はじめての御休憩

遮光カーテンの隙間から月明かりが差し込んでいるのを見ると今晩は相当綺麗な満月なんだろうと思う。


なんてことをぼんやり考えていると、セックスを終えて余韻に浸り終えたマヌルネコの後輩が、物言いたげにこちらに背を向けたまま擦り寄ってきた。


学部も学年も違うけど、声をかけてきたからたまに飯食ったりしてたら、


「部屋に遊びに行っていいですか」


と大胆にも攻めてきたので、誰とでも寝る俺の評判は有名だし知ってるはずだから、今誰とも付き合う気はないことは伝えた上で招いたわけだけど。


「あの、せんぱい。」


…この響き。女性が出すこういう響きの声からは大抵面倒の香りがしてくるんだ。


「うん?」


「うしろから、ぎゅってだっこしてくれませんか?」


「…いいよ。」


肩に腕を回してゆっくりとこちら側に体を抱き寄せてやると、それに合わせて彼女は深いうっとりとした息を深く、吐き出す。


体も心も満たされてるところ申し訳ないんだけど、俺はセックスして満足した後に汗ばんだ身体を抱きしめてべたべたした毛を絡ませるのは正直億劫なんだよなぁ。行為中は気にしないけど。


「せんぱいの心臓の音、安心します。」


…あー、やばいやばい、危険信号。


この感じだと彼女の中でもうロマンスが始まっちゃってるなぁ。


ウサギやネコの女の子は顔立ちが幼いし、かわいくてスタイルもいいから男たちには子供の頃から言い寄られるし、恋人を選ぶ側であることが普通。


だからこそ、この歳になって初めて男を選ぶ側じゃなく、男に選ばれる側に回った女の子なんかにはこういう乙女チックな勘違いをする現象がしばしば起こる。


「悪いんだけどさ、髪、触らないでくれる?」


少しだけ突き放すような言葉を放つと、びくりとした緊張が彼女に走り、少しだけ体を丸める。


「いや、君が悪いわけじゃないんだけど、無意識に爪でひっかけちゃう子とか多くてさ。この前もひっかけられたしね。」


肌を重ね合わせた相手に対して他の女の話をするのはもちろんマナー違反だけど、恋慕の情なんて余計な火は早めに消しておくに限る。


「もう少し休んだら後で駅まで送ってくよ。」


「…はい。」


別に彼女は何も悪くないし、十分魅力的だと思うけど今の俺は色んな女の子と外で遊んだり、セックスをしたりするのが好きなだけだから身動きが取れなくなるほどべたべたとした深い関係は持ちたくないってだけだ。


「やっぱりそうなんですね。」


ん?


後ろを向いたまま彼女は呟く。


泣いてしまっただろうか?


「先輩って、ほのかにバニラのいい香りがしますよね。」


「そう?」


「いつも着てる服からもいい香りがしますしね。タンスに石鹸とか入れてるんじゃないですか?」


「まぁ、ね。」


ばぁちゃんから教わったんだけどね。


「ベランダでバジルとかお野菜を育ててるんですね。1人で面倒見てるんですか?」


「あー、まぁ、」


あ、これやべぇフェイズ入った。


金城カナシロ先輩。」


「どうしたん?あ、シャワー浴びたかったら…」


「部屋も掃除がされてて、服とかちゃんと畳んでて、お手製のアクアパッツァ作ってくれた時のお皿も百均のやつじゃなくて、バジルとかプチトマトとか、ルッコラなんか彩りで乗ってて、すごく美味しかったし、嬉しかったです。」


「そんくらいならまぁ、」


「でも先輩の部屋に入った時思ったんですけど、そんな几帳面な先輩がソファーベッドをソファーに戻さずに、毛布も畳まずに出かけたりするるんですね?」


「………まぁそういう日もあるには、」


「すごく、バニラ以外の爽やかないい香りがする青い髪の毛も落ちてますね。金木犀ですか?」


深く、深く息を吸う彼女。昂る気持ちを抑えるものじゃない、敵を見極め、索敵するための慎重な猜疑の呼吸。


「分かった、事情の」


「初めて見た時から先輩のヘアスタイルとか、大きめのピアスとか、格安のメガネでも似合っちゃうとことか、私の顔を半分包めるくらい大きい手とかも好きでした。先輩の、奔放だって噂ももちろん聞いてたけど、それでもいいって思ったんです。」


「説明を…」


「先輩?」


先程まで俺の体の下で悶えていた潤んだ目の後輩はそこにはもういない。


いたのは、年下ながらちろちろと暗く嫉妬に燃える瞳をした橋姫の如き形相の鬼女。


「先輩。部屋に行ってもいいですかと言ったのは私です。好きだって気持ちも抑えて、たとえベッドの中だけでもあたしのことを見てくれるなら、今日だけあたしのこと見てくれるならそれでよかったんです。でも先輩?」


俺を問いつめるうちにいつの間にか馬乗りになりマウントポジションを押えた後輩はきり、り、り、と爪を俺の腹に薄く滑らせる。


「別の女抱いたその日の内に私を抱くとか、さすがにないっしょ?」

_____


顔に走ったミミズ脹れが歩く度にヒリヒリと痛み、戒めだとばかりに熱を持った感覚がする。


「それじゃ、またいつでも遊びにおいでよ。」


多分この感じだともう来ない気もするけど。


改札に消えていったぷりぷり怒る彼女を見送ったときの時刻はまだ22時で、顔が痛いしなんとなく帰って眠る気にもなれなかったから繁華街へ足を運ぶことにした。


シーシャでも行くか。あの人に会いに行こう。


繁華街に入って飲み屋が中心に立ち並ぶエリアを歩いていると、どこからか女の叫び声が聞こえて、遠ざかっていく。


多分向こうはキャバとかホストのある方面だから、寂しい女の子が失恋したかホストにいいようにされたかのどっちかかな?


ホストやキャバ嬢なんかすげぇよな、あんな叫びの1つや2つ簡単に包み込んでしまうんだろうし。


あなただけだと執着する気持ちも、焦がれられる気持ちも俺は到底受け止められそうにない。


空を見上げるとさっき気にかけていたはずの月は、高層ビルの光と街のネオンに阻まれてなんだか遠くうすぼけた感じがした。


冷たさを増した夜風が頬の傷を撫でることでなんだかしみる。


月に抱いた情緒や感傷は記憶の中の「最低!」という後輩の言葉と振るわれた爪の記憶によってかき消された。


なんだか寒いや。早いとこ店に入ろう。


____


「1人。120分。喫煙席。チョコミントでCBDなし。アイスティー。」


「あーあーあー。まぁた酷いことやられてるねぇ、サクちゃん。」


「うっせ。早く案内しろよ。」


「顔とちんちん太い以外はいいとこなしのご新規様1名ご来店でーす。」


「常連だろ。」


ケラケラ笑って俺をからかいながら席へと案内するこの髪や顔周りの毛に青くインナーを入れた女ボルゾイはハヤテさんという。


元々は同じ大学に通っていた2つ上の先輩で、少しだけバンド組んでたりもしたけどある日突然、夏休みのままがいいというロックな理由で退学届を出し、紆余曲折を経て今はシーシャバーで働くなかなかにドタマくらってる方だ。


「どうせいつものやつだしテイスティングも作り直しもしないからあと勝手にやっててね。」


ドカドカとスタンドに火をつけながら身勝手な職務放棄します宣告。


「あんたこの仕事で飯食ってんじゃねぇのかよ。」


「やーよ。サクちゃんいっつもチョコミントじゃん、アタシがチョコミント嫌いなの知ってるでしょ?そんで、今日はどんな子怒らせたわけ?」


「サクちゃん呼びもやめろ。」


大学の友人たちは俺の事をカナシロと呼ぶ、というか呼ばせている。


サクラという本名があるけど女の子みたいと昔はからかわれたから呼ばれるのは今でも苦手意識があるんだよな。


それでもどうしてもこの人だけはサクラ君と読んできたからせめてサクちゃんとかにしてくださいとは言ったけど、それも別に気に入ってるわけじゃない。


まぁ、呼ぶのはこの人だけなんだけど。


「っつーかハヤテさん、俺の部屋好きに使うのはいいけど出る時ちゃんと片付けろって言ったでしょ。あとパジャマ脱いで全裸で毛布包まるのも禁止だってな。」


「え?あー。顔面を地下鉄の路線図みたいに走ってるその爪痕はそれが理由?アハハハハ!ごめんごめん。」


チャッカマンを着火させたまま目を閉じて笑うもんだから客側の安全度は非常によろしくない。


「っぶねぇな、せめてあたし以外の女の影も匂いもさせるなよって怒られたっつーの。」


「今朝も私と2回したのに匂いもさせるなはいくらなんでも無理でしょ。女って女の匂いに敏感なんだから。アタシだけが悪いみたいに言わないでよねぇ。」


「ぐぅ」


「ほら、おねーさんは仕事なんだから吸ってな。」


用意を終えたハヤテさんが俺の口に無造作にホースを突っ込んでパタパタとバックヤードに歩いていく。


ソファーに深く腰かけて、ホースから水蒸気を口に入れ込み肺に貯めると吐き出す瞬間にミントのスッキリした香りが気道を突きぬけ、チョコの甘い香りが胸に染みる。


かれこれハヤテさんとは2年の付き合いになるけど、恋人同士と言われるかと、別に違う。セフレでもない気がする。


当時サークルで同じバンドだった彼女と少しだけ付き合ってたこともあったけど、この人が退学した時にそのまま別れたし、同時期それなりにモテ始めた俺にもすぐ別の彼女ができて、なんということはなく関係は終わった。


この人もこの人でバ先の先輩やらバンドマンと付き合ったりしたこともあったそうだ。


そんな中で1年半くらい前にシーシャと煙草を覚えた俺はここで働くハヤテさんと再会し、仕事上がりの彼女と酒を飲みに行って、懐かしさやらなんやらそのままの勢いでセックスをした。


それからというもの、別にお互いセフレはいたけどそいつらと関係を切るわけでもなく、たまに外へ遊びに行ったり、気まぐれに俺の部屋に訪れてきてご飯を食べたり、セックスをするだけ。


彼女に彼氏ができたらまた部屋から離れて、別れた頃にまた俺の部屋に寄り付く。


別に俺もそれについてどうこう言わないし、向こうも俺が誰とでも寝ることに関して何も言わない、お互いが楽ってだけの関係。


「ふー、チョコミントの下品な香りがするねぇ。」


「ミントを下品な香りなんて表現するのは三千世界探してもハヤテさんだけでしょ。」


ひと段落着いたハヤテさんがまたこちらに戻ってくる。


「そうだ、サクちゃん、明日空いてる?」


「まぁ、講義もないんで暇っちゃ暇ですけど」


「いやぁブクロにね、新しいラブホができたらしいんだけどそこが面白い部屋ばっからしいのと、ご飯美味しいらしいからショッピングついでに誰かと行こうかなーって。」


「東京か…まぁいいすけど。久しぶりに高円寺行きたいし。」


「じゃ、明日は久しぶりにおねぇさんと遊びに行くとしますか。今日泊まるから上がりまでいてよ。」


「ようがす。」


_____


それからというものハヤテさんを24時まで待った俺は2人で部屋に帰って、早起きに備えて普通にベッドに入った。


別に泊まる度にセックスするわけじゃないし、今日もしたし、俺も1日何回もするのは疲れるし、ハヤテさんだって仕事終わりなんだからベッドに2人寝ててもなんのこともない。


ただ、ハヤテさんは俺の首筋に鼻を近づけると


「アタシが教えたやつ、まだ続けてるんだ。」


そう言ってすうすうと寝息を立て始めた。


俺もなんだかよく分からない気持ちで彼女の寝息を受けているうちに眠りについた。


_____


朝8時頃に起きた俺たちはシャワーや着替え、メイクを済ませて駅へと向かう。


「お昼どうしよっか。」


「今日行くラブホって何か美味い飯とかあるんすか?」


なんて話しながら歩いていると、後ろから謎の叫び声が近づいてきた。


振り返ってみると髪もボサボサ足はつっかけサンダル、波乱そのものが服を着てるようなポメラニアンの女が封筒を握りしめ泣き叫びながら疾走し、脇目も振らず繁華街へ走っていくのが見えた。


「…なんだろねあれ?」


「さあ?」


なんかあの女どっかで見た事あるような気もしたけど、まぁポメラニアンの女なんて取り立てて珍しくもないか。


「あ、そうそうハニートーストとかスイーツが美味しいらしくてさぁ。」


「じゃ、アフタヌーンティー枠ってことで。昼は…一蘭とかでいいんじゃないですかね。」


「ありやね。」


話をしながら、どうにもさっきのダッシュしたポメ女のことが思い浮かぶ。


なんか見たことある気がすんだけどなぁ?


____


11時頃池袋に着いてから一蘭のラーメンを食べて北口近くのホテル街にある蓮花にチェック。


一蘭の店員に比べてフロントの女が大層な喧嘩腰で応対してきたのでムカついたが、俺らみたいに若い奴らが真っ昼間からサカりに来るわけだから歪むのも無理はないのか?


とにもかくにも3時間休憩コースでデラックスルームにチェックインすると、選んだ部屋はアジア風の装いでうちのソファーベッドとは比べるまでもない天蓋付きの見事な部屋だった。


「うひゃー!すご!何この壁の意味無さげな飾り!新しいとこはやっぱいいねぇ!」


俺もラブホテルは何回か行ったことあるけどここまで豪華な作りは初めてだし、やっぱり東京は違ぇやと言う感動も生まれる。


ハヤテさんはカバンも置かないまま部屋を歩き回って観察していて、あんまりこういう純粋にはしゃいだ姿を見た事がないからか新鮮だった。


そういえば、ハヤテさんとホテルデートしたことはなかったな。


テンションが上がったハヤテさんがボフリと音を立てながらベッドへダイブを決め込み、ワンピースの裾がめくれて白い脚が太ももまで露わになる。


なんとなくその姿に今までない欲情を覚えてしまって、気がつくとシャワーも浴びないまま覆いかぶさっていた。


_____


あれから結局ハニートーストを食べることもなく2時間半たっぷり盛りあがってしまい、いそいそと身支度を済ませて部屋を出た。


「なぁにぃ、今日のサクちゃん。押し倒したと思ったらメガネも放り投げて顔掴んできてちゅーしてすぐおっ始めちゃってさぁ。」


「やー、雰囲気に当てられたって言うか…ハヤテさんだってピンクのジャグジーでテンション上がってめちゃめちゃスイッチ入ってたでしょ。」


エレベーターへと向かう廊下でも会話が弾む。


ピロートークがこんな所まで長引くのも初めてだ。


そうこうしている内にエレベーターが到着する。


「部屋綺麗で面白かったよねー。」


「でもフロント態度わりぃわ。次は無いかな。」


エレベーターの中には先客がいるみたいだ。


一旦譲って…ん?


どこか既視感のある香り。今日もこんな感じの__


もしかしてと思った瞬間、目の前を白い小さなパーカーが舞い、ついついそれに目がいってしまったと思ったその時。


パーカーが目にかかり視界を封じられたグリズリーの眉間をスクールバッグが思いっきりぶっ叩いた。


は?


グリズリーは悲鳴をあげてエレベーター内で顔を押さえ悶える。


足元をすりぬける存在を確認し、左を向くと何故か俺の地元横浜の女子校の制服を着た白いポメラニアンが非常階段へ走り去っていくのが見えた。


「あ、あの、おじさんだいじょぶ?」


ハヤテさんが一応うずくまったままのグリズリーに声をかけるも、彼は顔にかかったパーカーを放すことなくとても愛おしそうに、恍惚とした声で


「あぁ、照れてしまったんだね、プチエンジェル。私は愚かだ。私の原罪!欲が!若き彼女をこの箱庭から追いやってしまった…!でも君は飛び去ってもなお天使!これほどまでに愛香る天使の落し物…これが…羽根なのだね?」


パーカーを愛おしそうに顔に押し付けながらオッサンは膝を地につけそのまま掲げる。


「オジさん、アタシたち、エレベーター使いたいんだ…」


「…ああ…いいとも…!…いいとも…!」


匂いフェチ、香り、香り…


香り。あの必死こいたダッシュ。


思い出した。


同じ学部の女子じゃんアイツ。



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