孤独の温もり

春光 皓

前編

「今日も残業、明日も明日とて残業確定……と」

 明かりの消えた狭いオフィス。聞こえてくるのは、キーボードを叩く無機質で切ない音。

 その音にかき消されてしまうほどの小さな声で、速水良子は一人、ノートパソコンの画面から放たれる光に包まれながら仕事をこなしていた。

 業務の量は日に日に増している。にもかかわらず、口だけ、体裁だけの経費削減を謳う会社からは、モニターの支給すらされることはない。設定温度の低い空調では足元は冷え、ひざ掛けだって手放せない。

 削減された経費の分だけ、業務効率もそぎ落とされていると、良子は感じていた。

「経費削減って言うのなら、まずはこの紙だらけのオフィスをなんとかすべきなのよね」

 こぢんまりとした良子の個人デスクの上には、時代遅れに印刷された大量の資料と請求書が乱雑に積まれている。どれだけ整理整頓を心掛けていても、デスクに仕舞えるキャパシティを越えてからは汚れていく一方だ。なにより、これらの大半を占めているのが、定時間際に贈られた同僚からのプレゼントであるという事実はいただけない。

 この山のような印刷物を見るたびに漏れ出したため息の数は、定時を過ぎてからのカウント分だけで優に三十、いや、五十回は超えていると思う。

 良子は昔から、人付き合いが苦手だった。だからこそ、一人で黙々と作業ができるこの仕事を選んだわけで、この程度の頼まれごとを断ることで面倒くさい人間関係を拗らせるくらいなら、黙って引き受けた方が何倍もマシなのだ。

 請求書の一枚を摘まみ上げ、良子は思う。これ以上でも、これ以下でもない。この紙切れ一枚で繋がったような薄い関係性こそ大切なのだと。

 良子は自分が会社で「ロボット」と呼ばれていることを知っている。

 作られた表情で、感情を出すことはない。ただただ指示通り、淡々と作業をこなすだけの置物。

 偶然そのことを耳にした時は色々な思いが頭を巡ったが、今ではそう呼ばれることに、何の感情も抱いてはいない。むしろ、陰でこそこそとあだ名を付けて呼んでいる同僚たちを見て、人間なんて所詮はこんなものか、と達観していた。

 それから然程の時間を要するもことなく、感情を殺したり、同僚と一定の距離を保ちながら当り障りのない振る舞いをしたりと、自らをロボットに寄せていくようになっていた。

 それで孤独になったとしても、ロボットとして生きていく方が自分にとって心地が良いとすら思った。

 人付き合いに、「人間らしさ」など必要ない。

 積もりに積もった紙切れを取ってもそうだ。良子の直属の上司である課長の渡井は、良子が置かれたこの状況を認識している。良子が同僚から押し付けられるように依頼されているところを目にしているはずなので間違いはない。その上で、「無理はしないような」と、いつもどこか割り切ったような笑顔で労いの言葉を掛けてくる。

 もしここに、「人間らしさ」があったのなら。もし良子の中に、「人間らしさ」が残っていたのなら。

 きっとこの状況に耐えうることなどできなかっただろう。

 今日も涼しい顔を崩さずにオフィスを後にした渡井に、怒りの感情を抱いていただろう。

 皮肉なことに、「人間らしさ」を捨てた時間を重ねていくにつれ、良子というロボットは確実に、その性能を高めていったのだった。

 だが、締め過ぎたネジは、身体を内側から苦しめた。


「んー……。今お聞きした仕事のお話しと症状を鑑みると、やっぱり疲労、それからストレスが原因と言わざるを得ませんね。最近はちゃんと眠れています? ごはん、食べられています?」

「まあ、それなりには」

 良子は眼科を受診していた。前日から目の奥の痛みが取れず、今朝になって頭痛まで伴うほどに悪化していたので、急遽午前休みを取った。

 どんなにロボットとして生きていても、身体は生身の人間だということを思い知らされる。

 始業時間の十五分前に会社に連絡を入れ、事情は渡井に説明した。電話越しの渡井の声はどこか面倒くさそうで、抑揚のない相槌を繰り返すだけだったが、良子は気圧の低い早朝のことだからだろうと思うことにした。

 渡井が最後に放った「お大事に」の言葉からは感情を感じ取ることもできなかった。その時はいつものことだと気にも留めていなかったが、こういうところからも、ストレスは蓄積されているのかもしれない。

「そうですか……。まあ社会人になると、どうしてもストレスは割けて通れないものですからね。わたしはね、ひと月の給与の中には『ストレス負担費』も含まれているんじゃないかって思っているんですよ。給与明細にも載せてくれっつってね」

「磯崎」と書かれたネームプレートを首から下げた初老の男性は、冗談交じりに言う。自分の言葉が気に入ったのか、「がはは」と膝を叩きながら笑っている。

 それに対して良子は何の反応も示すこともなかったので、磯崎は自分に向けられた視線が冷ややかなものであると理解したのか、慌てて拳を口に当て、咳払いをした。

「……と、それは冗談として」

 少し寂しそうな表情を浮かべ、磯崎は続ける。

「速水さん、最近の休日は何をされています? 外には出られていますか?」

「休日は……そうですね、土曜日は前日に終わらなかった業務をして、日曜日は寝ているか、月曜日に使う書類を作成するかで、食材を買いに行く以外は家にこもっています」

「それはいけない」磯崎は身を乗り出すように言う。

「それではストレスは溜まる一方だ。適度にどこかで発散するか、仕事のやり方に変化を与えるなどをしないと」

「ですが、これが性に合っているといいますか、この方が色々と上手くいくんです」

「上手く……なるほどねえ」

 良子の反応が薄いからか、上手く言っているのならこんな話もしないと思っているのか、困ったと言わんばかりに眉間に皺を寄せ、磯崎は短い顎髭に触れた。

 しばらく唸るように考えた後、そうだ、と子どものような瞳で良子を見る。

「速水さん、会社で有給休暇を取得することはできますか? こう言っちゃあれだが、おそらく、相当溜まっているでしょう?」

 思いもよらない言葉に面を食らったが、磯崎の言う通り、良子は有給休暇をまったく消化できずにいた。渡井の機嫌を窺ってのことだった。

 そのことに触れることなく、良子は尋ねる。「どうしてですか?」

「いやね、なかなか休めないってことだったので、ここはひとつ、強制的に休んでみるというのも手かと思いまして」

 明らかに何か考えがありそうな表情で、磯崎は口元を緩ませる。

「ただ家で休め……と言いたいわけではないですね?」

 声のトーンこそ変えなかったが、良子は腹の内を探るように磯崎を見つめた。磯崎は嬉しそうにゆっくりと頷くと、自分の机に置いてあった本を手に取り話し出す。

「ええ、違います。速水さんは〝心を映す滝つぼ〟をご存知ですか?」

「心を映す滝つぼ……ですか? いえ、初めて聞きましたけど」

 そうですか、と笑みを絶やさぬままに言い、磯崎は手に持った本をぱらぱらと捲ると、良子の方へ向ける。特集の組まれた見開きページには、美しく流れる滝の写真が載っていた。

「パワースポットらしいんですけどね、噂によると、その水面に映る自分を見つめることで、本当の自分が見えるみたいなんです。もしかしたら速水さんも、ご自身が気付いていない自分が見えるかもしれない。……とまあ、仮に何も見えなかったとしても、滝から出ているマイナスイオンで癒やされるでしょうから行ってマイナスということはないでしょうし、なにより、良い気分転換になると思いませんか?」

 子どものように目を輝かせる磯崎に反論する気にもなれず、良子は「確かにそうかもしれませんね」と返した。

「良かった。じゃあ、場所はこちらに書いておきますから」

 良子の社交辞令などどこ吹く風で、磯崎はそそくさとペンを走らせる。

「あの……、先生は、いつもこんな感じなんですか?」

「こんな感じ?」

 まるで心当たりがないといった表情で良子を見る。無関心に救われることはあっても、関心に救われた経験のない良子にとって、磯崎の行動は不思議でならなかった。

 どうしていち患者のために、こんなにも親身になってくれるのだろうか。

 磯崎は少し驚いたようにペンを止めて良子を見つめたが、ああ、と自分の中で答えを見つけたらしく、笑いながら再びペンを動かした。

「私情を挟むのはご法度なんですが、実は私には速水さんと同い年くらいの息子が……ね。だからかな、なぜだか放っておけなくて」

 そう口にして、はい、これ。と住所の書かれた紙を良子へと差し出した。

 良子は口を閉ざしたまま、お礼の代わりに小さく頷く。

「でも……そうですね、パワースポットは、私の趣味です」

 久し振りに、心の温まる、人の笑顔を見た気がした。

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