Episode 14 束の間の休息

 それから数日が過ぎた。恐らく、ヴィザン地区での騒動が落ち着いて一ヶ月ほど経った頃だろう。

 そんなある日、セーラス内にある「執行部」と書かれたドアの奥から悲鳴が上がった。どうやらその声は、溜まった「報告書」の山で遭難しかけている者から発せられているようだ。夏休みの宿題を放置し、休日最後を地獄の日々にするタイプの人間は、いつの世にも存在する。


 執行部所属のエージェント達は、下された「指令」に対する「報告書」を作成するのも業務の一つであるため、各自自分の机を持っている。しかし、現実には己の机に座って作業しているよりも、出向して対処にあたっていることの方が多いため、ほぼ空席状態の日が多い。今日は珍しく、室内に明るく賑やかな空気が流れていた。


「あ~面倒くせぇ! 何故こういうのに限ってアナログ方式なんだよ~!!」


 タカトは量産された「報告書」を目の前に、ペンを握りつつ、あてがわれた己の机の上に突っ伏していた。そんな彼に、女の声が歌うように降り注がれる。


「仕方がないじゃない。そういう決まりなんだから。全てデジタルだと情報漏洩しやすいからなんじゃないの? というより、溜める方が問題だと思うんだけど。ほら、コーヒー」

「さんきゅー」


 ベージュピンクのサテンオープンカラーシャツにグレーのロングスカートを身に着けた、可憐な美人が、ややあきれ顔で立っていた。ピンクブラウンのセミロングヘアの真ん中あたりから緩やかなウェーブがかかっており、肩上で揺れる毛先から上品な色っぽさが香っている。


 ナタリー・ジャックマンは一見血生臭い部門に似合わないように見えるが、彼女も歴とした執行部のエージェントだ。彼の机の上に置かれたマグカップから、真っ白な湯気が香ばしい芳香と共に天井へとのびてゆく。


(やれやれ。非番の日にわざわざ出勤だなんてエライわねぇと一瞬思ったけど、文字通り自業自得ね)


「情報漏洩……で思い出した。ここのセキュリティは、この星を百周回っても、システムには侵入出来ねぇような構造になっているってガイスから聞いたんだけど、それってマジ?」


 その具体的な数字は、一体どこから算出されたものなのかは不明だ。それを傍で聞いている美女は首をゆっくりと傾げている。長いまつ毛に覆われたピンク色の瞳やその表情から見ても、特に何かを隠しているようではなさそうだ。


「そういうことに関しては〝情報部〟に聞かないと分からないわ」

「ふぅん。やっぱり餅は餅屋ってヤツか。ところでさぁナタリー。今度一緒に呑みに行かねぇ? 俺奢るからさぁ」

「うふふ。他のみんなも一緒ならオッケーよ。でも高くつくから、無理しない方がいいわ新人君!」

「くっそ~」


 花のような美女によって華麗にかわされた針頭は、そのまま大いに凹んでみせる。その時、肩に手の重みを感じたと思いきや、タカトの耳元でこっそりとささやく声が滑り込んできた。


 その青年は青灰色の目で短く黒い髪を持ち、颯爽としたダークグリーンの細身のスーツを着こなしている。彼はロバート・コネリー――タカトやナタリーと同じ同僚のエージェントだった。灰色がかったブルーの瞳が、皮肉っぽく尋ねかけるように、落ち着いて見返してくる。ステアではなく、シェイクしたウォッカのドライマティーニが似合うような雰囲気だ。


「〝リュラ〟は歌い上戸・・・・だから、止めておいた方が身のためだぞ〝レオン〟。生身の人間は即昏倒すること必至だ」


 ロバートは、唇の端をくいっと上げて皮肉っぽく笑みを浮かべている。本気で言っているというより、恐らく揶揄だろう。左わけにした短い黒髪のひと房が、彼の右の眉毛の上でカーブをつくっている。どこか優雅なエレガンスさが漂っているのは、気のせいだろうか。それに対し、〝リュラ〟と呼ばれたセミロングヘアの美女は、薔薇のような唇をタコのように前に突き出して憤慨した。


「……しっかり聞こえているわよ。〝スパティ〟ったら失礼ねぇ。私、音痴じゃないわよ」

「私が言っているのは音程というよりの方なのだが」


 聴くと昏倒する歌声。

 ある意味最強兵器ではなかろうか。

 一体どんな歌声なのか、恐ろし過ぎて想造すらできない。

 やや硬直気味な針頭の青年を前に苦笑しつつ、ナタリーは己のこめかみに人差し指を向けた。


「やぁねぇタカトったら。そんなに怯えなくても大丈夫よぉ。普段はこのIDが発動しないようオフにしてるもの」

「ものの弾みというものは恐ろしいからな」

「んもぉ! ロバートったら意地悪っ」


 〝スパティ〟というのはロバートのコードネームらしい。端から見ると痴話喧嘩のように見えるが、この二人は別段付き合っているわけではないらしい。ギリシャ語で「剣と竪琴」。彼らの得意とするものが何となく想像出来てしまいそうなコードネームである。


「あ〜あ良いなぁ。羨まし!」

「何が?」

「シアーシャ姐さんもだけど、あんたらは男女ペアなのに、俺だけ男男ペアなのかなぁと思ってよぉ。何かしっくりこねぇなぁと」

「あの〝エフティフィア〟に選ばれちゃったのが運の尽きね。感情一切入らないから、依怙贔屓は発生しないし」

「うちは能力に関して性別不問だ。君の言いたいことは分からなくもないが、逆に厄介の元になる。下手な情けは命取りになりかねん」

「なるほどねぇ……」


 タカトは芳ばしい香りを楽しみつつ、マグカップの中身を喉に流し込みながら、ロバートの話に興味深く耳を傾けた。


 ◇◆◇◆◇◆


 エージェント達に与えられる任務に関してはそれぞれレベルやランクがあり、内容によっては殉職するケースも多々ある。もしバディ同士で恋愛感情が生まれた場合、色々支障が出て後々面倒になる。


 ロバートが言うには、過去にケースとして存在するとのことだった。恋仲となった相方が出向先で死亡し、それを目の当たりにしたバディ相手が精神を大いに病み、最悪退職する自体にまで及んだこともあったそうだ。


 元々二十人近くいたはずのエージェント達は、トップであるイーサンを含めて今現在総勢七名。最前線に出るのはその内の六名だ。人数は増えも減りもせず現状維持状態だそうだが、今も昔も危険と隣り合わせな職場であることに他ならない。


 ◇◆◇◆◇◆


「でも安心出来ないわ。いくら同性バディだからって、恋愛感情発生率ゼロパーセントという保証はどこにもないんだし」


 くびれた腰に手をやりつつ力説する美女の言葉に、タカトは大いにむせたのか、口に含んだものを大いに吹き出した。


「ナタリー……姐さんみたいなことを言うのは止めてくれ……」

「あらやぁだ。やんちゃ坊主をちょっとからかってるだけなのに……下手に反応すると余計に怪しまれるわよ」

「どーしてそういう発想になる! マジであり得ねぇ」

「だって、キレイな男にくっつくのはキレイな女より、キレイな男の方が目の保養として良いからに決まってるじゃない! 下手に妬かなくて良いし」


 再度ゴホゴホとむせつつ、涙目状態のタカトは抗議の声を上げた。ここの女性エージェントの脳内は深遠過ぎて、到底理解できそうにない。タカトはそれでもめげずに、美人エージェントに反戦を試みた。


「細かいことを抜きにして、男にしろ女にしろ、あの感情の読めない機械人間に惚れるヤツなんていんのかよ? 取り付くしまもねぇのに……」

「ほう。君はあの一匹狼相手に、色々試しているのか?」


 スパティに聞かれたタカトは、これまでのディーンとのやり取りを色々思い出し、大きくうなだれた。


 まず、セーラス内で彼の姿を見ることがあまりないのだ。何と、相方である彼とはこれまで事前に打ち合わせをしたことが一度もない。タカト自身、こめかみにあるIDチップに直接〝指令〟が来て、指示された通り現場に向かい、相手と合流してそのまま任務開始という感じだ。


 常に〝指令〟まみれなディーンである。正直、まともな会話をする暇をまだ得られていないのが現状だ。今日は彼は非番の日なので、恐らく自宅にいるのだろうが、用もないのに勤務日以外に連絡をとるのもどうかと思い、そのままなのだ。どうすれば良いのか分からず、思わず頭を抱えこみたくなる。


「まだだけど、干渉せざるを得ないだろ? 姐さんだけじゃなく、ヘムズワースさんからも言われていると言うか、頼まれていると言うか……」

「期待されちゃってるのなら仕方がないじゃない。日々の任務のみならず、相棒との距離縮めは大変だろうけど頑張って!」

「俺自身の命が掛かってるんだから、嫌でもやるしかねぇよ……」

「私達だって、これでも最初は反りが合わなくて大変だったのよ」

「……はいはい」


 以前どこかで聞いたことのある言葉に生返事をしながら、壁に掛かっている時計が目に入った途端、タカトは慌てて再び己の任務の続きに取り掛かった。


 ふと手元に置いてあるPCの画面上に浮かぶ文字を見ると、丁度午後三時。(表向きの)終業時刻まであと二時間。


(おっといけねぇ! これを早く終わらせねぇと、ガイスとの約束あるしな……!)


 細いことはさておき、目先の予定のことを考えると機嫌が一回転して一気に急上昇し、胸が小躍りしそうになった。



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