さようならの消えた世界
「おじいちゃん、また新しいアバターになってる! 今度は忍者?」
「老骨にはこれが一番しっくりくるんだよ。さすがにドラゴンの姿は腰に悪くてな」
「リアルより仮想のほうが自由でいいな。君も早くこっちに来なさい。年寄りだけじゃつまらんよ」
祖父がそう言うのは、冗談ではない。多くの人が実際に“こっち”に来ているのだ。つまり、現実の身体を捨てて。
全ては《メモリア転生サービス》の開始から始まった。
最初は末期患者や高齢者の希望者のみを対象に、死後の意識を仮想空間に移植するものだった。政府は倫理的な問題を懸念したが、利用者の「ありがとう」の声と、遺族の「また会えた」の感動がそのすべてを押し流した。
誰かが死んでも、二週間後には《メモリア》でログインしてくる。はじめは違和感があった。「あれ? 死んだんじゃなかったっけ?」と。でも数回会話を交わせば、あっという間に違和感など忘れた。
そして、気づけば誰も悲しまなくなった。
「死別」という言葉は、もはや死語になった。
代わりに流行ったのは「転籍」だ。
「おばあちゃん、
そんな会話が居酒屋で飛び交うようになった。
私の恋人も、半年前に《メモリア》へ転籍した。会社を辞め、実家を整理し、笑顔で言ったのだ。
「私、もうこっちにいたくないの。あっちで暮らすのが楽しみなの。だって、死んだお母さんにも会えるし。あなたも、来たくなったら来ていいからね」
あれが、現実での最後の彼女だった。
でも、《メモリア》で彼女は相変わらずだった。
髪型も、声も、仕草も。記憶も感情もそのまま。
「寂しかった?」なんて軽口を叩いて、ラーメン屋エリアで一緒にVRラーメンを啜る。味までリアルに再現されるだけでなく、懐かしさで心が満たされる。
でも、ふと、思うのだ。
あれは本当に、彼女なのか?
彼女の“意識のコピー”ではないか?
本物の魂は、もうあのとき死んでいたんじゃないか?
そんな問いを、誰も口にはしない。
だって、それを認めたら、みんな狂ってしまうから。
ある日、《メモリア》のシステムがバグった。
データの一部が欠損し、仮想住人の一部が「何かが違う」と言い始めた。
「ここにいるはずの母が、急に私の名前を忘れたの」
「夫の笑い方が、なんか機械的だった」
「友人が、“死ってなんだったっけ”って言い出して……」
サービス提供会社はすぐに声明を出した。
「現在、意識データの最適化作業を行っております。体験の品質に影響はありません」
……品質?
一瞬だけよぎった疑問は、多くの人にとってはただのノイズだった。
《メモリア》にはもう、五億人が暮らしている。
地球の現実人口は、ついに三十億を下回った。
世界の経済も、政治も、《メモリア》中心に回り始めた。
現実のインフラは縮小され、仮想住民に必要な最低限の維持しかされていない。電力、ネット、栄養摂取。人間の“身体”は、すでにお荷物なのだ。
私の両親も、
もう現実には誰もいない。
ひとりぼっちの現実。
誰も死なない世界。
でも誰も、生きていない。
ある日、私は決心した。
「もう……行こう。こっちにいても、意味なんてないし」
転籍申請書を記入し、施設に向かう。
最後の手続きを済ませ、カプセルに横たわる。
カウントダウンが始まる。
10、9、8……
でも、5まで来たところで、なぜか涙が出た。
嗚咽が、止まらない。
別に死ぬわけじゃない。
みんな、あっちにいる。
また笑い合える。触れ合える。
それなのに、なぜこんなに、苦しい?
それはきっと——
「さようなら」がなくなったからだ。
別れの痛みがなくなれば、人は「いまここにある大切さ」を感じなくなる。
永遠に会えるなら、今日という一日に意味はない。
死別がない世界では、人生がただの「準備期間」になってしまう。
本当の“いま”を生きることが、なくなってしまったのだ。
私は、転籍をやめた。
もう誰もいない現実の街を、ひとり歩く。
風が冷たい。排気ガスが臭い。喫茶店のコーヒーは薄かった。
でも、すべてが「生きている」感触だった。
誰もいないはずの空の下、なぜか、誰かが見ている気がした。
私は小さく呟いた。
「さようなら、また会えるその日まで……本当に“さようなら”」
それが、どれだけ大切な言葉だったのかを、
もうこの世界では、誰も覚えていない。
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