第11話 大切なもの
娘を落ち着かせるために夫がコーヒーを淹れ直している間、富子は優良の背中
をさする。こんなに動揺している優良を見るのは離婚したとき以来だ。
一見ほんわかとした雰囲気をもつ優良だが、その実、幼少期から友人関係も勉強
もそつなくこなし、問題らしい問題を起こしたことがなかった。
だから成人してから、憔悴しきった姿を二度も見ることになるとは、母親の富子であっても思いも寄らなかった。
しかもその原因が心霊現象だとは――。
富子もそれなりに長く生きているから、小学校時代に怪談が流行ったり、友人から「亡くなった親族が夢で会いに来てくれた」なんて話は耳にしたことはある。
でも富子自身がそれらしきものを見たことはないし、正直そういった現象は何らかの合理的な説明がつくものだと思っている。
まあたとえ現実的な説明がついたとしても、当の優良本人がその時恐ろしい思いをしたというのは事実なのだろうが。
娘の背中をさすりながら、なるべく優しい声で富子は尋ねる。
「それで? 紗矢はどうなったの?」
優良のショックは理解できるが、これまでの話によると、この時点ではまだ紗矢の行方は分かっていない。祖母として孫娘の紗矢のことが気になって、富子はつい口を挟んでしまう。
すると夫は呆れたように言った。
「母さん、そう急かすな。どうかなっていたら、今日紗矢に会えなかっただろう? 優良が落ち着くのを待って、続きを聞こう。」
先を急いでしまうのは富子の性分のようで、この年になってもなかなか治らず、ことあるごとに今日のように夫にやんわりと
だからいつものように「ごめんなさい。つい、ね」と富子が
やりとりには慣れ、受け入れていた。
「……もう大丈夫。続き、話すね」
富子が夫とやりとりをしている間に、淹れ直されたコーヒーを飲んでなんとか
気を取り戻してくれた優良は、再び口を開いた。
「目の前には化け物みたいな姿の女がいて、もう死ぬほど怖かったけれど気力だけで、なんとかその場にとどまったの。その時、紗矢を守ることが出来るのは、母親である私だけだったから」
両手で顔を覆った優良は、指の隙間からなるべく女の姿を見ないようにして、部屋を見渡した。
すると「こちらを見ろ」と言わんばかりに、ありえない方向に曲がった首を左右に振りながら、女がじわりじわりとこちらに近づいてくる。
同時に
その不気味さに、優良はまたもや悲鳴を上げた。
すると「まま!」と紗矢が優良を呼ぶ声が座敷の奥から聞こえた。
『紗矢? 紗矢、いるの? どこなの?』
やっぱり紗矢はここにいる。逃げることはできない――そう思った優良は、恐怖を無理やり押し殺して奇妙な体勢で前を立ちふさがる女を思い切って押しのけた。
その時女の腕に触れてしまい、その異常な冷たさに驚いた優良は、もう自分でも訳が分からない大声をあげながら、身体を思い切り動かし女を振り払う。
そうしてなんとか女の後ろへと押し進んだ優良は、座敷の奥に部屋があることに
気づいた。
同時に奥の部屋で誰かが絶叫する声が響き渡る。
(紗矢だ!)
後ろから優良に絡みつくように身体を寄せてくる女を、両腕をめちゃくちゃに振り回して突き放すと、座敷の奥の部屋に駆け込んだ。
奥の部屋には明かりはなく、優良が開け放った
『紗矢、紗矢! 大丈夫?』
すぐに優良は紗矢を抱き起こそうとするが、なぜかその身体は異常に重くて動かせない。
どういうことかと紗矢の小さな身体を改めて観察すると、顔の崩れた小さな男の子が紗矢にしがみ付いて、優良をじっと見ている。そして優良と思い切り目が合うと、「怒るのだめ」と妙に通る声で言った。
『……!』
その気味の悪さに紗矢を抱きしめる腕の力が一瞬緩んでしまったが、すぐに気を取り直した優良は改めてしっかりと紗矢を抱きしめた。
途端にそれが合図になったかのように、顔の崩れた男の子の顔が優良がいる方へと迫ってくる。ギョッとして優良が顔を強張らせると、顔が近づくにつれて腐ったような異臭が鼻についた。背後からは女も、ヒタヒタとゆっくりだが確実にこちらに近づいてくる足音がする。
優良は、もう恐怖で動けなくなりそうだった。
でも自分ひとりならともかく、紗矢まで一緒に……なんて出来ない。
不気味さに卒倒しそうになりながら、男の子の身体を紗矢から引き離そうとする。
すると男の子に触れた手にグジュとなんとも言えない冷たい触感がして、思わず優良は悲鳴を上げてしまう。たが、それでもやはりここで引くわけにはいかない。優良は悲鳴だか掛け声だか分からないような大声を上げて、渾身の力で男の子を紗矢から
引き剥がそうとした。しかし小さな体格なのに、男の子を振り払うことはできない。異常な力で紗矢にしがみついてそこから動かない。
『離して! 離してよ! 紗矢は私の大事な娘なの!』
力では到底かなわないと思い知らされた優良は、無意識のうちに説得にかかって
いた。いや、もうそれくらいしか優良に出来ることはなかったのだ。
『いらないのでしょう?』
『怒るの、ダメ』
女と男の子が、再び繰り返す。
今度はしつこい。
何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
それは優良を幾度となく苛んできた呪いの言葉でもあった。
全くの他人から保育園の先生まで――今まで自分に投げかけられてきた
それらの言葉が、場面とともに優良の脳裏に蘇る。
『仕方ないでしょう! 私は一生懸命やっているのつもりなのに、仕事も家事も育児も、うまくいかない。頑張っても、イライラして娘にあたってしまうし、虐待疑惑までかけられるし! みんなが出来ることなのに、私はできない。頑張っているのに!』
恐怖で張りつめていた心に過去の傷が突き刺さり、たまらず優良は叫んだ。
紗矢を抱きしめながら、その場にうずくまり、気づけば優良は涙を流していた。
『真実守りたいのなら、離れ、頭を下げ、他を失うことになろうとも厭わないはず』
『助けてって、言うの』
今までとは違う温度を感じる言葉に優良が頭を上げると、いつの間にか女は男の子を胸に抱き、座敷の真ん中に立っていた。
この頃には照明は完全に消えていたが、やはり化け物の類なのか身体から光を放つ二人の姿は、真っ暗闇の中でも優良の眼にもはっきりと見えた。
崩れた顔の恐ろし気な姿は影を潜め、二人はどこからみても小奇麗な女性と可愛らしい子どもの姿へと変わっている。急な変化に優良が驚き戸惑っていると、二人はにっこりと微笑んだかと思うと、スッと姿を消した。
唯一の光が失われ、後には真っ暗な離れで紗矢を抱く優良だけが残された。
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