さようならの消えた世界

「おじいちゃん、また新しいアバターになってる! 今度は忍者?」


「老骨にはこれが一番しっくりくるんだよ。さすがにドラゴンの姿は腰に悪くてな」


 仮想空間メモリアの公園エリアで、私はまた祖父と再会する。現実では十年前に他界したはずの祖父は、今日も変わらず若々しい姿で、というより年々ふざけた格好になって、私を迎えてくれる。


「リアルより仮想のほうが自由でいいな。君も早くこっちに来なさい。年寄りだけじゃつまらんよ」


 祖父がそう言うのは、冗談ではない。多くの人が実際に“こっち”に来ているのだ。つまり、現実の身体を捨てて。


 全ては《メモリア転生サービス》の開始から始まった。

 最初は末期患者や高齢者の希望者のみを対象に、死後の意識を仮想空間に移植するものだった。政府は倫理的な問題を懸念したが、利用者の「ありがとう」の声と、遺族の「また会えた」の感動がそのすべてを押し流した。


 誰かが死んでも、二週間後には《メモリア》でログインしてくる。はじめは違和感があった。「あれ? 死んだんじゃなかったっけ?」と。でも数回会話を交わせば、あっという間に違和感など忘れた。


 そして、気づけば誰も悲しまなくなった。


「死別」という言葉は、もはや死語になった。


 代わりに流行ったのは「転籍」だ。

「おばあちゃん、昨日メモリアに転籍したって」「ああ、それならよかったねえ」


 そんな会話が居酒屋で飛び交うようになった。


 私の恋人も、半年前に《メモリア》へ転籍した。会社を辞め、実家を整理し、笑顔で言ったのだ。


「私、もうこっちにいたくないの。あっちで暮らすのが楽しみなの。だって、死んだお母さんにも会えるし。あなたも、来たくなったら来ていいからね」


 あれが、現実での最後の彼女だった。


 でも、《メモリア》で彼女は相変わらずだった。

 髪型も、声も、仕草も。記憶も感情もそのまま。

「寂しかった?」なんて軽口を叩いて、ラーメン屋エリアで一緒にVRラーメンを啜る。味までリアルに再現されるだけでなく、懐かしさで心が満たされる。


 でも、ふと、思うのだ。

 あれは本当に、彼女なのか?

 彼女の“意識のコピー”ではないか?

 本物の魂は、もうあのとき死んでいたんじゃないか?


 そんな問いを、誰も口にはしない。

 だって、それを認めたら、みんな狂ってしまうから。


 ある日、《メモリア》のシステムがバグった。


 データの一部が欠損し、仮想住人の一部が「何かが違う」と言い始めた。


「ここにいるはずの母が、急に私の名前を忘れたの」

「夫の笑い方が、なんか機械的だった」

「友人が、“死ってなんだったっけ”って言い出して……」


 サービス提供会社はすぐに声明を出した。

「現在、意識データの最適化作業を行っております。体験の品質に影響はありません」


 ……品質?


 一瞬だけよぎった疑問は、多くの人にとってはただのノイズだった。


 《メモリア》にはもう、五億人が暮らしている。

 地球の現実人口は、ついに三十億を下回った。


 世界の経済も、政治も、《メモリア》中心に回り始めた。

 現実のインフラは縮小され、仮想住民に必要な最低限の維持しかされていない。電力、ネット、栄養摂取。人間の“身体”は、すでにお荷物なのだ。


 私の両親も、昨日転籍した。

 もう現実には誰もいない。


 ひとりぼっちの現実。

 誰も死なない世界。

 でも誰も、生きていない。


 ある日、私は決心した。


「もう……行こう。こっちにいても、意味なんてないし」


 転籍申請書を記入し、施設に向かう。

 最後の手続きを済ませ、カプセルに横たわる。


 カウントダウンが始まる。

 10、9、8……


 でも、5まで来たところで、なぜか涙が出た。

 嗚咽が、止まらない。


 別に死ぬわけじゃない。

 みんな、あっちにいる。

 また笑い合える。触れ合える。

 それなのに、なぜこんなに、苦しい?


 それはきっと——


「さようなら」がなくなったからだ。


 別れの痛みがなくなれば、人は「いまここにある大切さ」を感じなくなる。

 永遠に会えるなら、今日という一日に意味はない。


 死別がない世界では、人生がただの「準備期間」になってしまう。

 本当の“いま”を生きることが、なくなってしまったのだ。


 私は、転籍をやめた。


 もう誰もいない現実の街を、ひとり歩く。


 風が冷たい。排気ガスが臭い。喫茶店のコーヒーは薄かった。


 でも、すべてが「生きている」感触だった。


 誰もいないはずの空の下、なぜか、誰かが見ている気がした。


 私は小さく呟いた。


「さようなら、また会えるその日まで……本当に“さようなら”」


 それが、どれだけ大切な言葉だったのかを、

 もうこの世界では、誰も覚えていない。

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