第45話月は夜の目、狩りの知らせ
「ん……」
人影の正体は老婆だった。
日に焼けた、枯れ枝のような老婆がエレベーターの中から弾丸のような速さで駆け出している。
それは一瞬の出来事であり、人間の視力ではまったく捉えられないほどの素早い動きだったが、たかしにはせいぜい「なんかよく分かんないけど焦っている」程度にしか見えなかった。
薄明りの中、老婆の一挙手一投足を肉眼でハッキリと捉えながら、ぼんやりとたかしは思う。
(何をそんなに急いでいるのか)
その唇は白くひび割れて、目は吊り上がりどこにも焦点があっておらず、叫び声を押さえつけるようにして歯を剥き出しにしている。
豆腐でも買いに行くつもりなのか。
だがそれならば、なぜそんな鬼気迫る形相をしている?
まあいい、しょうゆを切らしてしまったと考えれば辻褄は合うだろう。
細い腰をかがめて深く頭を下げ、老婆は稲妻のようなスピードでエントランスホールを真っすぐに突き抜けて行こうとする。
ありちゃんが叫ぶ!
「うっす!」
しかしそこはやはりたかしなのだろう。
彼は瞬時に気持ちを切り替えると、完璧な笑顔を作り上げていた。
「こんばんは」
だが老婆は一度も振り向かないまま、たかしの横を通り過ぎて、あっという間にマンションから飛び出していってしまった。
「……」
「こんばんわぁあぁぁ……!」
遥か彼方から叫び声のような挨拶がたかしの耳に届く。
先ほどの老婆だろう。
再び静寂が訪れるとありちゃんがおしゃべりを始める。
「うっす!さっきのおばあちゃんは夜になるといつも高速道路でランニングをしてるっす!昼は近所の体育館でバスケットボールをしてるらしいっす!」
「元気なお婆さんなんだね」
「こないだ一緒にかけっこしたっす!でもあたしが勝っちゃったんで、リベンジのために強化特訓中らしいっす!」
「なるほど、さすがはありちゃんだ!」
たかしがにっこりと微笑めば、ありちゃんはすっかりご機嫌だ。
体の震えも治まっている。
先ほどまでのあの怯えようはきっと彼女の勘違いだったのだろう。
「それでは今日はこの辺でお開きに……」
「うー……い、嫌っす!先輩!」
ありちゃんは再びたかしの体に強くしがみつき、ぷるぷると体を震わせる。
いやでもこのマンションは普通で特におかしい所はないし……ありちゃんの考えすぎじゃないだろうか。
確かに住人は少し妙かもしれないが、見た限り、この程度だとありちゃんに危害を加えようものならぺしゃんこにされるはずだ。
たかしがそう結論付けたその時だった。
「うううっ……ぐじゅ……へぐうっ……」
ありちゃんは小さく泣き声をあげながらたかしに縋りついてくる。
「どうした?」
たかしが優しく問いかけると、ありちゃんはべしょべしょの声で返事する。
「うう~っ……!お部屋まで一緒に来て欲しいっす!ちょー怖いっす!」
「えっと、ありちゃん、怖いって言うのは……」
「先輩に見てもらいたいものがあるっす!あたしの手には負えないっす!このままだときっと死んじゃうっす!」
「ありちゃん……」
ありちゃんの手がたかしのシャツの襟を強く引き絞る。
ちなみに彼女はたかしに何かを頼みたいとき、こうやって首を絞めて頭をもぎ取ろうとする傾向にある。
他の連中の首を絞めている場面に遭遇したことはないが、もしあたけにやっていたら今頃チームの人員が一人欠けていたことだろう。
「うぐっ、うぐっ、先輩、助けて欲しいっす……!」
眉をへの字に曲げ、唇を突き出しながら懇願するありちゃん。
もちろんここで彼女が嘘を吐いていると決めつけるのは容易いことだろう。
だが……たかしの超感覚はありちゃんの体の震え方が変わっていることをすでに肌で感じ取っていた。
これは本当に何かあるのかもしれない!
ありちゃんに危機が迫っているというのなら、自分が動かねばなるまい。なぜなら自分は上司であり、チームのリーダーで、そして先輩なのだから。
「教えてくれてありがとう……もう大丈夫だ」
「せ、せんぱいっ!」
たかしはぎしぎしと首を絞められたままこくりと頷くと、ありちゃんの部屋まで同行することを了承したのだった。
複雑な表情を浮かべながらも、子供のようなだだをこね続ける自分に優しく笑いかけてくれるたかし。
ありちゃんは心の中でほくそ笑んでいた。
(うっすっす♪うまく行ったっす!)
実はありちゃんの全身の震えは恐怖ではなく、なんと歓喜と笑いをこらえる震えだったのだ。
これには流石のたかしも気が付くことが出来なかった!
(先輩の優しさにつけ込んでつけ込みまくってやるっす!極上カルビのつけ込み大作戦で行くっすよ~!)
何という狡猾さ、そして大胆さであろうか!
だがしかし、これこそがハンターとしてのありちゃんの真骨頂なのだ。
そして今宵の獲物は……たかし!
エレベーターを待つ間、ありちゃんはたかしの首に腕を回し、全身でのしかかるようにたかしの頭をホールドすると、バレーボールくらいはある大きなおっぱいをぐいぐいと押し付けてくる。
「先輩!エレベーターの中が特に怖いっす!狭くてぎゅぎゅぎゅっす!」
「心配しなくていい、何があっても俺が守るよ」
「先輩っ……!」
(先輩の髪の毛……くんくん……ううっ、いい匂いっすー♪)
ありちゃんの言動が微妙におかしい気もするが、動揺しているからに違いない。
きっとそうだ。まったく、手のかかる後輩だな。
エレベーターが到着し、こじ開けるような鈍い音と共にドアが開いていく。今度は中には誰もいないかった。
カゴの中もマンションの内装に負けないくらいシンプルな作りだ。
行き先階ボタンが並んだ操作パネル、階層表示用のインジケーターをどれもありふれていて、特徴を見いだせるような物は何もない。
「ありちゃんの部屋は何階だ?」
「うっす!13階っす!」
「ずいぶん見晴らしがよさそうだね」
「うっす!」
ありちゃんの体を密着させたままエレベーターに乗り込み、たかしは13階のボタンを押す。そして重い物を動かすような音と共に、ゆっくりとドアが閉まるとエレベーターは静かに上昇していく。
はずだった。
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