百年の復讐と呪詛の禍唄

和泉茉樹

第1話

      ◆


 風が鋭い音を立てる。

 どこまで見渡す限りの荒野は赤黒く、乾燥してひび割れている。空も青いはずなのに、どこかくすんで見えた。

 マーズ帝国の北辺、俗に「北部戦域」と呼ばれる一帯の片隅だった。

 俺は音がした方を見て、耳を澄ます。強風が体を打ち、舞い上がった砂を避けるために目元を手で覆う。もう一ヶ月、まともに雨が降っていない。

 片手に金属製の鍬を持ったまま、改めて周囲を確認した。

 俺が耕している狭い畑、そして木造の今にも潰れそうなぼろ家、それ以外は何もない。遠くにまた別の建物が何軒か見えるが、動いている人の姿は見えない。

 その時、また甲高い音が聞こえた気がした。

 間違いではなさそうだ。

 俺はすぐそばのぼろ家、我が家に駆け込んで、最低限の銭を身につけ、保存食の入ったカバンを背負う。家を出る前に玄関脇に吊るしてある笛を掴み取って、片手には鍬を拾い上げて駆け出した。

 走りながら笛を口元へ当て、強く息を吹き込むと、さっき遠くで聞こえた音とそっくりの音が響いた。

 これは警報だ。ここら一帯に住む者たちの助け合いの一つの形。

 魔物の接近を伝える警報だった。

 すぐそばに三十人は収容できる野戦陣地がある。土塁に囲まれているだけだが、何もないよりはマシだ。

 走っているうちに、笛の音が幾重にも重なって聞こえ始めた。

 土塁が見えてくる。すでに数人が到着し、それぞれの得物を手に緊張した面持ちで周囲を見張っている。俺も野戦陣地に飛び込むや、荷物を置いて、鍬を手に周囲の警戒の一角に入る。まだ十六歳の俺でも、ただじっとしていることなど許されない。

 ここは、戦うことが誰もに求められる場所だった。

 知り合いの男が俺に声をかけてきた。

「ウルダは一緒じゃないのか?」

 ウルダというのは俺の育ての親のことだ。

「オッサンはどこかへ出かけたままだよ。今、どこにいるかは知らない」

「あいつがいれば百人力なんだがなぁ」

 それきり、相手は口を閉じた。

 野戦陣地には次々と近隣で生活する者が集まり、総勢で四十名ほどになって窮屈だが文句を言うものはいない。女子供を中央に置き、周りを男たちで固める。

 やがてそれが見えてきた。

 三々五々に隊列も組まずに駆けてくる異形の存在。

 二足歩行をしているが、ずんぐりとした胴体に、四肢は短く、しかし太い。武器のようなものを持っているものもいるが、まったく洗練はされていないし、統一されてもいない。

 頭部は犬のようでもあり、豚のようでもあり、牛のようでもあり、やはり統一感はなかった。

 揃っているのは、見ただけで嫌悪感を抱かせる、という点だけだろう。

 奴らはただ、魔物、と呼ばれる。

 行くぞ、と俺のそばの誰かが言った。それを合図に、野戦陣地から出た男たちが隊列を組む。

 魔物の群れから野戦陣地を守れなければ、皆殺しにされる。魔物には言葉が通じないからそもそも交渉の余地などありはしない。当然、命乞いも通用しない。

 ここから先は、生きるか、死ぬか、どちらかしかない。

 魔物の咆哮が聞こえ、背筋を冷や汗が流れる。

 こんな状況は初めてじゃない。それどころか、何度も経験し、生き延びてきている。

 それでも、死ぬかもしれない、とどうしても想像してしまう。

 魔物の頭を鍬で打ちくだく時、逆に魔物が手にしている粗末な剣のようなものが俺の頭を粉砕する場面が脳裏に浮かぶ、あの冷え冷えとした感じは言葉にできない。

 絶対に生き残れる、と保証してくれるものは何もない。

 先頭の魔物と仲間の男が接触し、戦端は開かれた。

 次々と魔物はやってくる。人間たちは二人、あるいは三人で一組になり、魔物を倒していく。魔物の知性は人間に及ばず、ただ数は多い。ほんの些細なことで、人間の知恵など数の力の前では役に立たなくなる。

 俺も他の二人と組んで、魔物を倒していった。

 頑丈な作りの鍬の柄に伝わってくるのは、骨が砕け、肉がちぎれる感触。

 魔物の断末魔と同時に、血や肉片が爆ぜ、俺の体にまとわりつく。

 戦いを止めることはできない。

 いつまで続くのか、なんてことを考えてはいられなかった。

 いつまで続くとしても、戦い続けなければいけない。

 どれくらいを戦い続けたか、不意に周囲が静かになっているのに気付き、次にもう向かってくる魔物がいないことが理解できた。

 静寂が不意に破られ、そこここで苦鳴が起こる。戦闘が終わったことで緊張が解け、やっと負傷に気づく、ということはままあることだ。俺も思わず息を飲んで、自分の左肩の痛みに気付いた。

 視線を向けてみると、裂けた袖の奥で肉が浅く抉られていて、見る間に出血していく。

「傷を見せろ」

 一緒に戦っていた男が無造作に俺の肩を掴み、傷を観察し始めた。親切心ではなく、ここでは皆、こういう態度をとる。助け合うことが基本中の基本なのだ。

 そうでなければ、この土地では生きていけない。

「もう魔物の血が傷口を腐敗させている。少し切開するぞ」

 そう言うなり、男が自分の服の袖を引き裂き、差し出してくる。受け取って、覚悟を決めてからそれをぐっと噛み締めた。

 治療のやり口は荒っぽいが、実に手際が良かった。短剣で傷口の肉を薄く削いで、大勢が持ち歩いている針と糸で無理やりに縫い合わせてから、きつく縛る。肉に刃物が突き立てられるときは、どうしても布を噛み締める口から声が漏れてしまうが、誰だってそうだろう。

 そんな治療の光景がいくつも展開され、その間に女たちが炊き出しを始める。この炊き出しは、魔物との戦いが長時間に及ぶと戦いの最中でも行われる。男たちは交代で休息を取って戦い続けるのだが、女たちは女たちで、ただじっとしているわけでもない。

 ともかく、今回は短い時間で済んだ形だ。

 食事が振舞われ始め、やっと空気から完全に緊張が抜け、和んだ雰囲気になった。俺も器を受け取り、何かが煮込まれたどろどろの粥のようなものを受け取った。

 男たちは今後の生活について話している。作物の育ち具合や、商人たちがいつ来るか、といった話だ。

「アルタ、ちょっといいか」

 粥をすすっているところで、男の一人から名前を呼ばれたので、そちらへ移動する。

「また今度、武具を漁りに行こうかと思うんだが、ウルダに都合を聞いておいてくれ」

「ああ、わかった。きっといつでもいいと思うけど」

 嬉しそうに男たちは笑い、俺も粥をすするのを再開した。

 しばらくそこで魔物の群れを完全にやり過ごしたのがわかってから、解散になった。それぞれが荷物を手に、住まいへ戻っていく。

 遠くに太陽が傾いていく中、俺は一人で歩いた。

 地平線の彼方に、人工的な影が浮かんでいる。

 マーズ帝国が数百年前に建造した、国境長城、と呼ばれる巨大な壁。これが人間の生活圏と魔物の生存圏を隔てている。しかし長い年月を経た結果、国境長城はそこここで崩壊し、もはや完全な防壁とはなりえていない。

 北部戦域とは、国境長城の破れ目によって生じた戦場なのである。

 それにしても、と俺は思う。

 俺はいつまで鍬を握っていればいいのだろう。

 正直、自分の剣が欲しかった。

 しかし何故か、ウルダは俺に剣を与えないし、剣術を教えようともしない。

 鍬使いのアルタ、などと影で呼ばれていることを、俺も実は知っている。

 あまりにもカッコ悪いんだよなあ……。

 自分の生活する家が見えてくる。すぐそばを魔物が通ったようだが、耕している最中の畑は荒らされてもいないし、ぼろ家もぼろ家のまま、そこに建っていた。

 ウルダの姿は見えない。

 どこへ行ったのやら。

 死んでいなきゃいいんだけど、ここら一帯では人の生死は時に曖昧になり、生死不明のままになるものも少なくない。

 ここは戦場であり、この世の果てなのだから。



(続く)

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