人事のマツモト

 ユウイチという社員がいた。


 どんな仕事でも任せておけば安心だった。ミスをしない。判断が早く、調整力が高く、何より責任感がある。面倒な案件ほど、自ら志願して処理していく。いわゆる「できる男」だ。職場の空気を読む力もあり、上司にも部下にも好かれた。


 社内の人間は皆、ユウイチを頼りにしていた。だが、そんなユウイチに、唯一、不満を抱いていた男がいた。


 人事部のマツモトだった。


 マツモトは長年、人事畑を歩いてきた。人を見極め、最適な配置を考えるのが仕事。彼は信じていた。ユウイチのようなタイプこそ、最前線の営業職でこそ真価を発揮する、と。


「このままバックオフィスに置いておくのは、会社としても損だろう」


 そうマツモトは考えていた。


 営業は、花形だ。会社の利益を生み出す最前線。人と人との駆け引き、信頼の構築、目標の達成――厳しいが、その分だけ栄光がある。社内での出世ルートだって営業を経た方が早い。


 ユウイチのような有能な人間を、どうしても営業に出したい。


 だが当の本人は、首を縦に振らなかった。


「自分は、裏方の方が向いていますから」


 そう言って、笑顔で辞退する。マツモトが何度打診しても、答えは変わらなかった。


 やがてマツモトは、無理やり異動させようとも考えた。だがもし、そんなことでユウイチに辞められでもしたら、それこそ大問題だ。


 ユウイチの存在は、もはや会社の潤滑油であり、屋台骨だった。彼の辞職は、部署にとってだけでなく、全社的な痛手となる。


 そこでマツモトは、方針を変えた。


「営業職を、魅力的にしてしまえばいい」


 社内で「営業黄金化計画」と名付けたその改革では、手厚い手当、業績連動のインセンティブ、リモート可、直行直帰OK、営業日報はAI入力。さらには、営業用社用車にはミニ冷蔵庫を搭載。


「冷えたお茶が飲める営業車」――そんな謎の価値で社員の心を掴んだ。


 気づけば、営業は社内で最も人気のある部署になっていた。離職率はほぼゼロ。売上は右肩上がり。世間からも「最も働きやすい営業部を持つ会社」として称賛されるまでになった。


 会社説明会では、学生たちが口をそろえて言う。


「御社の営業に憧れています!」


 マツモトの手腕は高く評価された。ついには人事部門のトップに就任した。今では誰も、彼の決定に逆らえない。多少の異動や配置換えにも文句を言う社員はほとんどいない。


 そんなある日。


「少し、お時間をいただけますか」


 とユウイチが訪ねてきた。


 会議室で二人きりになったとき、ユウイチは静かに言った。


「営業部に異動させていただきたいのですが」


 マツモトは、ぽかんとした。頭が一瞬、真っ白になった。


「……え?」


「営業部です。あれだけ整備されて、いま社内で最も勢いがあって。あんな環境で働いてみたいと思うようになりました」


 マツモトは無言のまま、しばらく天井を見つめた。そして深く、息を吐いた。


「無理だ」


 思わず即答していた。


 ユウイチは、目を丸くする。


「えっ、どうしてですか。あんなに営業を勧めてくださっていたのに……!」


「お前が裏方にいるから、営業がうまく回ってるんだ!」


 マツモトはつい、声を荒げた。


「営業支援のツール整備、社内調整、稟議のショートカット、スケジュールの自動最適化……あれ全部、君がやってるんだよ!? お前がいないと、営業部は明日からただのサバンナだ!!」


「でも……」


「営業に出たら、君が今までやってた裏方の仕事を、誰がやるんだ!? 私か!? 営業部が全員、冷蔵庫付きの車で迷子になるぞ!?」


 ユウイチは、苦笑いを浮かべた。


「……それは困りますね」


「困るんだよ!!」


「じゃあ、営業に行くのは……」


「定年後にしてくれ!!」


「その頃には営業車が空を飛んでそうですね」


「そのときも冷蔵庫はつけよう。……だれでも使い方がわかる方法でな」

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