第22話 生きる屍のように
次の日。ボクは目を覚ます。お母さんはもう仕事にいってしまったみたいだ。
お母さんとの関係も、いつかは癒えるのだろうか。今まではたけるくんがいてくれたなら、お母さんとのことも気にならなかった。
たけるくんが記憶を失わなければ、きっとたけるくんは解決しようとして、がんばってくれただろうと思う。
だけどたけるくんはボクのことを忘れてしまった。先生からはたけるくんに刺激をするな、つまり距離をとれと暗に言われてしまった。
ボクはどうしたらいいのだろう。
お母さんとの関係についてはボクの問題だから、それはいい。ボクが自分で何とかすべき問題だ。
だけどたけるくんとの関係はどう改善していけばいいのだろうか。
以前にこの病気が治ったケースについて調べてみたことはあったのだけど、特に特徴のようなものは見受けられなかった。
一つは忘れてしまった大好きなものが、壊されようとしていたときだった。その人は絵を描くことが好きだったらしい。でもある時に忘れてしまった。絵を描けなくなって、というよりも正確には絵のことを忘れたから、必然的に描かなくなって。
記憶を刺激するから絵画の道具やかつて描いた絵画をしまいこんでいて。
だけどかつて自分で描いた好きな人の絵。それがひょんなことで破られようとしているところをみてしまって、その瞬間に思い出したらしい。好きなものが傷つけられるという強い刺激を受けたことで、思い出したケースだ。
ただそういう強い刺激を与えたら、必ず思い出すという訳でもないみたいで、逆にそのせいで完全に忘れてしまって思い出さなくなったこともあるみたいだった。
また完全に遮断してしまって、何年も刺激を与えずにいたら、急に思い出したケースもあったみたいだった。脳内の崩れていたバランスが時間をかけることで回復したケースなのだろう。
何度も忘れたり思い出したりを繰り返した結果として、回復したケースもあるようだった。明確な理由はなかったようだけど、たまたま刺激のバランスが良かったのかもしれない。実のところボクはこのパターンに賭けていたといってもいい。
何度も何度もボクのことを好きになってくれたら、いつかはボクのことを完全に思い出してくれるんじゃないかって、ずっと期待していた。
だけどそれは結局叶わなかった。もしかしたら逆に刺激のせいで、ボクのことを完全に忘れる方向に近づいていたのかもしれない。そういう意味では、先生が止めてくれたことが、むしろボクにとって救いになったのかもしれない。
今回たけるくんはボクとのライムの履歴を見たのに、ボクのことを思い出さなかった。そして忘れなかった。
実は少し前にたけるくんのお母さんから話をきいていた。実はボクとのライムの履歴をみたあとに忘れたこともあったみたいだった。ある時にたけるくんが気を失って倒れたことがあって、そのかたわらに転がっていたスマホの画面に映されていたのが、ボクとのライムの履歴だったことがあったらしい。
ライムの履歴の刺激は、たけるくんにとって強すぎたようだ。それでボクへの気持ちを取り戻してしまったのだろう。
だからたけるくんのお母さんは履歴を消してしまおうか迷ったみたいだったけれど、もしかしたらこの履歴が病気を治すきっかけになるかもしれないと思って消すことはしなかったときいていた。
そんな話を聞いていたから、ボクはたけるくんが送ってきたライムのメッセージをみたときに、本当に驚いた。たけるくんはボクのことを思い出していない。ライムの履歴をみたのに記憶を取り戻しても、忘れてもいないと。
それが良いことなのか、悪いことだったのかはボクには判断がつかなかった。
ボクがメッセージを返すことでたけるくんに何か起きてしまうかもしれない。そう思って始めは既読をつけることすら出来なかった。
それでも意を決して送ったメッセージは、だけどたけるくんには届かなかった。いやもちろんメッセージそのものはたけるくんのスマホには届いていた。でもたけるくんは忘れなかった。思い出さなかった。
そのことがうれしかった。忘れないでいてくれたから。
だけどそのことがかなしかった。ボクへの気持ちを取り戻さなかったから。
このことをボクはどう捉えればいいのかわからなかった。
離れているのか、近づいているのか。たけるくんがどこか遠い場所にいこうとしているかのようにも感じて苦しかった。でもボクのことを知ろうとしてくれている。ボクを思いだそうとしてくれている。そのことが嬉しくてたまらなかった。
でもやっぱりそれが良いことなのか、悪いことなのかもわからなくて。ボクは何をすればいいのかもわからなくて、何もかも中途半端なまま、たけるくんを病院で待つことにしていた。
先生が何かいってくれるんじゃないかと、たけるくんを救ってくれるんじゃないかと。そう期待していたのは確かだった。
でも先生がくれた言葉は、ボクの期待とは正反対の答えだった。
先生はライムの履歴を消してしまった。そして刺激を与えない方がいいと告げた。
もしかしたらたけるくんはボクのことを完全に忘れる方向に進んでいたのかもしれない。
それだけは嫌だった。ボクのことを忘れていても、知らなくてもいい。でもたけるくんの心の中から完全に消えてしまうことだけは、ボクには耐えられそうにない。
ボクはもうこれ以上たけるくんに触れるべきではないのだろうか。答えは出せない。でも先生はそう望んでいる。
実際のところたけるくんの人生からボクがいなくなったところで、たけるくんにとってそれほど影響はないだろう。ならボクがわがままを言うのはやめて、たけるくんのために身を引くべきだろうか。
たぶんそうなのだろう。それがベストなのだろう。
それはわかっている。わかっているのに、ボクはぼろぼろと涙をこぼしていた。
「なんで涙なんて出るんだよ。ボクが泣いたって、何も解決になんかならないのに」
誰にいうでもなく、ひとりごちる。
ボク以外に誰もいないボクの部屋は、どこか異世界に飛ばされたようにも感じていて、自分の部屋だというのに居心地が悪くて仕方なかった。
ベッドの片隅においてある大きなくまのぬいぐるみを捕まえて、強く抱きしめてみる。
もうずいぶんとぼろぼろになってしまった彼は、でもボクの心の支えの一つだった。このぬいぐるみはボクが生まれた時に、本当のお父さんが買ってきてくれたものらしい。
ボクにはお父さんの記憶はない。
でもこの子は愛されていた証拠なのだと思う。
たけるくんと出会うまでは、彼がボクの世界のすべてだった。
お母さんには何も言えなかったから、ボクはいつも彼に話をしていた。だから彼だけがボクのすべてを知っている。
そんな彼には今もたけるくんのことを話して聴かせていた。
たけるくんが病気になってもボクが壊れなかったのは、彼のおかげだと言ってもいい。
「ねえ、テディ。ボクはどうするべきなのかな。たけるくんのこと忘れるべきなのかな」
もちろんテディは何も答えない。彼はくまのぬいぐるみなのだから、話が出来る訳でもないし、残念ながらボクの頭は彼の答えを想像できるほど、高性能ではなかった。
何も話さない相方に、でもボクはぎゅっと抱きしめる。
「忘れたくないよ。離れたくないよ。ねぇ。テディ。ボクはわがままなのかな。ボクがいなくなれば、すべてうまくいくのかな。ねぇ。どうしたらいいのかな。わからない。わからないよ。でもたけるくんが、好きなんだ」
後から冷静になって考えればぼろぼろになった彼に頼らずにはいられないほどに、ボクは追い詰められていたのかもしれない。
だけどこの時のボクは、ただ話し続けることしか出来なかった。
それでも朝の時間は無情にも過ぎていく。これ以上にベッドの上でうだうだとしている訳にもいかなかった。
ただでさえ心配をかけてしまっているのだから、お母さんにはこれ以上に心配をかけたくない。だから学校を休んだりもできない。
顔を合わせない日々が続いているけれど、それでもボクはお母さんのことが好きだと思う。
辛くないといえば嘘になる。でもお母さんのことはきっと時間とともに、少しずつ解決していくのだと信じている。
だけどたけるくんとのことは。
どうしたらいいのかわからないまま、ボクは泣きながら、それでも着替えのためパジャマのボタンを外し始める。
もう切り替えなきゃ。
顔をあらって、まだぼんやりとした頭を強制的に働かせる。
制服にそでを通して。涙をぬぐう。
たけるくんのことは何か解決手段がきっとある。そう心に言い聞かせながら、ボクはただ生きる屍のようにして、学校へと向かっていた。
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