かささぎ橋
加賀屋 乃梨香
第1話 であい
明日は、雨なのだ。
少しだけ下げて欲しいといったベッドの傾きを、若い介護士はいつまでも直しに来ない。スピログラフで描かれた幾何学模様のように光の輪を連鎖し続ける月を、手持無沙汰に窓から眺めていた。
月を下から支える雲達は、安物の指輪に嵌められた小さな石の色をしている。
指輪という物にそれほどの思いも込めず、義務感のように買った昔を思い出す。
そして、そんな指環でも、はじけるような笑顔で喜んでくれた娘を。
やがて月は雲に飲み込まれ、窓の外は街灯だけが光る。今日もあの橋を渡る人は来なかった。いや、未来永劫自分の待つ人が、あの橋を渡ることはないのだ。
部屋の入口に目をやると、昼間は開け放たれているドアが今は閉められている。
すでに就寝時間にはなっているはずだ。次第にまどろみ出した頬に、ふと光が当たる。ドアが細く、静かに開けられていく。
「大友さん寝たやんなぁ」
いつもの関西弁の響きさえ、ふざけて感じられ、眠りに入る心地よさを妨げられた怒りを抑えながら、寝た振りをする。
若い介護士は小さな声で、ごめんなぁ。
と言いながらベッドの傾きを調整し始める。その手際の悪さに堪えきれず
「もういい」
と言って寝返りを打つ。
この歳になると、一度眠りを遮られると寝つきにくくなる。苛立つが、孫ほどの年齢の介護士に面倒をみて貰う身の上では、それ以上の怒りをぶつけることもできない。
「あ、起こしちゃった。ごめんね」
このセンターの職員が皆、幼いこどもに話しかけるような言葉使いをすることも気に入らない。
親密に接していると思わせたいのか、若い介護士はベッドに幾分浅めに座り、布団を直す仕草をしながら、遅れてきた言い訳を始める。
「またね、真野のお婆ちゃんがごねたんよ」
どうでもいいことだ。関心を示さないようにしていたのに、若い介護士は思わせぶりに続ける。
「あのお婆ちゃん、たち悪いんよ。知ってはるでしょ」
「寝るから」
ごめんごめんといいながら、ほんのすこしの傾きに時間をかけてレバーを回す介護士の、なんとか続きを話そうときっかけを探していることがありありと感じられる。
いいたくないお休みを言って背中を向け、一人の空間を取り戻した。
話し足りない西川は、大友の部屋を出て詰所に戻ると
「参りましたわ。真野のお婆ちゃん」
と、今夜一緒に夜勤をする村山に話しかけた
「ああ、あのお婆ちゃん、どうしようもないわね。
どうしようもないわ、あの男好きは」
途端に村山の周りの蛍光灯だけが、光を反射させて粒子を撒き散らしたかのごとく、明るい声が返ってくる。同じ言葉を繰り返し使うのは、悪口が嬉しくて仕方がない時の癖だ。
「全く、あの婆さんの男好きはね。
あれじゃあ、こどもや孫がなかなか来ないのも仕方ないわね。
そうそう、知ってる?真野婆さんのせいで、B棟は男の入居者を入れられないって」
「えっ、大友さんは?」
「あの人は、特別。真野婆さんが何故かあの人にだけは、色目を使わないんだ。」
話を振ったにも関わらず、村山の世界に入りすぎないよう用心していた西川を引きずり込めた事が嬉しくて仕方がないかのように話し続ける。
雨が同じテンポで、小さなベランダの手すりを叩く。
窓の外を眺める事もなく、ただ掛布団の柔らかさに安心したように掌を滑らしていた大友は、もう、何十年前になるかも覚えていない昔を思い出していた。
あの夜、冷たい雨が降っていなかったら、麗羅に声をかけることもなかったかもしれない。
仕事を終えて、駅前の弁当屋で適当に夕食を見繕い、職場が借りてくれている2DKのアパートへ戻ると、隣家のドアとの境目あたりに小さな女の子がしゃがみこんでいた。
そこに佇んで随分経つのだろう。寒さに震え、小さな頬には涙の跡が固まり、柔らかな皮膚をひきつらせていた。
「どうした?寒いんだろ。家へ入りな」
思わずでた言葉に少女は反応したが、小さく首を振ると、そのまま抱えた細い腕に顔を埋めて泣きじゃくった。
「なんだ、叱られたのか」
返事のない少女の前を通り、隣家のインターホンを鳴らす。
ドンドンドンと廊下を歩く音が聞こえ、勢いよくドアが開き
「うるさいね、麗羅。もうちょっとそこで我慢しなっていったでしょ」
叫ぶようにして出てきた、だらしない格好の女が、アパートの廊下に立つ見知らぬ男に驚く。驚いたのは、大友も同様だった。
思いがけず体の奥から怒りが湧き上がる。
小刻みに揺れる指で少女を指さしながら
「震えてるだろ。入れてやれよ。」
言い放つと、ちらかった玄関から溢れてくるタバコの煙と、酒の饐えた匂いに顔をしかめる。
「あんたに関係ないでしょ。ほっておいて」
勢いよく閉められたドアから、鍵の掛かる音がする。
「なんて女だ。」
吐き捨てるように言うと、少女に向かって閉められたドアを指さしながら
「お前の母親か?」
大人たちのやりとりを涙の溜まった目で見つめていた少女は、黙ってか細い腕にまた顔を埋めた。
「ああ、ええと、お母さんか?」
「ママ」
時間をおいて、小さく少女が答える。
「そうか、ママか」
溜め息と共につぶやいたが、寒さに震える少女を見ていられず、自室のドアを開けながら
「入るか?」
と聞くと、少女は顔を上げ、一瞬とまどったかのように見えたが、こっくりと頷き、ゆっくりと体を動かした。
玄関の灯りを点け、先に入り暖房を入れる。本来ならまだ暖房の季節ではなかったが、狭い玄関口で触れた幼い体は、哀れなほど冷えきっていた。
暖房器具から温かい空気が出てくることを確認して、少女のいるダイニングから、自分の部屋へ向かう。一通り見回したが、こどもに着せてやれそうなものもなく、風呂場に干してあったバスタオルを二、三度はたいてその細い肩にかけてやる。
少女は裸足で、折れそうな足には多数の痣があり、風呂も満足に入れてもらえていないようだった。
いつもは見ないテレビに電源を入れると、すぐに薬缶に湯を沸かす。
その時初めて大友は、自分が帰り道に買ってきた弁当の事を思い出した。
「腹減ってるか?」
少女はきょとんとした目で大友を見つめ、一度首を横に振ってから今度は怯えたような目で大友を見つめ、そしてゆっくりと頷いた。
その仕草に思わず目をそらした大友は、壁に掛けてあるスーパーの袋からカップラーメンとうどんを出して、
「どっちがいい?」
となるべく優しい声で聞いた。少女は、
「こっち」
と、うどんを指さした。
カップうどんに熱湯を注ぎ蓋をして、茶碗と皿と箸を持ってくると弁当を開ける。ご飯茶碗に飯をとってやり、おかずを箸でさしながら
「どれが食べたい?」
と聞くと、少女は静かに首を振った。
遠慮をしているのかと、心配そうに覗きこむ大友に少女は
「うどん」
と一言だけ言った。
「そうか、寒かったもんな。カップのやつで悪いけどな」
言いながらコーヒー茶碗に茶を入れてやり、そのままでは熱いかと少しだけ水道の水で薄めてやる。
こくこくと音をたてて茶を飲む少女を見ながら、味噌汁椀にうどんと汁を入れて渡すと、少し大袈裟にふうふうと息を吹きかけながら小さな口へ運ぶ。
気が付くと大友は、自分が食べる事を忘れて眺めていた。
何故だか、何年も音信不通になっている、妹のまゆこの事が脳裏に浮かんだ。
そういえばまゆこが、この少女位の時は、いつも自分が面倒をみていたような気がする。
「名前は、なんて言うんだ」
「れいら」
さっきの女もそう言ってたかな、と大友が独り言つ。
冷えきった弁当と、麗羅が残した伸びきったカップうどんの残りを平らげた大友は、湯沸しのお湯でタオルを絞り、麗羅の顔や腕や足の裏をふいてやった。
最初は嫌がった麗羅も、調度良い温度の蒸しタオルの心地よさがわかったのか、されるがままになっていた。
「本当は風呂に入れてやりたいけどな、流石にな」
つぶやきとも、ぼやきともとれる大友の独り言を聞きながら、その心地よさに麗羅はうとうとし始めていた。
仕事の疲れが溜まっていたのか夕食後のビールが効いたのか、座椅子に座ってまどろんでしまっていた大友は、自分の布団ですやすやと寝ている少女を見て慌てて時計を見た。夜の十一時を過ぎている。
あんな母親でも、流石に娘を心配しているのではないか。
もしや、娘が誘拐されたと警察へ訴えてはいないか。
大友は焦り、玄関から飛び出した。隣家の窓の灯りは消されていたが、チャイムを鳴らす。
けれど全く反応はない。
焦りが募り、何度も鳴らす。
静まりかえったアパートの廊下に、チャイムの音が響く。
すると、もう一軒隣りのドアが開いて、五十代位の人のよさそうな顔がこちらを覗いた
「お隣りさんなら、さっき男の人と出ていったわよ」
「えっ」
「もしかして、麗羅ちゃんを預かっているの?
私もねあんまり可哀想だから、ちょっと家へ上げたら、あの女、これ幸いと帰ってこなくなってね。
流石にいつまでも預かれないからね。麗羅ちゃんは可哀想だけどね」
大友は、どう返事すれば良いか判らず
「どうも」
と一言いって家へ帰った。
玄関のドアを閉めると、沸々と怒りが込み上げてきたが、その怒りをどこへ持って行けば良いのかさえ解らなかった。
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