03 花崎梓
梓さんは、大学の先輩でもありましたから。しかも文学部でした。たまに校内ですれ違うことがありました。彼女はアルバイトの時以外は、黒髪をすとんとおろしていました。鎖骨の下くらいの長さでした。
「おっ、瞬くん! お昼一緒に食べない?」
そう話しかけられたとき、梓さんは女友達と一緒に居ました。彼女らの輪に入れということなのか、と僕は身構えましたが、違いました。梓さんは彼女らに断りを入れ、僕と二人の昼食を望みました。
「学外行ってみない? オススメの店あるの」
そこは、ランチタイムだというのに人の少ない喫茶店でした。無愛想な女の子の店員が、僕と梓さんにメニューを突き出しました。ナポリタンを推している店でした。
僕も梓さんも、そのナポリタンを注文さました。ゴロゴロとウインナーが入っていて、とてもボリュームがありました。
アルバイト先のファミレスには、ナポリタンがありませんでしたし、とても美味しく頂きました。
それに、梓さんと二人っきりだったんです。異性と食事を共にするだなんて、母以外とは無いことでした。
そのとき梓さんが着ていたピンク色のブラウスのことも、僕はよく覚えています。大きさは控え目ではあるけれど、胸の膨らみを主張していました。
食べ終わる頃、いきなり梓さんがこんなことを言いました。
「瞬くん、童貞でしょう」
「ど……そうですけど」
「あははっ、赤くなんないでよ。大丈夫、お姉さんも処女だから」
梓さんはカトリック教徒でした。結婚するまでは、そうしたことをしないと決めていたそうです。過去に彼氏は何人かいたようでした。
「でも、結局浮気されて別れちゃってさ。今あたし、一人身なの」
とくん、と心臓が跳ねました。確かな期待を僕はしていました。梓さんは、その明るさから、誰にでも好かれ、そして彼女も分け隔てなく接していることはわかっていました。
しかし、こうして女友達から離れてまで、僕と一緒に過ごすことを選んでくれたことに、優越感のようなものを感じました。それが確固たるものに変わったのは、次の理由でした。
食後のホットコーヒーがきて、梓さんはタバコを取り出しました。
「えっ、吸うんですか?」
「うちの宗派は喫煙は禁止していないからね。でも、このこと、他の人には内緒だよ?」
梓さんの吸うピアニッシモの香りが漂いました。坂口さんのとはまた違う匂いでした。それに包まれていると、僕まで大人になったような気がしました。
そして、他の人には内緒という言葉。梓さんの違う一面を僕は目の当たりにしている。その事実に僕は高ぶりました。
けれども、それ以上踏み込む勇気はありませんでした。アルバイトと大学の先輩。頼れるお姉さん。それだけの関係でも僕は満足しようと思いました。
初恋の人にも、五年間想いを告げられなかったのです。それに、告げたところで二人でどうありたいのか、その先の想像ができずにいました。
ともかく、その当時の僕には、恋人なんていう存在は僕には手の届かないものだと思っていました。家族を作る、だなんてことも、遠い世界の話だと感じていました。
「瞬くんはさ、好きな子いるの?」
「今は……いないです」
「昔は?」
僕は中学、高校時代の淡い恋愛のことを白状させられました。彼女の名前や、容姿までも、こと細かく話しました。梓さんは満足したように口角を上げました。
「いやぁ、いいね。そういう恋バナ」
「そうですか?」
僕の話したことなんて、とてもつまらかったはず。何せ、全く動きが無かったんですから。遠くからバレないように見つめている、ただそれだけの恋でした。
今度は梓さんのことを聞こうか、だなんて、とても大それたことはできませんでした。聞いたところで、悲しくなることは目に見えていましたし。
それに、時間が無かったんです。昼からも講義がありました。梓さんがタバコを二本吸い終えると、そこでお開きになりました。
「ありがとう、瞬くん。また一緒に話そうね」
梓さんと別れた後、講義の最中、僕は彼女の姿を思い返していました。タバコを含むあの口元。真正面から見たそれは、僕の脳裏にしっかりと焼き付いていました。
僕はそれまで、真面目に講義の内容を聞く学生でした。高校までも、そうでしたしね。ところが、そのとき全くといっていいほど、教授の言葉が耳に入ってこなかったんです。
こんな経験は初めてでした。初恋のあの子のときにすら無かった感覚でした。僕はハッキリと気付きました。僕は梓さんを意識していると。
それを自覚してから、僕は極力アルバイトのときは梓さんに近付きませんでした。わからないことがあれば他の人に聞きました。
だって、バレたくなかったんです。一人目の子と同じく、この想いは密かに孤独に留めておこうと考えていました。
ねえ、記者さん。話はいよいよ、「本当の始まり」のことに移っていきますよ。ご準備は、よろしいですか。
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