第11話 アクアリウムでの気付き
ライトアップされた水槽の水面がゴシック様式の聖堂の天井にゆらゆらと反射する。本物を間近で見られるシーライフ・アクアリウムの展示も私の興味は引かなかった。
「アナ。ガーデンイールが愛らしい顔を砂地から出しているよ。花畑のウサギとは上手い名付けだな」
「そうね」
砂底から顔を覗かせる魚は細長い。白と黒の水玉模様、黄と白の縞模様の魚は伸び縮みしている。
「……ドルフィンショーでも見にいくか?」
「そうね」
ニールは根気強く、いくら私が冷たくしても色々と話しかけてくる。
「アナ。朝食の時も同じセリフを繰り返していたが大丈夫か?」
「そうね」
彼が5回目のため息をつくと、8回目の謝罪に入った。
「アナ。昨日は悪かったよ。急性アルコール中毒は初期対応が大事だ。わかってくれ」
「……わかってる」
私だって昨夜は車両の規則的な揺れと彼の残したシダーウッドの残り香に眠気の限界がきてベッドでジャケットに顔を埋めて眠ってしまった。
患者だって悪いわけじゃない。一番怒っているのは、目が覚めたら彼が私に居なかった事だ。
「アナ、不満は溜めずに言ってくれないか?」
「だったら言うわ。私が目覚めた時、どうしてあなたはソファーで寝てたの!」
展示室に私の声が響き、ドレスを来た夫人やスーツ姿の紳士の注目を浴びしまう。
「……すみません」と行き違いになった方々に謝罪し、踵を返すともときた道へ戻る。早足でサーディンが群れをなし泳ぐトンネルの中へ行く。
「眠っているアナを起こしたくなかったんだよ」と言ってニールが追いかけてくるが、聞こえないフリをしてズンズン歩いた。
だけど彼の歩幅は広く私の前に素早く回り込む。分厚い強化ガラスに手をついて、私の行く手を遮った。すれ違うご婦人達のグループが「まぁまぁお熱いこと」などと
「アナせっかくの旅だ。仲直りしてくれないか?」
「貴方のリストに挙げたら?『夫婦は仲良く過ごすこと』って」
「リストで縛りたくはないんだよ。分かってくれ」
「私だって魚みたいにポコポコ卵を産める体なら良かったと思うわ。でも触れてくれなくちゃ何も始まらないでしょ」
ニールは私を抱き寄せた。顔を背けると後頭部を抱き寄せられて胸板に耳がつく。たくましい腕の上をサーディンが群れをなして泳ぎ、スティングレイが白い腹を見せて私たちの頭上、水槽の底を泳いでいった。
「アナ、私の心臓の音が聞こえるか?」
静かな海底の中には二人だけしかいない。ニールの心臓は全力疾走したかのような小刻みな心音を繰り返す。それに私を抱きしめる彼の腕はわずかに震えていた。
「……聞こえる」
「君を抱きしめると、こうなるんだ。だから焦らなくて良い、まだ夫婦出会って三日目だ。互いにゆっくり知っていかないか。きちんと君を知りたいし、私もいずれきちんと話すから」
サーディンの群れが近づいて私たちの頭上を泳いで去った。サーディンは仲間とあんなに近い距離を泳ぐのに衝突することなく同じ方向へ泳ぐのね。
「ニール……」
「何だ?」
「朝ごはんを食べなかったから、お腹がすいたわ……スターゲイジー・パイかオイルサーディンとにかくイワシが食べたい」
ニールが私を抱きしめたまま笑い声を漏らした。
「そうだな。通りに料理店があったはずだ。もうじき昼だし行ってみるか?」
そっと手を握られ並んで私たちは歩き出した。握られた手が大きくて、冷たい彼の手のひらの中でモゾモゾ指を動かしていると、彼がそっと指を絡めてきた。思わず視線を上げるとニールは何も言わずに目を細め、ぎこちなく向けられたほほ笑みに胃のあたりがギュッと掴まれた。
通り沿いの『海幸ポセイドン』は上流階級から労働階級まで、観光客でごった返していた。さいわいテラス席が空いていて、リゾートの白い建物の向こうに碧く透き通った海が見えた。
日に焼けた女性が注文を取りにきて、私たちの間にメニューを広げた。
「いらっしゃいませ。おすすめはこちらの新鮮海鮮丼、それから季節魚のスシ、刺身盛り合わせになります」
「加熱した料理はないの?」
「それでしたら一枚メニューをめくって頂いて、フィッシュ&チップス、サーディンの香草焼きとパンのセットもおすすめですよ」
「アナは生魚は嫌いなのか?」
「嫌いっていうか……ホースラディッシュの風味が慣れないだけ」
「あぁ、ツンとした辛味が苦手なんだな。ならばそれ抜きで別添えにしてもらえる? あとはサーディンのセットを」
女性はにこやかに頷くと注文を取りメニューを下げた。しばらくすると恰幅の良い女将さんらしき人がやってきた。
「はい、スシとサーディンのセット。取り分けのお皿をどうぞ」
ニールは魚の切り身の乗ったスシを私に取り分けてくれる。フォークでシャリを一口にしようとすると彼は「こうやって食べると美味い」と指でつかんで見せた。赤身は一度に彼の口に収まる。同じように食べてみると口いっぱいにシャリがほぐれてソイソースをまとった白身と一体になって美味しかった。
生臭さは少しも感じない。弾力のある歯応えと甘みのあるシャリは風味豊かなソイソースとよく合う。
「そういえば、なぜ睡眠魔法の後は感覚が鋭くなるのかしら?」
ニールが少し気まずそうに目配せして私が取り分けた香草焼きにナイフを入れる。
「魔術的に言えば、脳の中に流れる魔脈の不要な情報が圧縮されて使える部分が増えるからだと言われている。魔石を多く埋め込んでいる君には使うべきじゃなかった。まだ身体がしんどいか?」
「いいえ大丈夫よ。それにもう怒ってもいない。あなたなりの優しさを受け止める」
ニールがナイフを動かす手を止めた。
「急にどうしたんだ?」
私は努めて和かな笑みをニールに向けた。魔法汽車で抱きしめられた時は動揺して気が付かなかったけど、アクアリウムで彼の震えを感じて確信が持てた。ニールはきっと触れるのが苦手なんじゃないかな? それなら清い関係と言った理由に説明が付く。
「ううん、何でもないの。サーディンに教えられたの。ぶつかり合うだけが仲間ではないって。この香草焼きも美味しいわね」
笑みが消えかけて視線をサーディンに落と。してごまかす。ニールは私の心情を理解したかのように手を動かさなかった。赤ちゃんの先生って相手の心の動きに敏感なのかな?
「アナ……」
「なぁに?」
ぎこちなくならないように気をつけながら、私は微笑みを彼に向けた。聡い彼にバレてるかもしれないけど。
彼は何かを察したようなものいいたげな視線を向け、まぶたを伏せた。
「……いや……何でもない。……そうだ。この後マルシェをのぞいてから宿に行こうか?」
「賛成。素敵だわ」
店を出てからも、彼は手を繋ごうとしてきたけど、私は海風ではためくドレスを押さえてやんわりとごまかした。全ては優しい彼のために。
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