孤独の温もり

春光 皓

前編

「今日も残業、明日も残業確定……と」



 明かりの消えた狭いオフィスに、キーボードを叩く音が鳴り響く。


 その音にかき消されてしまう程の小さな声で、速水良子はやみよしこは一人、ノートパソコンが放つ光に包まれながら仕事をしていた。


 業務の量は日に日に増しているにも関わらず、口だけの経費削減を謳う会社からはモニターすら支給されることはない。



「経費削減って言うなら、まずこの紙だらけのオフィスを何とかすべきよね」



 こぢんまりとした個人デスクの上には、時代遅れに印刷された大量の資料と請求書が乱雑に積まれていた。


 そのほとんどが、定時間際に贈られた同僚からのプレゼントである。



 良子は昔から人付き合いが苦手だ。

 だからこそ、頼まれ事を断って人間関係を崩すわけにはいかない。


 面倒ごとを起こさないためには、これ以上でもこれ以下でもない、この紙切れ一枚で繋がったような薄い関係性が大切だった。



 良子は自分が会社で『ロボット』と呼ばれていることを知っている。


 作られた表情で、感情を表に出すことはない。

 ただただ指示通り、淡々と作業をこなすだけの置物。


 最初は色々な想いが頭を過ったが、今ではそう呼ばれることに対して何の感情も抱いてはいない。


 むしろ、陰でコソコソとあだ名を付けて呼んでいるだけの同僚たちを見て「人間なんてそんなものか」と達観した。


 そして、いつしか感情を殺したり、一定の距離を保ちながら当たり障りのない振る舞いをしたりと、自らをロボットに寄せていくようになっていた。


 それで孤独になったとしても、ロボットとして生きていく方が心地良い。



 良子の人付き合いに、「人間らしさ」など必要ないのだ。



 この積もりに積もった紙切れ一つを取ってもそうだ。


 直属の上司である課長の渡井わたらいは、良子が置かれたこの状況を認識していた。


 その上で「無理はしないようにな」と、いつもどこか割り切ったような笑顔でねぎらいの言葉を掛けてくる。


 今日も涼しい顔を崩さずにそう言って、オフィスを後にしていった。


 もしここに「人間らしさ」があったなら、もし良子の中に「人間らしさ」が残っていたのなら、この状況に耐えることなど出来なかっただろう。



 過ぎ行く時間とともに、良子というロボットは確実に『性能』を高めていった。




 しかし、『締め過ぎたネジ』は身体を内側から苦しめていく。





「んー……、お聞きしたお仕事の話と症状を鑑みると、やっぱり疲労とストレスが原因かもしれませんね。最近はちゃんと眠れてます? ごはん、食べられてます?」


「まぁ、それなりに……」


 良子は眼科に来ていた。


 前日から目の奥の痛みが取れず、今朝になって頭痛まで伴うようになったので急遽、午前休を取っていた。


 会社でどんなに「人間らしさ」を消していても、身体は生身の人間だということを思い知らされる。


 良子は朝一番に会社に連絡し、渡井に事情を説明した。


 電話越しの渡井の声はどこか面倒くさそうに、抑揚のない相槌を繰り返すだけだった。


 そして彼が最後に放った「お大事に」の言葉からは、感情を感じ取ることが出来なかった。


 いつものことなので良子は気にも留めていなかったが、こういうところでも、ストレスは日々蓄積されているのかもしれない。



「そうですか。まぁ社会人になると、どうしてもストレスは避けて通れないものですからね。私はね、ひと月の給与の中には『ストレス負担費』も含まれているんじゃないかって思ってるんですよ。給与明細に載せてくれっつってね」



 『磯崎いそざき』と書かれたネームプレートを下げた初老の男性は、冗談交じりに言った。


 自分の言葉が気に入ったようで、「がはは」と膝を叩きながら笑っている。


 磯崎は自分に向けられた視線が冷ややかなものだと気が付いたのか、拳を口に当てて咳払いをした。



「まぁそれは冗談として……」



 少し寂しそうな表情をしたまま磯崎は続ける。


「速水さん。最近の休日は何をされています? 外には出られていますか?」


「休日は……。土曜日は前日に終わらなかった業務をして、日曜日は寝ているか、月曜日に使う資料を作っているかで、食材を買いに行く以外は家に籠っています」


「それはいけない」と磯崎は身を乗り出すように言った。


「それではストレスは溜まる一方だ。適度にどこかで発散するか、仕事のやり方に変化を与えるなどをしないと」

「これが性に合っていると言いますか、この方が色々と上手くいくんです」



「なるほどねぇ」



 良子の反応が薄いからなのか、困ったと言わんばかりに眉間に皺を寄せながら、磯崎は顎髭を掻いた。


 暫く唸るように考えた後、「そうだ」と磯崎は子どものような瞳で良子を見た。


「速水さん。会社で有給休暇を取得することは出来ますか? こう言っちゃあれだが、恐らく休みも溜まっているでしょう?」


 思いもよらぬ言葉に面を食らったが、磯崎の言う通り、良子は有給休暇を消化できずにいた。


「どうしてですか?」

「いやね、中々休めないってことだったので、強制的に休んでみるというのも一つ手かと思いまして」


 磯崎は明らかに何か考えがありそうな表情で、口元を緩ませる。


「ただ家で休めって言いたいわけではないですね?」


 良子は声のトーンこそ変えなかったが、探りを入れるように磯崎を見つめた。


 嬉しそうにゆっくりと頷いた磯崎は、自分の机に置いてあった本を手に取り、話し始めた。


「えぇ、違います。速水さんは『心を映す滝つぼ』をご存知ですか?」


 そう言った磯崎は手に持った本をぱらぱらとめくり、良子の方へ向けた。

 特集の組まれた見開きのページには、美しく流れる滝の写真が載っている。


「『心を映す滝つぼ』ですか? いえ、初めて聞きましたけど」


「パワースポットらしいんですけどね、噂によると、そこに映る自分を見つめることで本当の自分が見えるみたいなんです。もしかしたら、速水さんご自身も気が付いていない自分が見えるかもしれません。まぁ仮に何もなかったとしても、滝から出るマイナスイオンで癒されるでしょうからマイナスにはならないですし、良い気分転換になると思いませんか?」


 目を輝かせる磯崎に、どこまでも子どものような感性を持つ人だと良子は思いながら、「確かにそうかもしれません」と返した。


「良かった。じゃあ場所はこちらに書いておきますから」と、磯崎はそそくさとペンを走らせる。



「先生はいつもこんな感じなんですか?」



 無関心に救われることがあっても、関心に救われる経験のない良子は思わず聞いていた。


 磯崎は少し驚いたようにペンを止めて良子を見たが、笑いながら再びペンを動かした。


「私情を挟むのはご法度なんですが、実は私には速水さんと同い年くらいの息子が……ね。だからですかね、なんか放っておけなくて」


 そう言って「はい、これ」と住所の書かれた紙を良子へ手渡した。

 良子は無言のまま、お礼代わりに頷く。




「でも……、パワースポットは私の趣味です」




 良子は久しぶりに、心の綺麗な人間の笑顔を見た気がした。





 ――あれから三週間後、良子は磯崎に教わった滝つぼへと向かって車を走らせていた。


 病院で受診したあの日、午後から出社した良子はその日のうちに渡井に休暇申請をした。


 渡井はあからさまに嫌そうな表情をしていたが、隣に座る部長が咳払いをすると、小さく数回頷いて了承してくれた。



 やはり部長がいるタイミングで切り出して正解だったと、良子は思った。




「悪くはない……か」


 自然と想いが口を衝いて出た。


 免許を取得してから初めて借りたレンタカーで、久しぶりのドライブ。


 窓から車内に顔を出す新鮮な風が良子の髪を撫でるように吹き抜ける。


 そして、目まぐるしく過ぎていく風景が、良子に大きな開放感を与えた。


 車に乗り込み高速道路に乗るまでは地に足が付いていないような、そわそわとした感覚に陥っていたが、想像以上に順調な小旅行に、良子の気持ちは徐々に晴れていった。


 車は車内に搭載されたカーナビの案内通りに進んでいく。


 目的地までの到着予想時刻は、残り十五分だった。


「高速を降りたらすぐか」


 良子は地図を確認すると左のウィンカーを出し、出口へと向かった。


 辺りに高層ビルやマンションは一切ない。


 視界に映り込むのは古民家のような家と、緑美しい山々や田んぼだった。



「綺麗……」



 ――こんな気持ちになったのはいつ以来だろう。



 いつも以上に前後左右を確認しながら、法定速度以下のスピードで車を走らせる。


 山道に入ったところで良子は少しアクセルを強めに踏んだが、程なくしてカーナビは目的地付近を知らせるアナウンスを流す。



 良子は山道に立つ幟旗のぼりばたに書かれた文字を確認すると、駐車料金を支払い、敷地内に車を止めた。

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