第27話 「革命」と出会い

「よし、ここだ」


 光精は上から伸びてくる梯子を指さした。アレクセイと杏介が互いの地図を照合させ、頷く。どうやら一致したらしい。


「ここはいわゆる地下二階にあたる部分だ。この梯子で地下一階にあがる」

「地上に出るという話じゃなかった?」

「その後だ。というより、そこにもう一つ出口があってそれを出るとお袋の浴室に出る」


 ほう、とアーデルは関心したように息を吐いた。


「通路を追加したのか。ふむ、こんな地下にまで伸ばしたとは」


 光精はそれを黙殺し、梯子に手をかけた。アキラがすぐに続く。

 全員が梯子を上りきると、先ほどよりだいぶ薄暗い空間が広がっていた。光精が総吾郎を手招きし、総吾郎は彼に駆け寄った。彼は「君は俺の傍で。後ろは滝津」と言うと、歩き始めた。全員、同じペースで歩く。


「正直、来るのは君だけでよかった」


 総吾郎にしか聞こえない声で、光精は呟く。改めて見ると、彼はどこかやつれているように見えた。


「ボスが、やっぱり憎いんですか」


 総吾郎もまた、光精にしか聞こえないように呟く。以前確かに彼は、アーデルへの殺意を確かに総吾郎に告げていた。その理由は、今こうやって傍らに立っていても分からないままだ。


「俺とアキラが五歳の頃、『neo-J』に侵入者が現れた。お袋がクローンを生み出した直後くらいだな」

「クローン?」

「俺からアキラを作って、それが成功したのを見て今度は自身のクローンを三体程作った。アキラはオリジナルである俺と性別を違えてしまった……言いたくはないけれど、クローンとしては失敗作だ」


 振り返ってアキラを見る。彼女には聞こえているのかどうか分からないが、とりあえず彼女は無反応だった。


「それを踏まえた成果が、お袋の完全なる複製品だ。お袋の遺伝子、思想、記憶。全部コピーして出来上がった」

「何でそんなものを……」

「『neo-J』は言わば、『新』日本トップの組織だ。その総帥ともなれば、常に暗殺の危険が付き纏う。いわば影武者だな」


 普通に考えれば、確かに影武者などは用意して然るべきなのだろう。光精は続けた。


「しかしすべての影武者は破壊された。だから今回、本体が戻ってきた。それが今この本部に居るお袋だ」

「戻ってきた……?」


 光精の足が止まる。同時に全員が静止した。光精はマトキを見ると、上を指さす。マトキは頷き、耳を小刻みに動かす。悩まし気な顔をしながら、呟いた。


「うーん、人の気配はしますけど……総帥のものかどうかはさすがに分からないなあ、複数いますし」

「位置的に、ここがお袋の居る屋敷の玄関ホールだ。警備は通常通りなのかもしれないな、それならまだ気取られていないか」


 光精は再び歩き出した。全員、歩みだす。そしてまた、光精の口が開いた、


「お袋の一つ目の影武者が壊されたのは、完成して本当にすぐだった。侵入者がお袋の強姦、暗殺目的で実際それをクローン体相手とはいえ成功させた。お袋は『neo-J』から出た直後で、文字通りの命拾いをしたってことだな」

「まさか、侵入者って……」


 その先は、彼は応えなかった。そこだけを切り取って、続ける。


「その時に何を思ったか、奴はアキラと……『neo-J』において一番最初の成功例である劉浩宇という合成人間を攫った。俺はたまたま公務として外に出ていて、アキラは本部で検診だった。俺とアキラが離れる事なんてそれくらいの事情の時しか無かったから、恐らく内部に奴への漏洩者が居たんだろうな」


 歩みは止まらない。


「奴は逃亡の為に多数の警備を殺害し、二人を連れて外へと逃亡しようとした。気絶させていたアキラが不意に目を覚まし、防衛本能から奴を殺害しようとはしたようだけれど……当時五歳の子どもがまあ敵うはずもないよな。結局そのままみすみす逃す羽目になった」

「……何で、そんな確信を持っているのに『卍』を潰そうとしなかったんですか。アキラさんや、その……一号さんのことも」


 光精は総吾郎を見た。ゾッとする程の、冷ややかな目。


「あいつがアキラの記憶を隠し、おまけに戦闘技術まで作り上げた。あの『種』だ。最高にムカつくけれど、当時の『卍』の奴らは完全に千場樹アーデルの奴隷だった。つまり、アキラ自身が究極の人質だったんだよ」


 確かに何かしらの利用価値はあったのだろう。しかし、自分達の命が脅かされるのであれば、きっと遠慮をなくす。そう、暗示されていたのか。

 背後を振り返る。杏介の隣で歩むアーデルは、こちらの会話に気付いていないらしい。しかし、これで本当に彼の事が分からなくなった。何故、そんな事をしたのか。

 『新』日本を『旧』日本に戻したい、と彼は言った。しかし今までの行動の中で、命令の中で、それに直結することなど一つもしていない気がする。一体、何を。


「ついた。滝津」


 再び停止。大きな水路が、滝のように流れている。

 マトキが聴力を集中させる。首をひねりながら、彼女は答えた。


「……一人います。動いてる様子は無いけど、水の音がする……お風呂浸かってるのかな、シャワーっていうよりは波の音」


 それを聞き、光精は頷く。その左手は、腰に用意された刀をせわしなく触っている。


「この時間をわざわざ選んだのは、単に警備の問題じゃない。お袋はいつも、深夜に入浴する。屋敷内を移動するのはリスクが高すぎるから、ここですぐに決着をつける」


 彼はアキラを見た。アキラは頷くと、全員に向かって告げる。


「私と兄さんが、まず乗り込む。合図を送るから、そのタイミングで全員入ってきて」


 危険な気もするが、恐らくそれが二人の立てた作戦なのだろう。全員が頷く。アーデルは笑いながら、光精の方を向いた。


「謁見の約束は?」

「絶命直前に呼んでやるさ」


 不機嫌そうに言う光精に、アーデルはそれ以上何も言わなかった。

 アキラの左腕から、蔦が伸びる。その姿を見て、光精はどこか泣きそうになっていた。蔦は水路の奥へと伸びていく。しばらくすると、アキラは光精に向かって頷いた。


「人ひとり通れそうなくらいの枠があった。金網は外したわ」

「よし。じゃあ、行くぞ」


 アキラは腰から、蔦を伸ばし始めた。そんなところからも生えるのか、と思ったが今はそれを言う空気ではない。


「合図は、この蔦に花を咲かせる。そのタイミングで、この蔦を使って来て」


 全員、頷く。

 光精はアキラを強く抱きしめた。そのまま歩き出すアキラの左腕の蔦が、縮み始める。蔦の先を、向こう側に引っ掛けているのだろう。引きずられるように、彼女達は水路へと身を落とした。そのまま、水路の源へとのぼっていく。やがてトンネルの向こうへと、姿を消した。


「……さて」


 アーデルはその場に腰を下ろした。全員に目で同じ動作を強いると、顔を見合わせその場に全員腰を下ろした。

 ……彼には、見えていないはずなのに。何故か、逸らせない。


「二人は行ったな。なら、ここで……諸君らには本当の事を話しておこうか」

「本当の事?」


 総吾郎の無意識の復唱に、アーデルは頷く。






 浴室だから当然といえば当然なのだが、彼女は全裸だった。その肢体はあまりにも若々しい。光精とアキラによく似た姿。性別が同じな分、アキラの方がどちらかと言えば生き写しに等しいか。

 息子と娘の突然の来訪に、彼女は確かに動揺していた。しかしそれは一瞬だった。


「人払いを。警備は要らぬ、誰も寄せるな」


 彼女は慌てる使用人にそう告げると、手を振った。ハッとした使用人である女性は、一礼して背を向けた。

 光精の部屋程はあるだろう、広大な浴室。声は確かに反響するが、ミラがああ言ったからには恐らく増援の心配は無い。


「よくもまあ、あんな処から」


 ミラは外された排水溝を見た。人ひとり余裕で通れる排水溝には、アキラの蔦が未だ潜っている。


「娘よ、やはりお前は小僧につくか」


 予想通り、ではあったのだろう。彼女はそこまで驚いた様子も見せず、再び浴槽へと戻った。ざぱり、と小さく波を立て浴槽の湯が溢れた。そのまま、光精とアキラの足首を濡らす。

 光精は一歩、浴槽へ足を踏み出す。


「やっぱりアキラを篭絡するつもりだったか」

「まあ、可能であればな。しかし前回食事を共にした際に分かってはいたさ、娘は結局貴様そのものだ」

「ああ、嬉しいね」


 冷え切った会話。それはあくまで不仲によるものではなく、互いの……相容れぬ目的や正義が水と油のように弾き合っているに過ぎない。その中に家族としての情は一切見えなかった。


「小僧、そんなに『革命』を起こしたいか」


 光精は応えない。ただ、浴槽のへりに立った。そのまま、一糸纏わぬ母を見下ろす。


「ああ、足りないな。お前は最後まで詰めが甘い」

「何?」


 怪訝そうに、眉根を寄せる。その様にミラは笑う事も戸惑う事もなく、淡々と続ける。


「確かに、私の命は贄になる。しかしお前の望む形の『革命』は、それだとまず成功しない。要は使い道だ」

「あんたが死ねば、『革命』は発生する。いや、あんたが死ぬ事で『革命』の抑止が外れ発動するって話だろう」

「そこまで掴んだか。だから執拗に、私本体を誘き寄せようとしたのだな。総帥が本拠地に居ないのは確かにまずい故」

「分かっていたくせに」


 アキラはどうしても混ざれなかった。ただ、蔦の温存に力をかける。


「何故『革命』が国ひとつずつでしか起こらないか。それはな、単に力が足りないからだ。私一人では」


 彼女の目が、光精を捉える。


「お前は日本だけでなく、世界を丸ごと消し去りたいのだろう。壮大な自殺だ、娘もろとも世界を巻き込もうとしているな。しかしその為の代償が私一人の命だなど安すぎるとは思わなんだか」


 初めて、光精の目が揺れた。


「作り変えるでもない。ただ滅ぼす。ああ、壮大だ。このホシすべてを覆う革命、そんなもの原初の一度目で使い果たしたさ。惑星として生まれたこのホシを一度真っ新にし、そこから組みなおした……ああ、あの時は苦しかったな」

「な、にを」

「そうさな、私ひとりの力では無理だった。そしてそんな少ない力をお前にもやった、娘にも幾らか渡っているはずだ」


 ミラの手が、水面を遊ぶ。本当に、何でもないことかのように話は進んでいく。


「私は錠前、鍵が要るな。ああ、女と男の話なぞ子の前ですべきものではないか……しかし雌雄でしか子は成せぬ、それは覆しようのない自然の摂理だ。その法則で言うならば、お前達よりも血が濃いのはこの世界そのものになるな」


 その目は明らかに常人のものではなかった。

 ミラは立ち上がる。光精の手が、刀へ移った。


「世界に芽吹いた命達。それは私という苗床を利用した種達だ。ああ、種蒔き人はただ一人しかいない。私と思想を分かち、それでいて離れられぬとは」

「さっきから何を言ってる!」


 そこで初めて、笑った。


「お前達の父親の話だが?」


 刀が抜かれた。ミラは避ける事なく立っている。即ち。

 血が、浴槽の湯へと融けていく。透明な湯が、次第に赤く染まっていく。彼女の膝が落ちた。光精は息を荒くしながら、刀を床に落とす。アキラもその心拍を受け、動悸を止められずにいた。

 こんなにも、あっさり。

 光精の右手が、ミラの前髪を掴んだ。


「俺達の、父親だって? そんなものは知らない、『革命』の鍵だと?」


 ミラの顔は、未だに死んでいなかった。しかし元々生きている様子も無かった。


「ああ、『鍵』だ。私を苗床にしその支配権を得ても、そこで育つものが無ければ意味も無かろう」


 死に瀕している割には、饒舌だと思う。その目はあくまで穏やかに、光精を見ている。


「世界を殺したいのなら、芽吹くべきものも絶やすしかないな。『革命』は世界を作り変える現象であり、滅ぼすものではないのだから」

「それは」


 光精の言葉よりも先に、アキラの体が崩れた。床を濡らす水が、わずかに飛沫を上げる。ハッとして、振り返る。アキラは意識を失っていた。


「っアキラ!? ど」

「ふぅ、やはりこの体には堪えるな」


 呑気な、声。手が、排水溝から伸びてきた。そこから顔を出したのは、やはりアーデルだった。アキラの体が、ずるり、と排水溝へ流れかける。しかし何とかその場で止まった。意識を失っているらしい。

 アーデルは濡れた服を絞る。その色は、赤かった。


「ふむ、もう済みかけているか。合図が無かったからなあ、少し早とちりだったかな」

「何で貴様っ……! 皆は!」


 アーデルは首を傾げた。しかし、くつくつと笑いだす。


「まあまずはあの合成人間を、と思ったが医者が案外粘ってなあ。今は全員動けなくはなっておる。冥途の土産に真実を明かしてはやったよ」


 その顔は、醜かった。人を騙すために被っていた仮面を脱ぎ捨てた時、人の表情とははこうも清々しく悪に染まるものなのか。

 アーデルの足が進む。そのまま、ミラの傍まで。


「久々だな、我が妻よ」


 その言葉に、耳を疑う。しかしミラは穏やかにアーデルを見上げ、「今更か」とだけ呟いた。


「まったく、よりによって今日来るとは……悪運とは実に恐ろしい、ここまで最悪の事象が重なってくるものなのか」

「それが運命なのだろうよ。億と月日を重ねたこのホシは、ようやく本当の終わりを迎える。すべて溶かして、融合して、ひとつの命となる日が来たのだ」


 二人の会話の意味が分からない。

 アーデルはこちらを見ると、ニヤリと笑んだ。


「喜べ、息子よ。お前の望む崩壊は漸く訪れる。そのままお前は望み通りアキラと共に不幸な穢れた生を終え、そして私が」


 アーデルの手が、ミラの体を抱いた。


「……再びこの日本を、否、世界を、ホシを。妻の力を使い潰し、再生させる。あの大陸を取り戻し、無の楽園へとな」





 かつて空いた穴は、帰還を待つが如く変質せずにそのまま存在していた。

 海の満ち引きや引力の絶妙なバランス、あらゆる物理学を考慮した上で『neo-J』観測部は予測した。「あの大陸はやがて戻ってくる」と。そしてそれは、『革命』のような超常現象として降り立つと。そしてその日付まで、彼らは最新の機器と鋭利な勘で突き止めた。


「……北西海岸部風圧の変化確認。ご確認を、秘書官」


 職員の報告に、ザラーヴァントは頷く。観測部は『門』のすぐ傍に天文台として設置されており、今すでに人員がフル動員されている。百余名もの職員が、バタバタと走り回っていた。


「しかし時間が早いな。一時間程の誤差という話だったのではなかったか。まだ朝五時だぞ」

「そればかりはやはり予測ですので……精度に関しては九割あれば、といったところでしょう。申し訳ありません」

「構わん、仕方あるまいよ。それよりも観察を怠るな」


 やはり、光精の勘は当たった。


『あの女が革命に関係あるのは確定、問題は大陸だ。観測部の結果とのズレがあるとしたら、その時は』

「……総帥は、死んだか」


 ザラーヴァントの呟きは、誰にも拾われる事なく消えた。





 動けない、歩けない。アキラの姿も背の奥へと隠れている。たった今アーデルの短刀により一瞬で腹部を刺され、正直絶体絶命といっても差し支えは無かった。血が、どろどろと床を伝っていく。

 下に居る人員が全員動けないとなると、自分しかいないのに。それでも目の前の光景を睨む事しか出来ない。


「この双眸、懐かしいだろう」


 アーデルはミラの元へと戻り、左手でミラを支えながら囁いている。ミラの胸元は、もはや一切の鼓動を見せなかった。


「お前が『よい石がある』と、『革命』を直視したせいで潰れたこの目に宛がってくれたな。ふふ、視えるものはなくとも私は心眼を手に入れられたし……何より、お前の存在を常に感じられたよ」


 彼の右手が、眼窩へ潜る。人差し指と中指が、彼の……光を弾く義眼をぼとりと落とした。ふたつの義眼を掌で転がしながら、アーデルは笑む。それは未だ、悪役の笑みだった。


「ああ、私の肉を外したぞ……お前に還そう、巫女よ。大陸を呼び戻す、鍵よ」


 ミラの口をこじ開け、二つの義眼を押し込む。顎を閉じさせると、アーデルは浴槽へミラの遺体を浮かべた。


「私の血肉を吸い続け、お前に戻す……く、く。光精を造った時のように、お前の体と溶け合う」


 光精は腕を伸ばした。床のタイルに爪を掛け、這いよる。意識が朦朧としてきているが、そんな事は言っていられない。奴を、止めなければ。


「近付いているな。お前を取り戻すためか……それとも、鍵が揃ったからか」


 血が、抜けていく。自らを構成する血が。

 アーデルは浴槽から出た。そのまま、光精の目の前まで歩む。彼の目線に合わせしゃがみ込み、口を開いた。


「神とは、傲慢な程に潔癖だ。その大いなる力で気に食わぬ穢れを雪ごうとする。しかし無に還った世界は、それでも自動的に命が芽吹くようになる。それが神に気に入られるかどうかなぞ、気にして皆生きる事は無いな?」

「っ、アー……デ……」

「今にも死んでしまいそうだな、光精。悔しいか。悔しいだろうな。アキラを取り戻したとは言え、すべての元凶が目の前に居て。そして」


 血の繋がりをすべて憎ませるような、カオ。


「再びアキラは奪われる。お前の目の前で」

「……っ!?」


 アーデルは歩き出す。光精の、後ろへ。アキラの、もとへ。首を傾けようにも、もう駄目だった。力が入らない。

 アキラ。だめだ。にげろ。言葉にしきれず、光精の意識は途切れた。


「さて、我が娘よ」


 アーデルは、未だに意識の戻らないアキラを抱きかかえた。ミラとは違い、まだ息はある。気絶しているだけだ。

 正直本音はと言えば、自身と同性である光精の方を生かすべきだったのかもしれない。しかし、彼は確実にアーデルの意志を呑みはしなかっただろう。そういう意味ではアキラの方がまだ可能性はあるし、何より光精のクローン体だ。恐らく、危険は無い。


「世界を組み直そう」


 父と娘であるはずなのに、その言葉はあくまで同盟を呼びかけるための口説き文句のようだった。アキラは、応えない。未だ眠り続ける。体の一つ動かない。

 しかし、彼女を引きずる重力の存在があった。


「なんだ?」


 下の人間は全員殺した。というより、致命傷を与えた。まさか。

 一瞬、重力が強まりアキラを持っていかれそうになる。それを反射で止めると、白い腕が見えた。それは床を掴むと、その身をせり上げた。


「何故生きている」


 彼の、頭蓋を割ったはずだ。その感触も覚えている。自らの素手で割ったのだから。

 総吾郎は息を荒げながら、浴室の床に立った。


「反射神経は、アキラさんと散々鍛えたので。頭に攻撃が来るのを見計らって、間一髪で避けました」

「頭蓋骨を割ったはずだ。感触も間違えるはずがない」

「俺を床に押し倒して、殴ったでしょう。拳が、床に当たってたんですよ。心眼で見えるって、やっぱり『相手からくる動き』だけなんですね。光精さんとの斬り合いを見てて、思ってました」


 笑いがこみ上げてくる。よくもまあ、ここまで素直に事が運んでくれないものだ。

 ……それでも、近付く感触はある。もう少しだ。


「なるほどな。私も詰めが甘かったということか」

「アキラさんを返してください」


 真っすぐな、瞳。その圧は、盲目であれひしひしと感じられる。そんな目を、アーデルはかつて何億と潰してきた。


「アキラは贄だ、二つ目の。先程言っただろう。君は私の計画の証人だ。君以外、全員死んだんだろう」


 総吾郎は、何も応えなかった。ただ、その体が夥しい量の怒りを纏っているのは分かる。

 ああ、近付いている。もう少しだ。

 総吾郎の足取りもまた、近付いている。その、怒りも。


「……絶対に思い通りには、させない」


 空気が、凍りだす。『種』か。恐らく、林古が持っていたものだろう。

 アーデルはアキラを抱え、立ち上がる。

 体感計算で、恐らくあと十分も無い。それさえ終えれば、すべてが終わる。何もかも無意味だし、先程すべて説明した彼には理解されているはずだ。

 止められない、と。それは、アーデルを殺したとしても。何故ならば……現象故に。


「はぁっ!!」


 音を立てて、床に撒かれた水が凍りだす。跳躍し、足を取られないようにしながらも凍り切った床に着地した。背後で浴槽がより大きな音を立てていくのを感じる。あそこにいれば、一瞬で凍死だっただろう。

 ……怒りが、重い。冷気と化し、びりびりと身を焼きにかかってくる。


「逃がさないっ……!」


 走る。しかし彼はただ逃げる。アキラを抱えたまま。総吾郎が掴んで昇ってきたあの蔦は、未だひらりひらりと揺れていた。空気を伝い、彼の足へと冷気を向ける。しかし痩せ切ったその足には、凍らせる程の水分が無かった。

 総吾郎は床を滑るようにして、アーデルを追った。しかし彼もまた、滑る。まるで、ただ逃げられているだけのようで。完全なる時間稼ぎに感じ、苛立つ。


「ああ、そろそろ時間だな」





 確かにその圧は感じていた。アーデルからすべて聞き、そのせいでもあったかもしれない。嫌な空気だった。

 ……遥か北西。海が、荒れていた。広く空いた穴に、大陸は堕ちていく。誰もが触れられぬよう神秘のプロテクトをかけられ、数百年の月日を経て降り立つそれはもはや装置と言えた。

 ミラの体。アーデルを通し、穢れた世界を見続けた二つの石。それは確かに融けあった。主を迎えに来たかのように、それは堕ちてくる。

 大接近し、そのまま……記録的な津波を四方へと広げ、大陸は海へと堕ちた。

 白い、光。それを奇跡的に目の当たりにした生物は皆衝撃派だけでその身を潰した。


 ――前代未聞、最大規模の『革命』が始まった。

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