第30話 癒しの時間
バノックはスコーンを作る特技以外にも万能だった。
「お願い、もう少し優しくして」
「ダメです。ちゃんと僕を見て。顔が見えないとどこが良いかがわかりません」
「なんで、そんな所押すのっちょっと痛いよ……」
「身体は繋がってますから、固くなってますねぇ。ほら力抜いて下さい。行きますよ?」
ガタンと隣室から大きな物音がして、振り返るとバノックが足裏から手を離した。足ツボマッサージというのを受けていたのだが……?
「何か今ものすごい物音がしなかった?」
「本が落ちたのでは? 続きします?」
「ううん、もう大丈夫。本当だ! 身体がぽかぽかして、肩こりも軽くなったわ。ありがとうバノック」
バノックのおかげで肩甲骨周りがほぐれて指先まで血流が良い。なんだかんだ疲れていたのがわかった。少しぬるくなったミルクティーを飲み干す。
歯磨きをしに洗面所に通じる扉を開くと、洗面所の蛇口の水が出しっぱなしだった。
あれ? 私、蛇口をしめ忘れたかな?
バノックはスコーンを焼くだけでなくマッサージ師としても有能そうだ。その日の夜はとってもぐっすり眠れた。
*
「おはようございます、アナスタシア様」
翌朝、バノックの声に目覚めて伸びをする。
「あれ? エマは?」
「エマ様は本日は休暇です。代わりにボクが起こしに伺いましたが、不要でしたか? もう10時です」
「ええっ! 10時? 着替えなくちゃ」
ベッドから飛び降りると、ソファーの上にドレスが用意してあった。
「エマ様がご不在ですので、最近の装いを参考に選ばせて頂きました。いかがでしょうか?」
「ありがとう。あとは自分でやるから」
顔を洗って簡単に身支度をと思うと、律儀に壁を向いて背を向けていたバノックが声をかけてくる。
「お召しになるのお手伝いしましょうか?」
「いいわよ、少年。君はスコーンとマッサージをしてくれたら十分よ」
「アナスタシア様。ボクは無性です。少年と言われても外見的特徴はありません。それに他にも様々なことをお手伝いできます」
そんな説明は求めていないが……早くしないとニールが休日の朝なのにニールが食事を終えてしまう。肩が上がるようになったのに、体が硬いせいで肩甲骨の真ん中あたりのボタンがはめられない。
「ごめん、バノック。やっぱりボタン止めて」
「わかりました。目をつむって止めますね」
バノックの指先が腰の部分に当たる。
「ヒャっ。肩甲骨のボタンよ。そこは腰」
「すみません。目をつむっているので間違えました。ここが背骨ですから……」
ツーッと指先が腰から背骨の上を通って上がってくる。ゾクゾクとした変な感じがしてバノックが肩甲骨の真ん中あたりのボタンをとめた。
「………もう、変な触り方をしないで!」
「申し訳ありません。アナスタシア様。一度覚えれば次はわかりますので」
振り返って咎めるとバノックは目を閉じたまま顔を曇らせた。まぁ、頼んだのは私の方だよなぁ。
「頼んだくせに怒ってごめんね。大丈夫、初めのうちは失敗はつきものだわ。食堂へ行きましょう」
「ありがとうございます。ちょっと部屋の片付けをしますので、2分お待ちを」
バノックはエマ顔負けに手早くベッドを整え、選ばなかったドレスをしまい、セットを忘れていた私の髪にクシを通して艶々に仕上げた。
「化粧水だけですか? 保湿は大事です」
バノックは手慣れた手つきで洗面台から乳液の小瓶を出して絶妙な力加減、効率的なマッサージを施す。
手鏡には血色が良く、いつもより引き締まった私の顔が映った。自分でするよりバノック任せた方が良さそうだ。
「バノックってすごいのね」
「お褒めいただき、とても嬉しいです」
バノックは柔らかく笑う。できる従者に関心しつつ、私たちは食堂へ仲良く降りていった。
*
ニールは私の顔をまじまじと見つめ、手していた新聞はバサっと音を立て床へ落ちた。
「おはよう、ニール。新聞が落ちたわよ?」
固まるニールに代わり、セバスチャンが新聞を素早く拾い上げ、私はニールの斜め前の席に行くと、バノックがタイミング良く椅子を引いてくれる。
「ありがとう、バノック」
「いいえ、アナ。お気遣いなく」
ニールが唖然とした表情のままこちらを食い入るように見つめ、バノックの爪先から頭のてっぺんまで訝しむように、視線を送った。
「どうしたの? ニール? 何か変?」
「……いや……何でもないが、バノックとは何の暗号だ?」
「暗号じゃなくて、彼の名前をよ。この自動人形の。名前を付けたらって、エマが言ったから」
「エマが……? それで君はあまり好きでは無いはずの自動人形に名前を付けたのか?」
「いけない?」
「いや、いけないとは言わん。別に構わないが一晩でずいぶん対応を変えたんだな」
セバスチャンが拾い上げた新聞をニールは読まず、ティーカップを取り上げるとバノックに視線を向けた。
「そうかな? 名前を付けない方が良かった?」
「それとかあれではダメなのか? それにその人形……君の部屋にずっといたのか?」
「まぁ、だって置く所がないし。今朝のメイクも彼がしてくれたの。スコーン焼きだけじゃなくて、マッサージもうまかったわ」
ニールが咳き込んだ拍子にカップに残った紅茶がテーブルの上にこぼれ、白いテーブルクロスにシミができる。慌てて立ってニールの背中をさすってあげると彼は頭を抱え俯いた。
「ニールっ、大丈夫?」
「セバスチャン……片付けは後で……一旦、下がってくれ」
「はい」とセバスチャンは察したような顔つきで食堂から出ていく。従者のジョンも休みなのか、バノックが代わりに私の前に朝食の乗った軽食(もちろんスコーンもある)を置いた。ニールが顔を上げた。
「アナスタシア……その……その人形……とりあえず2階の遊戯室に置いてくれないか?……不安だ」
私の代わりにバノックが微笑みながら応えた。
「旦那様。僕は無性です。昨夜のマッサージも足ツボでして、足ツボは地球にある中国大陸の……」
「バノック、お前は黙っていてくれ。アナ、自分でも心が狭いやつだと思うと思うが、治療院にも自動人形と子どもを作りたいと言ってくるご婦人が毎年一定人数いる。君を疑いたくないから遊戯室に置いて欲しい」
ニールは額に落ちてきた前髪をかき上げ、視線を彷徨わせ、すがるような眼差しを向けてくる。
百貨店の屋上で口づけしたことを思い出し、体が芯からじわっと熱くなった。
嫉妬? 何だか抱きしめたくなるし、愛しい。ちょっと照れ臭くもあるけど。
「ごめんね、軽率だったわ。ありがとう」
椅子が音を立て、突然ギュッとハグされて心拍数が跳ね上がる。
「都合が良い男ですまない。昨日の晩は何もなくて安心したよ。足裏や顔に触れたんだよな?」
ニールの大きな手のひらが私の頬を包む。
「ニ、ニール。バノックがそこで見てるわよ」
「構うもんか。ただの人形だろ?」
朝からハグしてくれて、キスしてくれるのは嬉しいけど、人に見られているみたいで、恥ずかしすぎる。我に返った彼も同じだったようで、目頭を手で隠した。
「すまん。紳士的じゃなかった。お腹すいただろ、食事を食べよう」
「大丈夫よ。誰も見てるわけじゃないし。嫉妬されたり求められてるのは嫌じゃない」
彼が肩をすくめて口端を上げる。
「アナスタシア、俺は貴方の優しさに癒されてばかりだ」
「それはお互い様よ、ニール」
結局バノックは2階の遊戯室に置いておく事になった。
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