あかね色

 夕陽が空を朱く染めるのは、大気中の塵が関係している。

 そんな話をどこかで聞いた。

 それはどこかロマンチックで、退廃的、だけど”悪くない話”だと思う。


 煙草を燻らせながら見る夕方の空は、真っ赤に燃えている。

 あまりにも明るくて、思わず目を細めてしまいそうなほど。

 それぐらい綺麗で、優しかった。


 恋人の渚に一旦距離を置こうと切り出したのは、昨日の夜。

 世間的に、あるいは世界的に見ても、私達みたいなのが生きやすい世界にはなったのかもしれない。でも、そんなことは”私達の日常”には関係がない。

 私達の日常は、他のカップルと何も変わらない。

 どちらかから好きになって、告白して。二人で過ごして、そして別れる。

 何も変わってなんかいない。ただ性別が同じだということだけ。


 渚から告白された時、正直誰かを好きになることはないよと言った。

 それでも、あの子が悲しむのを見たくなかったから、そんな私でも良いならと答えた。……結果がこれだ。


 別に、渚が悪いわけじゃない。むしろ私が悪い。

 渚は私によく合わせてくれたし、どこまでも甲斐甲斐しかった。

 私が求めれば何も言わず応えてくれたし、自分が欲しくなればまず聞いてくる。

 私が断ればただ抱きしめるぐらいで済むし、それで不機嫌になることもない。

 …………ただ、それがどうにも幸せには見えなかった。

 私のじゃない、あの子のだ。


 私達の間に喧嘩なんてなかったが、それはあの子がすぐに引いたから。

 私達の身体の相性も悪くなかったが、それはあの子が私に合わせて変わったから。

 あの子の人生の中心には私がいるみたいで、もちろんそれは私だって同じだった。

 だけど、それで良いとは思えなかった。


 私は別に自分の人生がどうなろうか知ったこっちゃない。

 でも、私が大切にしたいと思う相手には幸せに生きてほしい。

 だから、彼女の人生を想うと、一旦距離を離すべきだと思ったんだ。


 だって、その方が……。

「あの子の為だと思ったから? あんな顔させておいて?」

 思い出すのは、昨日の彼女の顔。

 離れようと切り出してから、泣かないように我慢していたけれど。

 結局最後には泣いてしまった。


『……私が泣いたらダメなのに』

『スミレさんに、迷惑かけちゃダメだってっ……思ってたのに』


 声を押し殺しながら涙を流す彼女を見て、居た堪れない自分がいた。

 初めて、彼女を前にして逃げだしたい自分がいた。

 彼女との出会いをなかったことに出来るなら、すぐにそうしたいと思うほど。

 どれほど自分が彼女に迷惑をかけていたかを目の当たりにしたから。


「人間として最低でしょ……」

 そう吐き出す胸中は裏腹に。

 やっぱりあの子が好きなんだと反芻する。

「でもさ……はぁ……」

 紫煙を吐き出していく。

 自分が、初めて人を好きになったかもしれないことが怖かったから。

 こんな自分が、あの子に見合うか不安だったから。

 胸を締め付ける重たい煙を吐き出していく。

「だからって、いくら恋人とはいえさ」


 背中が少しひりつく。

 昨日、距離を置こうと言った後。

 あまりにも居た堪れなくなって、彼女を家に連れてきた。

 お互いに言葉少なで、どうすればいいかわからなかった。

 でも、悲しそうな彼女を見ていられなくて。

 だから、彼女を抱きしめて、そのまま──。


 ……私から求めるのは、いつだって心の溝を埋めたい時。

 でも、昨日はあの子の溝を埋めてあげたいと思った。

 自分から距離を置こうとか言っておいて最低だけど、それでも彼女は私を受け入れた。受け入れて、いつも以上に私を求めてきた。

 その時に背中に傷が出来たのだろう。

 まるで自分の所有物だって言い張るみたいに、強く求めてきたから。


 結局、朝まで二人して求め合って、渚が疲れて眠るまで付き合った。

「……全く」

 彼女は私の何が好きなのだろう。

 喫煙者で、不愛想で、感情の起伏が少なくて、貧相で、きっとあの子にとって良くない人間なのに。


 ベランダの手すりにもたれ掛かりながら、2本目に火をつける。

 いつだったか、そんな話をしたっけ。

 言葉にするのが難しいのか、はたまた恥ずかしいのか、しおらしく教えてくれたことがあった。

『うーん……難しいんですけど……スミレさんが好きなのは、どこまでも優しいからです。サバサバしてて絶対に怒らないし、言葉じゃなくて行動でサラッと気にかけてくれるところが好きです。私には……それが心地いいんです』


 私は当たり前のことをしているだけなのにそれが良かったと。

 その時はそれで流したけど、今思えばそれは本心だったのかもしれない。

 私が傍にいること、それだけが彼女の求めたもので。

 私は……。

 私は、そんな彼女だからこそより多くを求めてほしいと思ったんだ。


「……好き、か」

 ぼんやりしながら、自分がどうしたいのかを確かめていく。

 愛とか恋とかはわからない。

 でも、この気持ちがそうだというのなら──。


「スミレさん……?」

 背後から聞こえる渚の声に振り替える。

「……ん、おはよう。渚」

 まだ寝ぼけ眼で、覚醒しきっていないのだろう。

 ふらふらとした足取りでベランダにやってこようとする。

「あ、ストップ。煙草吸ってるから」

 しかし、彼女はお構いなしに。

「ん……好きだから良い」

 そう言って抱き着いてくる。

 慌てて彼女に煙や匂いがつかないように煙草を離す。

「匂い移っても良いよ……スミレさんの匂い好きだし」

 胸に顔を埋めてくる渚。

 その表情を伺い知ることは出来ない。


「…………」

「良いんだよ、私は傍にいてくれるなら幸せだから」

 初めて渚がそんなことを言った。


「スミレさんは優しいから、私の事考えてくれてるんだよね。……だって、昨日のスミレさんの顔、凄く悲しそうだったから」

 まさか、そんなはずない。

 だって、私は不愛想で──。

「スミレさんは気づいてないかもしれないけど、スミレさんは凄く真っ直ぐで分かりやすいぐらいなんだよ」

 ……何も言えない。

「スミレさん何も言わないけど、自分の周りの人が笑顔になると凄く優しい顔するの。それに……しばらく一緒に過ごしてみてわかったんだけどね? スミレさんって最初はカッコいい人だなって思ってたんだけど、今は綺麗な人だなって思うの」

 だからね、と渚は続ける。

「私は、そんなスミレさんの傍にいたい。それだけでいいの」

「……でも、私は──」

「──私、自分の幸せは自分で決められるよ」


 ……何も、何も言えないじゃない。

「だから、もし……もし、スミレさんが良いなら──」

 待ってその先は──。

 言葉が出ない。それはあなたに言わせるべきじゃない。

 それは私が言うべき言葉だから。

 

 ──やめて、お願い。


 ……気がつくと、彼女の頬に手を添えていた。

 渚はその手に頬をすり寄せてこちらを見ている。

 胸が苦しくなる。心臓が煩い。

 でも、言わなきゃ。

 この子は、言ってくれたんだから。


「──ねえ、渚」

「なんですか?」

「もし、あんたが良いって言ってくれるなら……私と、これからも一緒にいてほしい」

 渚は何も言わない。ただ、驚いた顔をして。

 嗚呼、全く。顔が熱い。


「だから──! 私、あなたの事が……好きかもしれない」

 らしくない。

 でも、そっか。これがこの子が感じてたものなんだ。


「……それって」

 渚は噛みしめるように俯く。

「これからも、一緒にいて良いってことですか……」

 彼女を片手で引き寄せて、抱きしめながら頭を撫でる。

「……うん。一緒にいてほしい」

 これが自分が言いたかったことなのかわからない。

 でも、どこかあたたかい気持ちが染み渡る。

「じゃあ、今度はもっといろんなこと教えてください。スミレさんのこと」

「……うん。昨日はごめんね」

「良いの。きっと必要な事だったと思うから」


 ああ、もう。

 この胸の高鳴りが気恥ずかしくて目を逸らす。

 燃え尽きた煙草の先、朱く染まった空の先、夕日はどこまでも眩しい。

 綺麗で、優しくて──。


 夕陽が空を朱く染めるのは、大気中の塵が関係している。

 そんな話をどこかで聞いた。

 そんなことを知らなければ、夕焼け空は美しいだけで済んだかもしれない。

 でも、そんな話も悪くない。

 きっと。きっと──。


 ──悪くない。

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