第9話「女神」
オデルが名残惜しそうに執務室へ姿を消した昼過ぎ。
シルディアはヴィーニャと共に書庫に来ていた。
平民の家ほどのサイズの書庫の壁に窓はなく、本棚で埋め尽くされている。
書物と木の混じり合った匂いが鼻をくすぐった。
本棚には古今東西あらゆる分野の書物が並んでおり、数え切れないほどの書物にシルディアは目を輝かせる。
「アルムヘイヤの絵本! よく目を盗んで会いに来たフロージェに読み聞かせをしていたわね。懐かしい……」
目に入った絵本を手に取り、ページをめくった。
見開きいっぱいに双子の女神が対立している絵が描かれている。
それは、アルムヘイヤ国民なら誰でも知ってるおとぎ話だ。
「どのような物語なのですか?」
「ん? えっとねぇ」
シルディアはヴィーニャの疑問に応えるべく、すでに覚えてしまった文章を慣れた口調で口ずさむ。
「これは神々が生きる時代のおはなし。双子の女神が一つの土地を統治していました。妖精に愛された妹神のお陰で恵みを受けた土地は豊かになりました。しかし、姉神には何一つ、妹神のような力がなかったのです。元は仲の良かった姉妹でしたが、妹神に嫉妬した姉神が反旗を翻しました。妹神は自身を殺そうとした姉神を異国の地に封印し、再び平和が訪れました。めでたし。めでたし」
絵本に詳細なことは一切書かれていない。
大まかなストーリーのみで構成された物語は、語り継ぎやすく、覚えやすくなっている。
「わたしの読み聞かせを聞いたのは二人目ね」
自分の言葉に違和感を覚えてしまったシルディアは、続くはずの軽口を発することなく黙り込んだ。
(? いえ、誰かもう一人、いた気が――)
「異国の地に封印された女神はどうなったのですか?」
「え? えぇ。それは何も記されていないわ。でも言われてみれば確かに。考えたこともなかった。ずっと語り継がれている物語だから、そういうものだと納得していたわ」
「皇国にも建国にまつわる神話は残っていますが、やはり国の色が強く現れますね」
「それが書物の面白いところね。後世に残したい注意喚起のような話もあるし……」
「ちなみに、その建国神話によってどのような学びがあるのですか?」
ヴィーニャの問いにシルディアの顔が少し強張った。
アルムヘイヤを知らない彼女に悪気はないのだろう。
しかし、シルディアにとってその問いに答えることは、とても勇気が必要なことだった。
乾いた喉を潤すように唾を飲み込む。
「アルムヘイヤにおいて、双子は禁忌。特に姉妹の双子は厄災をもたらすとされるの。生まれ落ちた瞬間に、姉もしくは兄は死が確定する」
「なんて惨い……」
「双子を生んだ母親が自死するぐらいには、価値観に左右しているわよ」
シルディアが苦笑していると、優秀で勘のいいヴィーニャは眉を寄せた。
オデルから出自を聞いたのだろう。
曇った顔にますますシルディアは眉を困らせた。
「まさか、シルディア様も……」
「そのまさかよ。わたしは一度、殺されかけているわ。でも運のいいことに母が他国の姫だったの。そのおかげでわたしは今ここにいる」
「アルムヘイヤの価値観が受け入れられなかった王妃様が異議を申し立てたと」
「そうね。お腹を痛めて産んだのは自分だと主張したらしいわ」
「それを産後すぐに? やはり王妃となる人の肝の据わり具合は常人とは違うのですね」
「ふふっ。確かにそうかも。王妃の意見を尊重した国王は、表向きは妖精に愛された女児が産まれたと公表したの」
「シルディア様の存在は秘匿された、ということでしょうか?」
信じられないと眉を寄せたヴィーニャは、心優しい女性なのだとシルディアは目を細め笑う。
「そうよ。わたしは妹の影武者となるために生かされた。でもフロージェが目を盗んで遊びに来ていたから、寂しくはなかったわ」
「仲の良い姉妹だったのですね」
「さっきの絵本を読み聞かせては、わたし達は絶対に仲違いをしないって誓ったものよ。でもね、影武者として何度か入れ替わりを始めてしばらく経った頃に事件は起こった」
「事件、ですか……?」
「えぇ。誘拐事件。誘拐されたのはフロージェ本人」
「アルムヘイヤには妖精姫を狙う命知らずな人間が……!?」
「いいえ。そんな罰当たりな国民はいないでしょうね。実行犯は妖精の見えない人だった」
「なるほど。他国の人間……」
「妖精のおかげでフロージェは傷一つなく助かったけれど、その日からフロージェは軟禁状態になったわ」
「それは、極端ですね」
その言葉にシルディアは深く頷いた。
「そうねぇ。でもそれ以来、見向きもしなかった父がフロージェの影武者として尽くせと手のひらを返してきたの」
「それはまた……」
「フロージェを溺愛する父は、わたしが憎くて仕方なかったでしょうね。禁忌の元凶がいるためにフロージェが傷ついたと」
「信仰の根は、聞き及んでいた以上に深いのですね」
「そうかもね。フロージェを守るためにはわたしが必要だった。皮肉なものでしょう?」
「確かに」
「だからね、ことあるごとに入れ替わって過ごしていたの。それ以来わたしに自由は与えられなかった」
「……踏み込んだことを聞いてしまい申し訳ありません」
「構わないわ。オデルに可能なら探れって命令されたんでしょ?」
「おっしゃる通りです」
「まったく。聞いてくれればちゃんと答えたのに」
「聞きたくても聞けなかったのだと思いますよ」
「? どういうこと?」
シルディアの問いに、ヴィーニャはにんまりと笑った。
「シルディア様を傷付けるかもしれないと危惧していらっしゃいましたから」
「むしろご丁寧に絵本まで用意して、思い出話を引き出そうとするぐらいなのに、そこ気にするのね!?」
「用意周到ではありますね」
「でしょう? 本当、自分で聞けばいいのに」
「その可愛らしい顔は皇王陛下の前でなさってください。それと、皇王陛下は存外臆病であらせられます」
不貞腐れるシルディアを宥めるようにヴィーニャは眉を下げた。
だがその言葉には庇おうとする心よりも、呆れの感情が大きくしめている。
「それ、フォローになってないと思うわ。一歩間違えれば不敬よ」
「大丈夫ですよ。皇王陛下は心が広いお方ですから。それに私は優秀な侍女ですので。代わりはおりません」
「ふふっ。確かにヴィーニャよりも使える侍女はいないでしょうね」
「シルディア様にもそう思っていただけるとは恐悦至極です」
わざとらしく礼をしたヴィーニャに、シルディアは絵本を直しながら首を傾げる。
「それでどこが臆病なの?」
「……シルディア様。耳元失礼いたします」
「えぇ」
「では失礼して。皇王陛下はつがいであるシルディア様に嫌われたくないのですよ。きっと愛する者には格好つけなければという矜持があるのでしょう。男の見栄っ張りにも困ったものです」
目を見開いたシルディアの耳元から離れたヴィーニャは悪戯が成功した子どものように笑った。
彼女につられ、頬が緩む。
「男って面倒ね」
「ですね」
くすくすと笑い合い、シルディアは自分のわがままに付き合ってくれたヴィーニャに心から感謝した。
(友人のように接してほしいって言った時は驚いていたけど、聞き入れてくれて良かったわ)
気を取り直したシルディアは本棚に目を向けた。
書斎に来た本題は思い出話に花を咲かせることではない。
「竜の王に関してなら、神話の書物かもしれないけれど……。まずは歴代の竜の王について調べてみましょ。ヴィーニャ」
「はい」
「歴代の竜の王に関する書物を一緒に探してくれる?」
「ご要望があれば私がお持ちしましたのに」
「書庫の雰囲気を自分でも味わいたかったのよ」
「そうなのですね。では、お手伝いします」
「お願いね」
「仰せのままに」
そうして、二人は歴史書の並ぶ棚に足を向けた。
持てる限りの書物を両手に抱え、シルディアは書庫からリビングルームへと何度も往復したのだった。
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