕は目を見開いて、上を見上げた。


最初に映ったのは、僕を見下ろす薔薇色の瞳だ。

手が静かに僕の唇から離れていくと、人差し指がぴん、と立てられる。

しー、と、静寂を促す仕草に僕は頷いて押し黙ると、足音を殺して二人でその場を後にした。


ようやく声を出しても安心できる距離まできてから、僕は口を開いた。


「フロレンス、いつ戻ってきたの!?」

「ついさっきだよ、ローゼ」


薔薇色の瞳を細め、優しく僕を見つめる彼女の名前は、フロレンス・フォン・ロザモンド。

もう一つの公爵家の次期当主にして、戦場で一騎当千の力を見せつける男装の麗人。

ローゼリンドの一番の親友だ。

優しく微笑む彼女は、僕を優しく胸に抱き締める。


「ローゼを庭で見つけてね、驚かせようと思って後をつけたんだけど…嫌なものを聞いたね」

「フロレンス…このことは…」

「大丈夫だよ。前に約束した通り、私は誰にも言わないから、安心して」

「っ…、…」


ローゼリンドとフロレンスは、前から知っていたのか。

妹に何も知らされていなかったショックと、ヘリオスに裏切られていた怒りに、唇が戦慄わななく。


「一度休憩室に行こう。顔が真っ青だ」


フロレンスは僕の肩を抱きなおすと、颯爽と歩き出した。

大公子妃専用の休憩室を目指す途中、フロアの熱気から逃げ出してきた令嬢や子息達がこちらに気付くと、小さな悲鳴を上げる。


「フロレンス嬢…三日前に出立したばかりだったんじゃなかったか?」

「もう辺境から戻ってらしたのね!」

「何でも、ルベル紅い精霊のお力で敵を薙ぎ払われて急いで戻ってこられたそうよ」


フロレンスが歩き去っていく後を追いすがる、羨望せんぼうの眼差し。

辺境で起こった小競り合いを収めて戻って来たばかりの彼女からは、芳しい薔薇の香りと共に僅かな汗と土の匂いがした。

それが彼女の猛々しい優美さを一層に引き立てているようだった。


ピンクブロンドの髪を背中に流し、軍の黒い礼服には多くの勲章が燦然さんぜんと輝かせているフロレンスを、隣から見上げる。

幼馴染の彼女に背を抜かされたのはいつだったか、思い出を手繰っていると、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。


「フロレンス様が男性だったら、ぜったいに結婚を申し込んでいるのに!」

「あら、私は同性でも構いませんわ、私のことも抱きしめてくれないかしら…」


背中を嫉妬混じりの視線に突き刺されながら、僕たちは二階にある休憩室に滑り込んだ。

静かに扉を閉ざすと、ずっと緊張していた体から力が抜けるようだ。


僕はフロレンスに支えられながら、部屋のカウチに腰を下ろした。

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