第3話

「嫌だ、毒婦が本宮に来ているわ」

「しっ! あまり見てはいけませんよ。呪われてしまいます」

「まったく、離宮にずっと籠っていればいいのに」


 本宮に近付いただけで、妃嬪のみならず女官や宦官にもこの言われよう。

 噂を放置していたとはいえ見事な嫌われっぷりだ。


(まあ、今はこの方が都合がいいのだけれど)


 紅玉は面紗の中で小さく嘆息し、昨夜の黒呀との会話を思い出した。



 前代未聞な紅玉からの求婚を受け入れてくれた黒呀は、そのための条件を二つ提示したのだ。

 一つは中秋節まで紅玉が瑞祥妃だということを内密にする事。

 二つ目は地位を上げる事だ。

 一つ目の条件は元より婚姻がなされるまで隠し通すつもりだったので問題はない。

 だが、二つ目は考えてもいなかったので少し驚いた。


「建前上のものだとしても黒龍皇后は最高位の白龍皇后に次ぐ高位の女性となる。才人では指名した時点で苦言を呈す輩が現れかねない」

「あら、そうだったのですね」


 自分が瑞祥妃だと知られれば地位など問題にはならないだろうが、正式に婚姻がなされるまで知られるわけにはいかない。

 となれば黒呀の言う通り位は上げておいた方がいいだろう。


「私もそなたを迎え入れられるよう努力しよう。だからせめて正三品の婕妤しょうよまで上り詰めてくれ……ふた月では難しいかも知れぬが」


 大変なことを望んでしまうなと申し訳なさそうに口にした黒呀は、伸ばした手で紅玉の髪に触れた。

 軽く撫でてから耳にかけ、その男らしい硬い手は離れて行く。だがその際耳に指先が触れ、紅玉は何とも気恥ずかしい気分になった。


(な、何だか想い人にするような仕草だわ)


 夫婦になろうというのだから問題はないのだろうが、黒呀は想う相手がいるはずだ。自分との婚姻は契約のようなものなのだから、今の行動に甘さがある様に感じたのはきっと気のせいなのだろう。


「私も出来る範囲で手助けはしよう。……頼んだぞ」


 黒曜石の瞳に強い意思を宿した黒呀に、紅玉はしかと頷く。


「はい。私の使える力全てをもって、ふた月で成り上がってみせましょう」



 やるべきことを思い出しながら無意識に黒呀の指が触れた耳に手をそえる。

 くすぐったい胸の内に気づき、はっと手の位置を戻した。


(嫌だわ、これではまるで恋する乙女ではないの)


 黒呀に対して好意はあるが、それを恋情にしてはならない。彼には叶わぬ恋の相手がいるのだから。

 自身に言い聞かせ、胸に宿ったほのかな温もりを振り払う。


(私は使命を果たせればいいの。辛いと分かっている恋などする必要はないわ)


 地上に恵みをもたらすために龍帝の皇后になるのが使命だ。その上で出来る限り幸せでありたいと願って黒呀に求婚した。

 彼の皇后であれば女の諍いに巻き込まれることもなく、唯一の妃として大事にしてもらえる。

 恋情は向けられなくとも、黒呀ならば自分をないがしろにはしないだろうと昨夜確信出来た。

 だから、今は約束した条件を満たすことに集中しよう。

 改めて決意した紅玉は、目的の人物がいる殿舎へと足を進めた。



 咲き誇る様相の蓮の花が美しい池の近くに、目的の人物はいた。

 少し変わった日除け傘の陰にいるのは、柔らかな飴色の髪をゆったりと結い上げた儚げな女性。

 真白の肌は透き通るように美しいその人は大きく膨らんだ腹を撫で慈しみの笑みを浮かべている。

 彼女の名は楊淑妃。現在白龍帝の第二子となる子を身籠っている四夫人の一人だ。


 後宮で上りつめるには皇帝からの寵を得るのが一番手っ取り早い。だが、白龍帝の皇后になりたくない身としてはその方法を取るわけにはいかない。

 ならばどうするか。

 権力者に気に入られればよいのだ。

 皇太后も皇后もおらぬ現在の後宮では四夫人が最高位の正一品である。上から順に瑛貴妃、楊淑妃、伯徳妃、招賢妃で、一番の権力者は白龍帝の第一子となる明蓮めいれん公主を産んだ瑛貴妃だ。


 順当にいけば瑛貴妃に取り入るのが普通なのだろうが、紅玉は瑛貴妃をどうしても好きにはなれない。

 黒髪に赤い紅がとてもよく似合う美女だが、後宮内の不審死には彼女が係わっているのではないかと言われるほどに権力欲が強い。

 紅玉が後宮入りしてからは、瑛貴妃が係わっているであろう不審死は呪われた妃である紅玉がもたらしたものだと言いふらしてもいた。

 自分が悪女と呼ばれる一番の原因となった人物だ。好きになれるわけがない。

 そういった理由から瑛貴妃の次となる権力者・楊淑妃に取り入ろうと決めたのだ。


(それに、白龍帝の御子を宿している淑妃様は今一番危険にさらされている状態ですもの)


 恩を売るには丁度良くもあるし、何より赤子が殺されてしまうのは悲しい。

 純粋に守りたいと思える相手でもあった。

 紅玉は驚かせないようゆったりと淑妃に歩み寄り膝をつく。


「失礼いたします、楊淑妃様。お声をかける無礼をお許しください」

「なっ⁉ 李才人⁉」

「汚らわしい、近寄るでない」


 楊淑妃がその翠の目に紅玉を映すより先に、周囲の女官たちが騒ぎ出した。

 分かってはいたが、楊淑妃と会話すらさせてもらえないとは……。


「分かっておるのか? 淑妃様は大事な御子を宿しておられるのだぞ?」

「そなたのような呪われ妃が近付いて大事があったらどうしてくれる。去ね!」

「……大事なきよう、お守りしたいとお声掛けさせて頂いたのです」


 ため息を吐きたいのを耐え、なんとか話が出来るようにと落ち着いた声音を心掛ける。

 だが、「どの口が!」と女官たちのまなじりはつり上がる一方。これは出直した方がいいかと思い始めたときだった。


 カァーカァー!


「きゃあ!」


 突然二羽の鴉がバサバサと羽音を立てて楊淑妃に向かってきた。


「なっ! 淑妃様⁉」


 二羽の鴉は興奮状態で手が付けられず場は騒然となる。

 紅玉も驚きはしたが、このままでは楊淑妃が危険なのは明白。考えるより先に動いた。


「おやめなさい! この方はお前たちの子を害してはいません!」


 楊淑妃と鴉の間に入り叫ぶ。

 彼女が使用している傘の飾り――黒羽を一枚取り鴉に差し出した。


「これはお前たちの子の羽根なのですね? ですが害したのは別の人間です。この方を害することは許しません」


 紅玉の言葉に二羽の鴉は悲し気に「カァ……」と鳴くと、差し出された黒羽を咥え飛び去って行く。

 辺りに静寂が訪れる中、紅玉は元いた位置に戻り近付きすぎたことを詫びた。


「失礼いたしました。ですがあのままでは危険と判断いたしましたので」

「なっ⁉ 何を! 今のもお前が近くに来たせいではないのか⁉」

「呪われし悪女め! 淑妃様までも呪うつもりか⁉」

「……おやめなさい」


 楊淑妃を助けたという状況の中でも女官たちは紅玉を非難する。そんな荒ぶる女官の声を制するように、柔らかな落ち着いた声が通る。


「李才人、助けて下さりありがとうございます。ですが何故あの鴉たちは私を襲ったのかしら?」


 一番恐ろしい思いをしただろうに、冷静に事を見ている楊淑妃に紅玉は内心感嘆した。

 優しくたおやかな印象の女性だが、流石は淑妃の地位にあるということだろうか。肝が据わっている。


「それはおそらく、その傘についている黒羽の飾りのせいと思われます。その羽根はあの鴉たちの子のものだったのでしょう……子を害されたと思い襲ってきたのだと思われます」


 鴉は情の深い生き物だ。親から子への愛は特に。子鴉に石を投げつけた男が目をえぐり取られたなどという話も聞いたことがある。


「何と⁉ だがこれは淑妃様のご実家から送られて来た品のはず」

「ええ、確か出入りの商人が厄祓いのまじないがかかった品だと……ご両親が淑妃様を害するとは思えませぬ。だとしたら……」


 楊淑妃の落ち着いた声音のおかげだろうか。紅玉を敵視してばかりだった女官たちは冷静に分析し始めた。

 元々は優秀な者たちなのだ。噂のせいで極端に紅玉を嫌悪していただけで。


「そう……ならばやはり私はあなたに助けられたのね。感謝いたします、李才人。……して、私に話とは?」


 柔らかな声音。だが、紅玉は厳しく人を見る気配を感じ取る。

 緊張をほぐすために一息つき、紅玉はゆっくり口を開いた。


「私を淑妃様の側に置いて頂きたいのです。私が側にいれば、先ほどのように貴女様への悪意をはね退けましょう」

「それはつまり私を守りたいということかしら? でも何故? 私を守ることであなたに利があると?」


 単純に厚意で、とは思わないのだろう。

 実際今回地位を上げるために彼女へ取り入ろうと思わなければ、紅玉は後宮の勢力争いに係わるつもりはなかったのだから間違ってもいない。


「はい。少々事情があり位をもう少し上げたいのです。淑妃様をお守りし、御子を無事ご出産できるよう努めますので、正三品・婕妤の位を授かるよう尽力していただきたいと思っております」

「まあ、正直なこと」


 望みを取り繕うことなく告げた紅玉に、楊淑妃はころころと鈴を鳴らすように笑う。

 回りくどい物言いは逆効果だと判断したからなのだが、間違ってはいなかったらしい。


「良いでしょう。私も御子を守るためならばどんなものでも利用するつもりです。無事御子が生まれた暁にはあなたの位を上げるよう進言致しましょう」


 面紗越しでも楊淑妃が悠然と微笑んだのが分かった。

 主が決めたことに女官たちも文句は口にしない。気配からは不満がひしひしと伝わってきたが……。

 楊淑妃に受け入れられ安堵の息を吐くと、紅玉は契約の文言を口にする。


「感謝いたします。……誓約をもって、この力は成されるでしょう」


(そう、瑞祥の娘としての力――良きものを呼び、悪しきものを避ける力を)

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