第7話 ゆびわ
「大友さん、大丈夫ですか?」
思い出に浸っているうちに目頭が熱くなってきて、親指と人差指で押さえていると、森本が話し掛けてきた。
正直、話しかけられたくないタイミングだったが、どうにもできない過去の世界から引き戻してくれたことは、少しだけありがたかった。
「大丈夫」
といったものの、自分では気づかない内に体は汗ばみ、急に吐き気がしてきた。
「大友さん、大友さん」
洗面台で嘔吐する大友を心配する森本の声を聞きながら、大友の意識は遠のいていった。
大友の気道を確保すると、森本は部屋にある非常用ベルを押し、車椅子からずり落ちそうな大友の体を支え仲間の来るのを待った。
混沌とする意識の中で、大友は記憶の再現のような夢を見ていた。
「それ、れいらの、返して」
必死で叫ぶ麗羅に、見知らぬ若い男が
「お前みたいなガキにこんなモンいらねえんだよ。
どうせどっかでパクってきたんだろ」
と言って、大友が買い与えた指環を自分のポケットに入れる。
「かえして、かえして」
しがみつく麗羅を、男が情け容赦なく殴る。蹴る。
ゴムマリのように吹っ飛び壁にたたきつけられる麗羅。
「ヤメテクレ、ヤメテクレ。レイラ、イインダ。マタカッテヤルカラ
レイラヲ、キズツケナイデクレ」
動けない体がもどかしく、麗羅を守ってやれない自分が腹立たしくてやるせない。
麗羅、痛かっただろう。
麗羅、おじちゃんが行くから、そのままじっとしていろ。
麗羅、守ってやれなくて。
「大友さん、大友さん。大丈夫ですか」
施設が呼んだ医師が、顔を覗き込む。
「うう」
自分では、返事をしたつもりだったが、言葉にはなっていなかった。
医師は、大友の鼻にチューブを入れ、脈を測り点滴をする。
「ご家族の方は?」
「大友のおじいちゃんは、一人暮らしで、田舎に妹さんが一人です。
ただ、階段でこけた時、近所の人が世話してくれてこの施設に」
森本が答える。
「そうですか。では、一応妹さんへ連絡を」
「はい」
ぼんやりとした意識の中で、二人の会話を聞いていた大友は、反応もできず眠りに落ちていった
「大友さん、大丈夫?」
声をかけられて、大友は目を開ける。
さほど心配していなさそうな西川が、いかにも心配しているかのように、目だけは大きく開いて覗き込んでいた。
「これ、取ってくれ」
乾ききった唇をやっと動かし、鼻のチューブを触りながら言うと、
「アカンよ、窒息したらどうすんの」
鼻のチューブと点滴のチューブで寝返りも打てない。
あの時の麗羅もこんな姿だったか。
いや、もっと酷かった。普段通りに仕事から帰って、家の前の人だかりに驚いたのと、近所の主婦と目があった瞬間
「あ、大友さん、麗羅ちゃんが大変なのよ」
と大声で駆け寄ってくるのが同時だった。
「え、麗羅が」
「母親の若い男に酷いことされて」
絶句していると
「そこへね、運良く母親が帰って来たんだけど、病院へも連れていかずにその男と喧嘩し始めてね」
別の主婦が、我慢しきれないかのように、今まで話していた主婦の腕を掴み
「騒ぎを聞いて心配したこの人が覗きに行って、麗羅ちゃんの大変な姿を見て救急車を呼んだんだよ」
と言って、何度も頷いた。
この人と呼ばれた主婦は、涙ぐみながら
「どうやって、家へ帰ったかもわかんないんだけど、必死で電話したんですよ。手が震えてね、119の三つが、なかなか押せなかったよ」
「それで、麗羅は」
「役所の近くの病院だよ。早く行ってあげて」
病院の受付へ行き、麗羅の病室を尋ねる。
最初は、なかなか教えてくれなかった事務員が、ねばった末親族だというと内線電話でなにやら話し、関係者が来るまで待つようにと言われた。
少し待つと、以前、麗羅の母親に会うために来たケースワーカーの女性が
「大友さんでしたね」
と声をかけてきた。
「あ、ああ」
大友は、挨拶をするつもりだったが、言葉にならなかった。
「麗羅は」
「なんとか無事です。
今は集中治療室にはいっていて、もうすぐ緊急手術が始まります」
「手術」
「ええ、腹部を思い切り蹴られたらしく、お腹に血の塊があって、それを取り除かないといけないそうです」
話しの途中から、病院のロビーで周りに人がいることなど忘れて、涙があふれてきた。どうして、守ってやれなかったのか。
いや、自分が手を貸さなければあの子はとっくに施設へ入り、こんな辛い思いをしなかったのではないのか、体中の水分が目に集中したのではないかと思えるほど、熱い塊が次から次へと零れていった。
「大友さん大丈夫ですか」
「ええ」
少しだけ落ち着いたタイミングを見計らってケースワーカーが、手術をしている患者の家族の待機できる場所へと導いてくれた。
「終わるまで、ここでお待ちになりますか」
「そうさせてください」
手術が終わり、麻酔で眠っている麗羅を見て、一旦家へ帰った。
麗羅が目覚めたあと、入院生活のなかで欲しがりそうなものが、自分の部屋にあるかもしれないと思ったからだ。
アパートの部屋の灯りをつけると、いつの間にか殺風景だった大友の部屋は、麗羅の物で溢れていた。
「麗羅」
どうしようもない感情の波に押され、無意識に麗羅の名前を口ごもりながら、自分の胸をどんどんと叩いた。
膝から下の力が抜け、生まれて初めて、それを自分が発してるとすぐに分からないほどの地の底からのうめき声を聞いた。
どのくらいの時間がたっただろう、頭がずきずきする。
けれど、麗羅の痛みに比べたらこんな痛みはどうでも良い痛みだ。
いや、むしろ自分に痛みを与えて欲しい。
そうして、その分麗羅の痛みを減らしてやってほしい。
この世に神というものが存在するのなら、喜んで贄になる。
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