綿毛の帝国
加藤が目を覚ましたとき、最初に感じたのは異常な静けさだった。
普段なら、外から聞こえる鳥の声や、遠くから聞こえる車の音がしない。まるで世界が息を潜めているかのような、不気味な静寂に包まれていた。
無意識に顔をしかめながら、加藤はベッドから起き上がると、カーテンを引いた。窓の外に広がっていた光景に、思わず息を呑んだ。道端には、タンポポが花を咲かせ、その黄色が街を支配している。普段なら春の風物詩として、どこかで見かけるだけのものなのに、その黄色はまるで異常に広がり、地平線まで続いているかのように見えた。
しかし、ただのタンポポではない。それらの花が、一斉に揺れ、まるで加藤を見つめているかのように、目が合うような錯覚に陥った。風に揺れる音が、ただの「風の音」ではなく、何か意志を持っているように感じられた。
加藤は、深く息を吸い込むと、やっと重い足取りで外へ出た。道を歩きながら、再びその異常さに気づく。街の空気が、どこか「異物」を含んでいるような感じがした。風が吹くたびに、タンポポの花が一斉に揺れ、その動きがまるで合図のように見える。周りの人々が、無言で花を愛でているが、彼らの目が、どこか異常に静かで、無表情だ。
加藤が歩いていると、どこからともなく、無数の綿毛が空から舞い降りてきた。それは、普通の風に吹かれたものではないように見えた。まるで、加藤を狙って、どこからともなく「指示」を受けて飛んできているような錯覚を覚える。
「やっぱり、何かがおかしい…」
加藤が一歩踏み出すたびに、足元に広がる綿毛が、まるで生きているかのように、軽く絡みついてきた。それらは、無意識に加藤を引き寄せるように動き、足元にしがみつく。加藤はその感覚にぞっとして、急いで歩き始めるが、綿毛はすぐにまた追いかけてくる。まるで地面に貼りついているかのように、引きずられる感覚がする。
その時、後ろから声がかけられた。振り返ると、田中が立っていた。彼の顔色は、どこか青白く、目の中に「もう手遅れだ」と言わんばかりの絶望的な表情が浮かんでいた。
「加藤、もう遅い…」田中の声は、どこか遠くから響いてくるようだった。「俺たち、すでに…寄生されてる。」
加藤は一瞬、言葉が出なかった。田中の目の奥に、何か冷たく、感情のないものが宿っているのを感じた。そして、その目は、加藤が目をそらさない限り、どこか強く引き寄せられるような感覚を覚えた。
「やめろ…」加藤はつぶやくが、彼の足元に、無数の綿毛が絡みついてくる。まるで、自分の体をしっかりと縛りつけて、逃げることを許さないような感覚が広がった。
その時、加藤の耳元で、かすかな囁き声がした。「私たち、もうすぐ一つになれるよ。」
その声は、まるでどこからともなく聞こえてきたかのように響き、加藤はその瞬間、恐ろしい予感を覚えた。彼の心臓が激しく鼓動を打つ中、彼は恐る恐る目を下ろした。
その瞬間、目の前のタンポポの花が一斉に、奇妙な形で開き始めた。花びらが、まるで開かれるのではなく、裂けるように開いていき、中心から白く細長い綿毛が次々と飛び立った。それは、風に乗って、無意識に加藤の顔に飛び込んできた。
加藤はそれを振り払おうとするが、綿毛は強く吸い付くように、彼の顔に貼りついて離れなかった。突然、加藤の視界がぼやけ、彼の目の奥に黄色い光が広がり始める。
「こ…れは…」
その瞬間、加藤はその目に映る光景に震えた。彼の体は、意識に反して、足元からどんどんと力が抜け、地面に引き寄せられていく。すぐに周りの風景が遠くなり、加藤はただ目の前に広がる黄色い光に飲み込まれていった。
そして、加藤の体は、まるで風に流されるように、空に浮かび上がった。彼が見上げた空は、まるで黄色い海のように、目の前で渦を巻いていた。その中心には、無数のタンポポが揺れており、それらが次々と綿毛に変わり、空に散っていく様子が広がっていた。
加藤の最後の思考が、ふと浮かんだ。「もう…私は、地球を離れるんだ…」
その言葉が頭をよぎった瞬間、加藤は完全に綿毛となり、宇宙の果てへと飛び立っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます