第40話 フェンリル
学園へ戻ると、すでに夜の鐘が鳴っていた。
門の前には教員たちが並び、ざわめきが広がっている。
ティナの言葉どおり、どうやら学園中がこの一件で持ちきりのようだった。
「やっと戻ったか!」
出迎えたのは学園教官の一人、ランバートだった。
腕を組み、鋭い目で二人を睨みつける。
「お前たちが素材採取に向かったと申請のあった南方の森で、観測陣が吹き飛んだとの報告が入った。
一体何があったのか、説明してもらおうか。」
「グレートウルフと遭遇しました。」
ハルオが静かに答えると、その場の空気が一瞬で凍りついた。
「……グレートウルフ、だと?」
「はい。ですが討伐したわけではありません。ただ、交戦中に――」
「そんなことで観測陣が吹き飛ぶか!」
ランバートが眉を吊り上げる。
「たかがグレートウルフで、あの魔力反応は出ないぞ。」
ティナが一歩前に出て、静かに言った。
「先生、責める前に確認を。彼らは正式な許可を取って森に行っています。
それに――これを見てください。」
ティナがハルオの袋から蒼い毛束を取り出すと、
教官たちは息を呑み、ざわめきが一層強くなった。
「こ、これは…………!」
ランバートが眉間に皺を寄せ、しばし沈黙したのち、
低く絞り出すように言った。
「……いいかお前たち。これは明日、学園長から上に報告する。それまでは一切口外するな。いいな?」
「上……?」
ハルオが呟くと、ティナが横目で小さく頷いた。
「おそらく討伐隊が組まれるわ。下手をすれば――王族も動く。」
ティナの声にはわずかな緊張が滲んでいた。
クレインが怪訝そうに眉をひそめる。
「……ってことは、もう学園だけの問題じゃねぇってことか。」
ランバートは無言で頷き、背を向けた。
「明朝、学園長室に来い。詳細はその時に聞く。」
厳しい声を残し、彼は夜の回廊の奥へと消えていった。
――静まり返った玄関前に、冷たい夜風が吹き抜けた。
残された三人の間に、しばし言葉がなかった。
「……とんでもないことになったな。」
クレインが頭をかきながら、乾いた笑いを漏らす。
「学園長室って……明日、怒られるだけじゃ済まねぇ気がするぞ。」
「怒られるくらいで済めばいいけどね。」
ティナが真剣な表情で言った。
「“上”って、たぶん王国聖騎士団のこと。あの人たちが動くときは、必ず裏がある。」
「王国聖騎士団……」
ハルオが呟く。
ティナは頷き、声を潜めた。
「王国直属の武装組織。ゼロ番隊は王の護衛、第一番隊は王都防衛、第二番隊は外征任務。
そして――第三番隊が“監察局”を兼ねている。魔術関連の異常を監視・封印する部隊よ。」
クレインの表情が一瞬で強張った。
「……腹減った。飯食って寝ようぜ。」
翌朝――。
学園の中庭は、いつもより早くからざわめいていた。
まだ朝霧が残る石畳の上を、生徒たちがそわそわと行き交っている。
「昨夜、何かあったらしいぞ」「森の観測陣が全部消えたって……」
そんな噂が耳に届くたび、ハルオの胸の奥に重いものが沈んでいった。
ハルオ、クレイン、ティナの三人は学園長室の前にいた。
クレインはパンをくわえたまま、欠伸をひとつ。
「なあ、ハルオ。もし本当に聖騎士団が動くんなら……俺たち、また森に行くことになるんじゃねぇか?」
「どうだろうな。」
そのとき、扉の奥から声が響いた。
「ハルオ、クレイン、ティナ。入ってきなさい。」
学園長室の扉をくぐると、重厚な香木の匂いとともに静寂が支配していた。
壁一面に並ぶ魔導書の背表紙が、朝の光を鈍く反射している。
机の向こうに座る学園長は、見た目は若い金髪の男、その瞳には鋭い光が宿っていた。
「聞いていると思うが、昨夜の件は学園にとっても重大な事案だ。もちろん王国にとっても‥‥」
低く、しかし落ち着いた声だった。
「だが――今は王国に知られるわけにはいかない。」
ハルオは思わず身を正した。
学園長は指を組み、三人を順に見渡す。
「南方の森で発生した魔力異常については、王国への報告も最小限にとどめた。
お前たちが現場に居合わせたことも、正式な記録からは削除する。
いいな、クレイン」
クレインが目を丸くした。
「……つまり、なかったことにするってことですか?」
「そうだ。」
学園長は即答した。
「この件は“学内の秘匿事項”として扱う。
お前たちが見たもの、感じたもの――すべて胸の内にしまっておきなさい。」
ティナが眉を寄せる。
「……でも、先生。あの魔力はただの魔獣のものじゃありません。
放っておいたら――」
「分かっている。」
学園長の言葉が重く響く。
「だからこそ、騒ぎ立てるなと言っているのだ。
今、王国聖騎士団が動けば、森だけでなく、学園そのものが調査対象になる。
それは避けねばならん。」
静まり返った室内に、時計の針の音だけが響いた。
ハルオは視線を落とし、ゆっくりと息を吐く。
(……やはり、何かを隠している)
学園長は三人を見据えたまま、静かに言葉を続けた。
「――この件は、今日をもって封印する。
誰にも話すな。友人にも、家族にもだ。……いいな?」
三人は黙って頷いた。
重く閉ざされた学園長室の扉が、まるでこの事件そのものを閉じ込めるかのように、
静かに音を立てて閉まった。
沈黙の中、ハルオが口を開く。
「……あの、学園長。あのグレートウルフの上位種――あれは一体、なんなんですか?」
学園長は目を細め、微かに頷いた。
「おそらく――フェンリルだ。神話の魔狼。原種の一柱にして、世界を滅びへ導いた魔王。」
その言葉には、どこか哀しみのような響きがあった。
やがて学園長は席を立ち、窓の外を見やった。
「お前たちが見た“それ”は、この国の、いや世界の根幹に関わる存在だ。
……だが、今はまだ時期ではない。
何が起きたか、誰にも話すな。どんな者にも、だ。」
重く閉じられた言葉が、部屋の空気をさらに沈めた。
三人はそれ以上何も言えず、ただ静かに頭を下げた。
「フェンリルの毛束は一部こちらで預かるが残りはハルオ、君が持っていなさい」
扉を出る直前、学園長の声が背中に届いた。
「――この話は、決して口外するな。
お前たちがこれから生き残りたいのなら、な。」
学園長室を出た瞬間、廊下の空気が急に軽く感じられた。
だが、それは安堵ではなく、息苦しい静寂の裏返しだった。
三人はしばらく無言のまま歩いた。
磨かれた石床に、靴音だけが淡く響く。
やがて、クレインがぽつりと呟いた。
「……フェンリル、か。神話の魔狼なんて、絵本の中の存在だと思ってたけどよ。」
ティナが小さく首を振る。
「学園長のあの顔……本当に“ただの昔話”なら、あんな目はしない。」
「つまり――あれはやっぱり本物、ってことか。」
クレインの声に冗談めいた響きはなかった。
ハルオは二人の会話を聞きながら、黙って空を仰いだ。
窓の外では、朝の光がまだ淡く揺れている。
だがその眩しさの奥に、昨夜見た“蒼い光”がちらついた気がした。
(フェンリル……魔王……)
心の奥が微かにざわめく。
あのとき、確かに何かが自分の中に――触れた。
「おい、ハルオ?」
クレインが覗き込む。
「ぼーっとしてどうした?」
「……いや、なんでもない。」
ハルオは短く答えた。
ティナが静かに言った。
「今日のことは、絶対に口外しちゃだめ。
“生き残りたいのなら”って、学園長は言ったわ。あれ、冗談じゃないと思う。」
「分かってるさ。」
クレインは肩をすくめ、無理に笑った。
「……けどよ、そんな“神話の化け物”が現実に出てくるなんてな。
この先、どうなるんだか。」
誰も答えなかった。
窓の外では、鐘の音が再び鳴り始める。
それが、いつも通りの朝を告げるはずの音であることが――
なぜか、三人には信じられなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます