2001年5月2日 深夜
「もう最初のコーナーか。さっきとは全然違うね」
まだ白煙立ち上るスタート地点で、堀井は驚きの色を隠せないまま呟いた。路面に焼き付いたタイヤの匂いと、爆音に圧倒されて我を忘れていた。暗闇の中へ吸い込まれるように走っていたブリリアントブルーの車は、自分を載せて走っていた時とはまるで別の表情をしていた。いや、車に表情があるのならば、あれが本来の顔なのだろう。スポーツカーとして本来の姿だ。
「やっぱり出だしはエボⅦの方が速いか。まあトルクと重さが違うしな」
俊介とヒロシを送り出した相川が、堀井の元に歩み寄りながら言う。
「エンジンも違う。イチゴーも素で250馬力あるけど、エボは280馬力で四駆だもんな」
「相川さん、馬力が大きい方が速いってのはなんとなく分かるんだけど」
懐からメモとペンを取り出しながら堀井は先を続けた。
「四駆って言ってましたけど、速見の乗っているイチゴーは違うんですか」
「あー、イチゴーはFRだよ。エンジンがフロントに乗っていて、駆動輪――リアが後ろなんだ。略してFR。これに対して四駆はその名の通り、四つのタイヤ全部が駆動輪なんだ。だからパワーをタイヤ全体に回せる分、悪路に強いし、加速も速い。北海道で四駆車が売れるのはこれが理由だね」
説明しながらも目は心配そうに暗闇の向こう――バトルをしている俊介とヒロシの方を見つめている。
「俺も一つ前のエボに乗ったことあるけど、思い通りに曲がるんだよ。あれが更に進化してるとしたら、エボⅦはレースゲームの感覚で曲がるんじゃないかな?」
「速見、勝てますか」
「うーん、それはなぁ……」
率直な質問を受けて、相川は頭を掻いた。そして夜空を見上げ何かを喋ろうとして、ため息を吐きながら堀井の顔を見直した。
「勝てる……と思う。本来ならあいつは、とっくの前に俺よりも上手くなってると思うんだよ。こと大沼に関してなら、函館最速を名乗っていいと思う。……思うんだけどな、これが面倒なんだよな」
「どういう事ですか」
「走りっていうのはさ、なんていうか君ら一般人が思っているほど単純な世界じゃないって事だよ。速い車に乗れば誰でも早くなると思っているけど、実はそうじゃ無い。性能で劣っている20年前の車に乗っていても、今のスポーツカーにも勝てたりもする」
「それはつまり、ドライバーの腕、という事ですか」
「そう、腕の問題だね。そして腕を活かすためには心の部分が大事になってくる。モチベーションの問題だ。今のシュンは、高校卒業した辺りから、そこが弱いんだよ」
ふぅん、と堀井は分かったような分からなかったような微妙な返事をする。
「今の俊介は走りに気持ちが乗っていない。不貞腐れて走っているだけなんだ。だから本来の力も出せない。確かにエボⅦは最新の車で化け物みたいな性能だけど、イチゴーが手も足も出ないほど性能に差があるか、と言われたら違うんだな。なんせイチゴーも2年前に発売された車だし」
「不貞腐れている? 速見が?」
出会って日も浅いが、堀井が見るところ俊介にはそんなところは見当たらなかった。車を走らせている時は楽しそうだったし、彼を囲んでいる仲間たち――ショウも、相川にも、俊介のモチベーションを下げるようなことをする相手は居なかった。例外は、先ほど攻撃的だったエボⅦのドライバーぐらいだ。
そうだな、と前置きをしてから相川は堀井に片目を瞑ってみせた。
「プロレーサーになるにはどうしたらいいか、調べてみたらいい。そうすればきっと、俊介の抱えている問題が見えるさ。きっとそれは走り屋を理解することにもなる」
それだけ告げると、相川は自分の車まで戻っていった。そして隣に座っていたショウと何やら話し込んでいる。
堀井は二人がまだ走っているであろう暗闇を見つめ、目を凝らした。
闇は、深い。
※
数度のコーナリングを目の辺りにして、俊介はその車の性能に圧倒されていた。
よく曲がる。俊介が乗っているイチゴーよりも深くコーナリングに突っ込み、高性能なブレーキで問題なく曲がりきる。そして四駆ならではのパワーを余すことなくタイヤに伝えることで直線の立ち上がりも速い。
大沼半周コースの半分も行かないうちに、俊介はエボⅦの後ろを追うだけで精一杯になっていた。
「くそっ!」
ハンドルを握る手に力がこもった。
2年間この大沼を走っていないヒロシに後塵を拝する。屈辱だった。車の性能だけではない、自分の走りにすら苛立ちを覚えた。
俺は2年間、何をしていたんだ!
内から湧き出る怒りを奥歯で噛み殺し、視線だけは前を行くヒロシからは離さない。だが滲む焦りがハンドル捌きにわずかな、本当にわずかなミスを招く。
コーナリングの度にオーバーステアが出る。FRという駆動式である以上、コーナリング時は後輪に遠心力が集中するのが当然だ。しかし勢いがありすぎて曲がっているカーブの外側に引っ張られた状態になるのが、オーバーステアだ。
一歩間違えれば容易くスピンにもなるこの乗り味こそ、ドリフト車としての魅力なのだが、今日の俊介は気が早っているせいか、自分で思っているよりも走行ラインがブレるのだ。
それらを修正するのに、おそらく1秒もかからないだろう。だがレースの世界においてその時間は果てしなく大きい。
仮に時速80キロで走っていた場合、1秒間でおよそ22メートル進んでいる事になる。俊介の場合はそこまで大きくないものの、だが決して小さくない距離をミスしているのだ。最短距離で走るのに余分な距離を走っていては、縮まるもの縮まらない。
エボⅦのテールライトが、また小さくなった。
ひたすら追いかける俊介の脳裏に突然、父親の言葉が蘇る。
――高校卒業していつまでフラフラ遊んでいるんだ。
「違う、俺は」
――一生バイトだけで食えるわけじゃねえんだぞ。
「知っている、そんな事は!」
コースを身体に叩き込んでいる俊介は、それでも走るのを止めない。
右回りのコーナリングでGが身体にかかり、負けまいと身体を踏ん張る。S15のタイヤも地面に吸い付くように路面に食いつき、摩擦で白い煙を巻き上げた。
うっすらと額に汗がにじんでいるのを自覚しつつ、俊介はさらにアクセルを踏んだ。
このコーナーを曲がりきれば、直線ともカーブとも言えない緩やかな曲線を描くコースに入る。追いつくとしたらそこしかない。
ここが勝負どころだ。
コーナーで勝つにせよ、直線で追い付くにせよ、ここを逃せばエボⅦと開いた差が取り戻せなくなる。車の性能ではヒロシの方に圧倒的な利があるのだ。首の皮一枚でも繋がる為には必死に食らいつかなければならない。
なのに、何故。
――働く口がねえなら出稼ぎにでも行け!
幾度となく繰り返した父親との口喧嘩を思い出してしまうのか。
舌を打ち、視線を集中しようと前を行くテールランプを見つめる。
エボⅦはミス一つない。多少のブランクがあるにせよ、車の性能がそれを補ってなお有り余る走りをしているのだ。丁寧にミスを抑えるように走っているだけでも、なお速い。
ヒロシが上手くなった、というのもあるだろう。だが、ヒロシが居ない間走り続けた2年という年月が無意味であったとは思いたくはない。
もし無意味であったとしたのであれば、自分の2年間とはなんだったのだろう?
そんな疑問が俊介の脳裏をかすめた。そして迷いはダイレクトに車にも伝わる。
理想とすべきコースから外れ、修正も雑になる。結果さらにヒロシの乗るエボⅦとの距離が開くだけだ。
車の性能の差ではない。これは明らかにドライバーの腕によるものだ。今の自分では、S15の性能を充分に引き出せていないのだ。
それらが理解出来るだけに、なおさら俊介の胸中に荒波が立つ。
「くそっ」
小さく悪態を吐きながらエボⅦを追いかける。
4速にシフトアップすると、ターボ独特の吸気音が響き渡り、直線でも曲線でもない、蛇のようにうねったコースに突入する。
すると少しだけヒロシに近づいた。ヒロシとて新車の性能を全て把握しているほどエボⅦを走らせているわけではないだろうし、久しぶりに走るコースならば不測の事態を予測してある程度安全なマージンを取る。ましてやここは街頭の光もない、ほぼ真暗闇のコースだ。目視でコースを確認して走るためには慎重になろうというものだ。
俊介のつけ入る隙はそこだ。
毎日走っていたことで俊介はコースの事ならば全て把握している。やったことはないが、おそらくは目隠しでも数秒間は走れるくらいの自信はある。
前方を行くエボⅦの車体が少しだけ左に寄った。この先はコーナーほどRがキツくはないが、緩やかに右に円弧を描くようなコースが続く。
俊介は速度を上げ、エボⅦの5メートル程離れた距離、万が一、相手が隙を見せたら一瞬で捉えられる間合いまで迫った。
「追いついたぞヒロシ……」
呟いてからそれが自分の発したものだと俊介は気付いた。どうやら自分は集中していると、ひとりごとが多くなるらしい。
ふいに、エボⅦのテールライトが消えた。
エボⅦ特有のマフラーの音はまだ聞こえる。ということは、ほぼ減速なしでコーナーを曲がりきったのだ。
冗談じゃない、と俊介は額に浮かんでいた汗が、頬を伝っていくのを感じだ。
四駆の性能をフルに活かしたコーナーリングがこんなに速いとは思わなかった。ブレーキの性能が高いために速度を落とす時間は短く、立ち上がりは四駆のパワーで引き離していく。
俊介は右足のつま先でブレーキを踏みながら、踵ではアクセルを踏む。ヒール・アンド・トゥ。またはヒール・トゥと呼ばれるこの技術は、エンジンの回転数を落とさずにシフトダウンすることにより、コーナーを立ち上がった時により力強く加速するために必要なものだ。
3速へシフトダウンしてコーナーから抜けきると素早く四速へ戻す。
だが、そうして追いついたと思うと、またも俊介の眼前にはテールライトだけが光っていた。
追いつけない!
心の何処かでそう思った瞬間、俊介の中で何かが弾けた。
何かの正体は自分でも分からなかった。生意気な口を聞いてきたヒロシへの憎しみか、日頃から溜まっていた父親への確執か。それともいつまでも函館という土地にしがみついている自分自身への苛立ちか。
アクセルを踏みしめ、通常よりも速度を出す。そしていつもよりも深くコーナーに突っ込み、強引にコーナーを曲がりスカイブルーの車の後ろを追いかける。
S15のエンジンは酷使により大きな唸りを上げ、マフラーからは悲鳴にも似た爆音が爆ぜる。
それらを無視して俊介はただひたすら前に食らい付こうとした。
負ければ、何かが終わる気がしていた。
闇夜を切り裂くヘッドライトの向こうにある、エボⅦのテールライトを見失ったら、俊介自身がどうしたらいいか分からなくなってしまう恐怖を感じたのだ。
だから、ミスをした。
緩やかに曲がるカーブを目前に、速度を出しすぎた。このままではガードレールに直撃してしまう。
俊介は反射的に、クラッチを蹴ってハンドルを思い切り左に切った。FR車は乱暴な手段ではあるが、アクセルを踏みながらクラッチを蹴り、一気にエンジンの回転数を上げて後輪へ駆動を伝えると、ドリフト状態になる。意図的にアンダーステアを起こすのだ。そのまま車体を横に流し、真後ろを向いた瞬間、シフトをバックに入れた。車の制動が後ろに切り替わった瞬間にフルブレーキ。後ろ滑りになったS15はタイヤから白煙を上げながら、それでもスピードを落としつつガードレールに斜め後ろから衝突する。
背後から鈍く強力な衝撃。続いて横殴りのGに頭が揺れる。
恐る恐る顔を見上げて車の後ろを見てみると、運良くガードレールに軽くぶつかっただけ停車してくれたようだった。
もちろん愛車は無事では済まなかった。助手席のドアにはガードレールとの接触による擦過痕が残り、後部座席側のフェンダーには凹みが出来ている。
言葉は出なかった。極度のストレスから短く荒い呼吸になり、頬を伝っていた汗は顎から流れ落ちる。
左手はハンドルを握ったまま、右手の甲で汗を拭い、深くため息をつくと俊介はコンパネに拳を叩きつけた。
ヒロシに負けた。
――俺の2年間は無駄だった。
俊介はもう一度コンパネに拳を叩きつけた。
※
相川とショウが話をしていると、相川の携帯から着信音が鳴り響いた。彼はジーンズの後ろポケットに突っ込んでた携帯を取ると、ディスプレイを見て相手が俊介であることを確認して通話ボタンを押した。
「どうしたシュン? まだバトル中じゃないのか」
「お? 終わったのかな?」
堀井が相川の顔を覗きこむように様子を伺う。だが次の瞬間には相川は裏声で叫んでいた。
「はあ!? 事故った?」
その一言で周囲の雰囲気が変わった。俊介とヒロシのバトルの結末を予想していたギャラリーたちの間にも、動揺が波紋のように伝わっていく。
相川は手を上げて全員に落ち着くように指図して、話を続ける。
「怪我は? ……うん、スピードの出しすぎてガードレールに衝突……うん、別にヒロシと接触事故ってわけじゃないんだな」
「シュンが事故ったって?」
さすがに顔色を変えてショウが食いついてくる。
「どういう事だよ相川さん」
「ま、ま、落ち着こう」
相川は自分自身に言い聞かせるように声のトーンを落とすと、ショウの方を見ながら電話でやりとりする。
短い応答の後、ショウに目配せしながら話を続けた。
「怪我はないらしいから。――それで、ヒロシの方は?」
受話器の向こうで俊介が話すよりも早く、遥か遠く半周コースの向こう側からエンジン音が聞こえてきた。先ほど聞いたエボⅦのもので間違いなさそうだ。
「ああ、そう。ヒロシは普通に完走するんだね。ところでまだ車動きそうかい? 動けないならレッカー呼ぶけど……いらない? 車体がちょっとへこんだ程度かい。そう、じゃあとりあえず戻ってきてくれないかな」
ため息と共に相川は携帯を切った。肩を落として片方の手で額を抑える。
「どうすんだよシュン、だからバトルなんて止めたんだよ。レースまであと一週間だぞ」
「無事なだけいいじゃん相川さん。話はシュンから直接聞くべ」
「こういう場合、警察呼ぶもんじゃないの?」
堀井の提案をショウは鼻で笑った。
「シラ切ればいんだよ。こんなところまで
「こらショウ、悪い事教えないの。まぁ実際のところ、警察呼ぶかどうかはシュンの車の状態次第だよ」
「どういう事ですか」
相川は苦笑を浮かべながら、堀井に説明した。
「普通は、というか法律で義務づけられているんだけど、事故を起こしたら必ず警察に届け出さなきゃいけないんだ。これをしないと届出義務違反――要するに当て逃げって事になって罪は重くなる。免許の点数も大きく減って、最悪の場合、免許取り消しってこともあるんだ。じゃあ警察に届けなきゃいいじゃんって話になるけど、警察に届ける最大の理由は、交通事故証明を出してもらう為なんだよ。コレがないと保険が適応されない。車や壊したものの修理費は全部、自腹になるんだ」
そこで一息つくと少しだけ声を潜めて、
「でもまあ警察も暇じゃないからね。わざわざこんな田舎の、人通りの無い道のガードレールまで点検することもない。人身事故だったら残った塗料から車種を割り出すってこともあるんだけど、今回みたいな場合は、大きな事故でもなければ怪我人もいない。だからシュンの車に問題なければ、黙っていてもバレないんじゃないの? って話。そういうことで君も今夜の事故は秘密にしておいてくれよ」
「なるほど」
堀井は秘密を共有した満足を得て、小さく頷き同意した。
その様子を見届けてから、相川は少し歩いて、この場にいる全員を見渡せるところまで移動した。
そして首を巡らせて周囲を見渡し、大きな声で解散を告げる。
「今夜はこれでお開きだ。みんな撤収ー。事故のことは大したことないそうだから、警察にチクらないように。来週のレースが潰れるからね」
事故と聞いて色めき立っていたギャラリー達は、それで静かになった。日頃からパトカーとカーチェイスしている走り屋たちは、こういった事態には慣れているのだろう。それぞれ自分の車に乗り込むと、別れの挨拶代わりにクラクションを軽く鳴らし、列をなして去っていく。
ものの5分とせずに本来の静寂を取り戻した大沼に残ったのは、ショウと相川、堀井の3人だけになった。
彼らが少しだけ肌寒さに身を震わせるのとほぼ同時に、遠くからやってくるエンジンの音を耳にする。
その音はますます大きくなり、やがてハイビームライトがこちらを眩しく照らしつけてくる。スカイブルーの車、エボⅦが戻ってきたのだ。
ショウは大きく手を振って、ヒロシにこちらに来るように指図した。
まだ熱気の篭った車をゆっくりと寄せると、3人の前でヒロシはサイドウインドウを下ろした。
「シュンさん、やっちまったみたいですね」
ウインドウ越しに顔と右腕を出しながら、ヒロシと相川は軽い情報交換をする。
「ああ、それで被害はどんなもんだった?」
「ちらっと返しのコースで見ただけッスけど、そんな派手にやってませんよ。車のサイドをヘコましたぐらいじゃないッスか」
「そうか。怪我がなくて何よりだ」
「じゃあ俺、帰ります。これからシュンさんの事で大変でしょうから」
「おいヒロシ、ちょっと冷たくねえか?」
睨みを効かせた表情でショウはヒロシへ詰め寄った。
「オメェあんだけシュンのこと慕っていたろ。いつからそんなしょっぺえ奴になったんだよ」
ショウの顔は険しかった。返答次第では車から引きずり下ろして殴りかかりそうな雰囲気だ。
怒気に当てられ、ヒロシは困ったような表情で、
「ショウさん勘弁して下さいよ。シュンさんの事は今でも、尊敬してます。ただ、今のシュンさんは俺の知っていた頃と違って、なんというか腑抜けた感じになってて、ついカッとなってバトルしたんですよ。俺の憧れた人は俺よりもずっと速いはずなんスよ」
自分に言い聞かせるように答えた。
「正直、困ってるのは俺の方ッスよ。目標にしてた人が、2年前から変わってないなんて……こんなの嘘ですよ」
視線を落とし、軽く頭を振りながらヒロシはため息を付いた。
「お互い言いたいことがあるのは分かった。けど、とりあえずはシュンの様子を見てからだね。ヒロシは先に帰って大丈夫だよ」
相川がまとめると、ショウも顔に不満を残しながらも一歩引き下がった。
「あ、そうそう。近いうちにモーターライフの人から連絡来ると思うんで、その時また連絡します」
ヒロシはそう告げて発車させた。
青い車を見届けてしばらくすると、様子を眺めていた堀井が独りごちた。
「ついカッとなって、ね。速見は相当あのヒロシって人から尊敬されてるみたいだね」
「そりゃそうよ。元々はゾッキーの――ああ、暴走族のことな――下っ端やっていたのを、俺とシュンでこっちに引き込んでやったもんだからな」
「それだけで本が一冊書けそうなネタだよ。詳しく聞かせてよ」
「それは今度な。今はシュンの方が気になる」
渋い顔でショウは答えると、半周コースの方に視線を送った。
ぼんやりとだが光が近づいているように見える。
ショウは腕組みをして、つま先で地面を叩きながら待った。相川は眉間に皺を寄せつつも平穏を装っている。堀井はこういう事態に見舞われたことがないので落ち着きなく視線が泳いでいた。
無言のまま少し待つと、出発した時とは打って変わって静かなエンジンの音が、暗闇の向こうから響いてくる。そしてライトの光が見え、俊介の乗るS15が姿を表す。遠目で見た限りでは大きな損傷がないのを確認して、相川とショウが小さく声を漏らした。
車は徐行程度の速度で緩やかに近寄ると、静かに停車した。シートベルトを外した俊介が運転席のドアを開いて出てくる。
「相川さんすみませんでした」
俊介は視線を伏せたまま、頭を下げた。
「いや、怪我がなくて良かったよ」
「事故るなんてホントお前らしくねえな」
ショウが歩み寄って肘で小突いて、肩に軽いパンチをする。もう一度パンチをお見舞いしようとすると、俊介は苦笑いをしながら掌でそれを受け止めた。
「悪いなショウ。心配かけた。どうかしてたんだと思う」
本当にどうにかしていた、と俊介は思った。あれは負けん気の強さの現れではなく、自暴自棄な狂気を含んだ行為だった。
「これが事故の跡かい?」
いつの間にか車に近寄っていた堀井が、携帯電話のライトで事故の傷を照らし出していた。
改めて見ると、助手席側のドアの塗装が剥げ、後部座席のフェンダーには手のひらサイズほどの凹みがあった。
おそらく回避行動をとった結果、後輪側の方に勢いがあって、こちらが先にガードレールにぶつかり、そして前輪側である助手席側のドアが表面を削られるように擦ったのだろう。
相川も近づいて片膝を折って座ると、指で傷跡をなぞりながら言った。
「うん、思ったより大したことないな。フレームまでは歪んでないと思う。塗装と簡単な板金で直るはずだよ。上手く事故ったもんだ」
「これ、7日のレースの前までに直るの? あと4,5日しかないよね」
堀井が誰にというわけでもなく言った。
今日はあくまで様子見で、本番である雑誌チームとの対戦を7日に控えた状態だ。走行に問題はないとはいえ、塗装が剥げ、一部がへこんでいる車ではいささか見栄えが悪い。レースは全て録画され、ダイジェストと言えどもDVDになって雑誌の付録としてついてくるはずだ。全国の走り屋にこの状態を見せたらみっともない。
「相川さんとこで直せそうですか?」
俊介は熱心に傷跡を眺めている相川に聞いてみた。相川は車好きが高じて、中古車販売のかたわら小さな板金塗装まで行っている店で働いている。
だが彼の返事は色よいものではなかった。
「ゴールデンウィークだからねぇ。今うち休みなしで働いてるけど、まだちょっとそんな余裕ないと思う。修理自体は簡単だけど空きが出来るまで一週間以上かかるよ」
「そうですか。そうなると――」
俊介の脳裏に一人の人間の名前が浮かび上がった。農作業で日焼けした浅黒い肌に、人懐こい笑顔も一緒に思い出す。
「安藤だ。安藤ならなんとかしてくれるかも」
「その人も走り屋?」
「ああ」
堀井の問いに俊介は力強く頷いた。
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