第30話 身近な情報源

「ただいま」


 家に戻るなり、荷物を部屋に放り投げる。

 それからベッドの上へと倒れこむようにして寝転んでいた。

 なぜかものすごく気分が落ちていた。もやもやした気持ちが晴れずにいる。それは彼女に新しい彼氏がいたからなのだろうか。

 そもそも僕は本当に好きな人のことを忘れる病気なのだろうか。先生に聞いてみるべきだろうか。そこまで考えて、ふと思いつく。いや、そもそも僕が本当に病気なのだとしたら、先生じゃなくても知っている人はいるはずだ。

 僕は思い立って立ち上がる。

 隣の部屋をノックすると、返事もきかずに扉を開ける。


「あ、もう。お兄ちゃん。ノックするのはいいけど、ちゃんと返事してからドアをあけてよね」


 すぐに妹のかなみの声が響く。勉強をしていたのか、机に向かっていたようだ。


「別にいいだろ。家族なんだし」

「ま、いいけど。それで何。どうしたの?」


 かなみは珍しく僕が部屋にきたことに訝しんでいるようだった。確かにかなみの方から僕の部屋にくることは多いけれど、僕がかなみの部屋にいくことはあまりない。


「ちょっとききたいことがあるんだけど」

「何?」


 かなみはきょとんとした様子で僕のことを見つめていた。


「僕の病気のことを教えて欲しい」

「え?」


 想像もしていなかったのか、かなみは鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべていた。


「急になにいってるの、お兄ちゃん」


 あからさまに挙動不審になりながらも、かなみは僕から顔をそらす。やっぱりかなみは何かを知っているらしい。


「僕の病気は好きな人のことを忘れてしまう病気なのか?」


 考えてみると家族も僕に対しては変に気を遣っていたような気がする。

 ストレス性適応障害。よくわからない病気だ。体に問題はないのに、サッカーをしてはいけないというのもよくわからない。ストレスのせいだったら、もうそれなりに休んでいるので、それほどあるとも思えない。むしろサッカーが出来ないことこそがストレスになっている。

 ただ学の言う好きな人のことを忘れてしまう病気というのも、何か違うような気がする。それならサッカーが出来ないこととは関係がない。

 何かを隠されている。そんな気がしていた。

 たぶん両親にきいてもうまくはぐらかされてしまうだろう。でもかなみなら、少し強く当たれば白状するんじゃないだろうか。


「ええっと、何言っているんだかわからないかなぁ」


 そんな目星を知ってか知らずか、あからさまにあたふたとした様子で目を白黒とさせていた。かなみは正直隠し事はうまくない。何かを隠していることは明らかだった。

 学も何かを知ってはいるのだろう。でもたぶん核心的な何かは知らないのだとは思う。そもそも僕の家族とさほど接点がある訳でもない。どこからか噂のようなものを聴いたのか、それとも実際に僕が「好きな人のことを忘れる」ところを見てきたのかもしれない。


「本当は知っているんだろ。僕の病気のこと。教えてほしい」

「え、えーっと」

「お願いだ。思い出したいんだ」


 僕は真剣にかなみに向けて頭を下げる。

 こんな風に妹に頭を下げたのは、これが初めてかもしれない。何なら土下座したっていい。僕の中のもやもやを晴らすことができるなら、プライドなんて大したことはない。


「もう。お兄ちゃんやめてよ。知らないって」

「僕はもう何かを思い出しはじめている。でも頭の中がもやもやとして、思い出しきれないんだ。このままじゃおかしくなってしまいそうなんだよ。なぁ、かなみ。だから教えてほしい。僕は好きな人のことを忘れる病気なのか。好きな人のことを忘れてしまっているのか。僕の中に知らないはずの髪の長い女の子の記憶があるんだ。それは僕の妄想なのか。知りたいんだ。頼む」


 真剣なまなざしをかなみへと向ける。

 かなみはしばらくはどうしたらいいのかわからずに、きょろきょろと辺りを見回していたが、やがて観念したかのように大きく息を吐き出していた。


「はぁ……。わかった。でもね。私だってほとんど知らないんだよ。お父さんお母さんは話してくれないし。だからあんまり細かいことには答えられないからね」


 かなみはもういちどため息をもらして、それから僕の方へと視線を合わせる。


「あのね。お兄ちゃんの病気は、好きな人のことを忘れてしまう病気じゃない。少し違うんだ。あのね。好忘症といって、一番好きなもののことを忘れてしまう病気なんだ」

「一番好きなものを忘れる?」


 僕はかなみの言葉を思わず繰り返していた。

 それって、どういうことなんだろうか。


「あのね。お兄ちゃんはサッカーが好きでしょ」

「あ、ああ。そうだね。小さい頃からずっとやってきたしね」

「うん。でもね。この間までお兄ちゃんはサッカーのことを忘れていたんだ」

「は?」


 かなみの言葉が信じられなかった。僕がサッカーを忘れる。何を言っているんだと思う。何年も続けていた競技を忘れるだなんてあり得ないと思う。


「でもね。忘れてたんだよ。だからお兄ちゃんはサッカーをしちゃだめだってことになってるの。好きなサッカーをしたら、もういちど好きになる。そうすると、また忘れてしまうの。それは頭に強い衝撃を残しちゃうからだめなんだって」


 かなみの言う事は、まだ頭の中に入ってきていなかった。

 今の僕はサッカーのことを忘れてなんかいない。もちろんプレーしていなかったから、多少は技術が衰えてはいるだろう。でも好きな気持ちは前と変わってはいないと思う。


「でも僕はサッカーのことを忘れてなんていないよ。ちゃんと覚えている」


 僕の言葉にかなみは大きくため息を漏らす。何か思うところがあったのかもしれない。すぐにその言葉につなげるように、かなみは話し続ける。


「それね。思ってもいなかったことが起きたのは。この病気はね。一番好きなものを忘れてしまう病気なの。だからお兄ちゃんは一番好きなサッカーのことを忘れてしまったの。だけど」


 かなみは少しためらいを見せるけれど、それからすぐに言葉を続けていた。

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