第19話 行商
ローレンを出て、初日の夕方。
太陽はゆっくりと沈みかけ、空の端が茜色に染まり始めていた。
ハルオは一本道を歩きながら、地図を何度も見返していた。
「おかしいな……この分岐、地図にないぞ。」
森沿いの街道を進むはずが、いつの間にか獣道のような細い道に入り込んでいたらしい。
辺りには人気もなく、鳥の鳴き声すら聞こえない。
(まさか……道、間違えた?)
焦りが胸をよぎる。
空の赤みは次第に薄れ、森の影が濃くなっていく。
日が完全に沈めば、この道は闇に包まれるだろう。
(戻るにも距離がわからない……仕方ない、今日はここで野宿だな。)
木々の間に少し開けた場所を見つけ、焚き火を起こした。
魔法袋からパンと肉串を取り出す。
初めての一人の夜。
火の明かりに照らされたパンの白と、肉の色がやけに寂しく見えた。
(街を出てまだ一日だってのに……)
空を見上げると、見慣れた星がちらほらと輝いている。
(そう言えば、星や月は地球と同じなんだよな。)
けれど、ここは間違いなく異世界。魔力や魔物が何よりの証拠だ。
火を囲みながら短剣を手に取る。
柄を握ると、ミスリルの刃が淡く蒼く光った。
(……露店のおやじさんの言ってた通り、魔力が流れてる感じがする。)
その時だった。
――ガサ……ガサガサッ。
背後の茂みが揺れた。
焚き火の明かりが草の影を大きく伸ばす。
「……誰だ?」
短剣を構え、身構える。
すると、茂みの奥から現れたのは――
黒い毛並みに赤い目をした、四足の獣。
(狼?ウルフか……!)
前世のハルオが知っているオオカミや大型犬よりはるかにでかい。
牙をむき出しにして唸る魔物。
体高は腰ほどもあり、一本の鋭い爪が月光を反射した。
(逃げられない……やるしかない!)
ハルオは短剣を握り、魔力を流す。
――刃がチリ、と鳴いた。
獣が飛びかかる。
ハルオは横に転がって避け、地面に刃を突き立てた。
火花が散り、土が跳ね、熱が頬をかすめる。
(くそっ、早い!)
再び距離を取ろうとした瞬間、
ウルフが低く構え、次の一撃を放つ。
「――来い!」
咄嗟に短剣を構え、迎え撃つ。
刃と牙がぶつかり、金属音が森に響く。
だがミスリルの短剣は牙ごとウルフの喉元を切り裂き、
獣は短い悲鳴を上げて地面に崩れ落ちた。
意外なほどあっさりと勝てたことに、ハルオは胸をなでおろした。
焚き火の光が風に揺れ、倒れた魔物の影を照らす。
「やったのか……。」
刃を見下ろすと、うっすらと蒼い光がまだ残っていた。
ミスリルの短剣は、まるで「よくやった」と言うように、かすかに震えていた。
「……これが、魔力の制御……なのか?それとも短剣がすごいのか」
倒したウルフを魔法の袋に収納し呟きながら膝をつく。
全身に広がる疲労と、かすかな高揚。
自分の力で敵を倒したという実感が、胸の奥にじんわりと広がっていく。
(まだまだだけど……俺、少しはやれるようになったのかもな。)
夜風が焚き火を揺らし、星が静かに瞬いていた。
その光の下で、ハルオは短剣を手にしたまま、ゆっくりと目を閉じた。
……だが、魔物が出る外で寝られるわけもない。
ハルオは焚き火のそばで、短剣を握ったまま周囲を警戒し続けた。
夜の森は静かだが、どこかで何かが蠢くような気配が絶えない。
(気を抜くな……夜明けまで、持たせるんだ。)
焚き火の明かりが弱まり、影が濃くなる。
風が木々を揺らし、遠くで鳥の声が響いた。
――長い夜だった。
ハルオは何度もあたりを見回しながら、
わずかな眠気と戦い続けた。
(徹夜なんてサラリーマン時代いくらでもした。これぐらい‥‥)
やがて空が白み始める。
東の空から一筋の光が差し込み、夜が終わりを告げた。
「……ふぅ、なんとか無事に朝を迎えたか。」
ハルオは重いまぶたをこすりながら立ち上がる。
森の空気は冷たく、湿った草の匂いが漂っていた。
(これが、冒険者としての“現実”か……。)
焚き火の灰を払い、短剣の刃を拭う。
その刃は朝日を受け、淡く蒼く輝いていた。
ハルオは大きく背伸びをして、再び歩き出した。
太陽に向かって歩き続けると、やがて木々の間から光が差し込み、
しばらくして――ようやく広い街道に出た。
「……よかった。これで合ってたか。」
深呼吸をひとつ。
朝の風が心地よく頬を撫で、疲れた体を少しだけ軽くしてくれる。
(王都まで、まだ先は長いな。)
ハルオは地図を見直し、太陽の昇る方向に向かって歩き出した。
パンをかじりながら道沿いを歩き続け、
昼前には森を抜け、見渡す限りの草原が広がっていた。
遠くに小川がきらめき、風に揺れる草の音が心地いい。
「……人の気配も、魔物の気配もなし。少し休むか。」
一本だけ立つ大きな木の下に腰を下ろし、
荷を下ろして魔法袋から水袋を取り出した。
朝から歩き通しだったせいか、全身が重い。
(さすがに疲れたな……少しだけ、目を閉じよう。)
木にもたれたまま、ハルオはゆっくりと目を閉じた。
風が髪を揺らし、草の匂いが眠気を誘う。
気づけば、静かな草原に寝息が溶けていった。
――どれくらい眠っていたのか。
「おい、あんた! 大丈夫かい?」
はっとして目を開けると、目の前に人影が立っていた。
太陽の逆光で最初は見えなかったが、
近づくにつれ、それが背の高い女性だとわかった。
肩までの赤茶の髪を束ね、革鎧を着た逞しい体つき。
腰には長剣、――旅の傭兵か、商人の護衛だろう。
「どうしたんだい、こんなところでお昼寝かい? 物騒だね。一人なのかい?」
「あ、はい。ちょっと歩き疲れて……。寝てしまってました。」
ハルオが慌てて立ち上がると、女性は軽くため息をついた。
「まったく、若いのに危機感が足りないね。
ここは街道沿いとはいえ、少し外れりゃウルフも盗賊も出るんだよ。」
(……ウルフなら昨日戦ったけど、盗賊まで出るのか。)
ハルオが苦笑しながら頷くと、女性は腰に手を当てて笑った。
「まあ、無事ならよし。あたしはベス。見ての通り、行商の護衛さ。」
「俺はハルオです。
「へぇ、王都へ? ちょうどいいじゃないか。
あたしたちの馬車も王都まで行くところさね。よけりゃ一緒に来な。」
「えっ、いいんですか?」
「寝てる旅人を放っとけるほど薄情じゃないさ。
見たところ、あんたも冒険者だろ? 護衛の依頼料ってことで、王都まで乗せてってあげるさね。な? いいだろ?」
「あぁ、かまわんよ。」
馬車の荷台から顔を出したのは、丸い体つきの中年の商人だった。
頭には布のターバン、額の汗をぬぐいながら、人の良さそうな笑みを浮かべている。
「俺はゴルドだ。雑貨を王都まで運んでる。
ちょうど護衛を雇ってるところだったし、手が増えるのは助かる。報酬代わりに乗っていきな。」
「ありがとうございます! 本当に助かります!」
ハルオは深々と頭を下げた。
「ははっ、礼なんていいさ。若いのが無茶せず旅してくれる方が安心だ。」
ゴルドは笑いながら手を振る。
ベスが荷台を軽く叩いた。
「よし、決まりだ。ハルオ、荷物はそこに置きな。座席の端、空いてるだろ? ――って、あんた手ぶらかい?」
「いや、荷物は短剣以外は全部この中に……魔法の袋です。」
ハルオは腰に下げた小袋を見せながら答えた。
「へぇ、魔法の袋か。珍しいもん持ってるね。」
ベスが感心したように眉を上げる。
ハルオが馬車の後部に乗り込むと、木の車輪が軋みを上げ、ゆっくりと街道を進み始めた。
――がたん、がたん。
心地よい揺れの中で、行商のゴルドが笑いながら話しかけてくる。
「魔法の袋ってのはな、見た目以上にくせ者でね。
容量はその人の“魔力量”に比例するんだ。だから、魔力の少ない人が持っても大して入らない。」
「えっ、そうなんですか?」
「ああ。普通の人間だと、せいぜい小さな鞄ひとつ分ってとこだな。
それに大容量の荷物を収納できるほど魔力量のある魔導士は、いずれ空間魔法を覚える。
だからわざわざ高い金を出して袋を買うなんて、ほとんどしないんだよ。」
「なるほど……。じゃあ、俺のこれもあまり入らないのか。」
ハルオは苦笑しながら袋を見下ろした。
「いや、そうとも限らんさ。お前さん見たところ魔導士じゃないから魔法も使えんだろ?」
ゴルドが意味ありげに言葉を続ける。
「魔導士じゃなくても、たまに“とんでもない深さ”を持つ奴がいる。
あれは、生まれ持った魔力の質が関係してるらしい。
――もしお前が、その“とんでもない側”だったら……」
「……それ、どうやって分かるんですか?」
「簡単だ。限界まで詰めてみることだよ。」
ベスが笑って肩をすくめる。
「でも、旅の途中でそれ試すのはやめときな。
もし暴発したら、荷物ごと吹っ飛ぶよ。」
「ひえっ……気をつけます。」
ハルオが慌てて袋を抱きしめると、ゴルドとベスが同時に吹き出した。
「冗談さね。爆発はしないから安心しなよ」
馬車はのどかな街道を進み、春の草原の風が頬を撫でる。
遠くに小さな丘が見え、上には風車がゆっくりと回っていた。
(魔法の袋にもそんな仕組みがあるのか……。だからほかの冒険者たちは持ってなかったのか。この世界、本当に知らないことばかりだな。)
ハルオは馬車の揺れに身を任せながら、遠く霞む地平線を見つめた。
その視線の先――彼の向かう
「王都までは三日ほどの道のりだ。途中の宿場町(カムレーン)で一泊、
二日目には南都トリスって交易の町に寄る予定だよ。」
ベスがそう説明しながら、前方を見据える。
ハルオは頷きつつ、馬車の揺れに身を任せた。
「助かります。徒歩の予定だったんで……正直、死ぬかと思ってました。」
「そりゃ無謀だね。あんた王都に何の用だい?」
「魔法学園に行くんです。……推薦をもらって。」
「へぇ!」
ベスが驚いたように目を丸くした。
「こりゃまた優等生な冒険者だねぇ。
魔法使い志望の新入りなんて初めて会ったよ。」
「いや、その……どちらかと言うと、勉強しに行くというか……制御を学びに行く感じで。」
「制御?」
ゴルドが振り返る。
「まさか、“暴走系”かい?」
ハルオは少し言い淀んだが、正直に頷いた。
「ええ、ちょっと自分でもよくわからない力で……人に迷惑をかける前に、学ばないといけないと思って。」
ベスがふっと笑う。
「真面目なやつだね。あたしの若い頃にも、そういう奴がいたっけ。」
「へぇ、ベスさんも魔法使いだったんですか?」
「いや、あたしは斬る方専門さ。魔法より、腕と剣で何とかしてきたクチだ。」
そんな他愛ない話をしているうちに、馬車の揺れにも慣れてきた。
日差しは高く、空は青い。
ローレンを出てから初めて、“安心”という感覚を少し取り戻していた。
だが――。
ベスがふと前方に目を細める。
「……おい、ゴルド。あれ見えるか?」
「ん? おや……道の先に、馬車が止まってるな。」
遠くの街道に、荷台を傾けた馬車が一台。
近づくにつれ、荷が散乱しているのが見えてきた。
「事故……じゃなさそうね。」
ベスが剣の柄に手をかける。
風が変わる。草の匂いに、わずかに鉄の臭い――血の気配が混じった。
ハルオも反射的に短剣に手を伸ばす。
「……嫌な予感しかしない。」
「だな。」
馬車が止まり、三人は視線を交わす。
静まり返った街道に、カラスの鳴き声が響いた。
「ハルオ、あんたは呼ぶまでここで待機だよ。
あたしとゴルドで様子を見てくる。」
「はい……!」
ハルオは短剣を構え、息を整える。
ミスリルの刃が陽を受け、かすかに蒼く光った。
次の瞬間――
「……っ、伏せろ!」
ベスの怒号と同時に、前方の荷馬車の陰から矢が放たれた。
空を裂くような音。
一行の静かな旅路は、突如として戦いの気配に飲み込まれていった――。
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