第8話 最悪な目覚め
最悪な気分で目を開けると、テーブルの上の香炉は片付いていた。大口を開けて眠ったためか、声も出せず身体中が思うように動かない。しばらくしてエマはニコニコしてやって来るとベットから私を下ろす。釈明したくとも声がでない。仕方なく黙って着替えを任せ、手を引いてもらって食堂へ降りた。
朝食を終えたニールは涼しい顔で新聞を読んでいた。一面にある『魔術軍が西ノ蛮国に勝利』との見出しが目に入り、挨拶もそこそに席に座った。
セバスチャンが焼きたてスコーン、あんずジャム、紅茶を置いてくれる。指の関節はまだおかしくてシュガートングからポチャンと音を立てティーカップに角砂糖が落ちた。
うんざりしつつティースプーンを回し、両手でカップを持ち上げ、やっとの思いで喉を潤せた。
スコーンを食べる元気がまだない。新聞の陰から私をうかがっていたニールが新聞を折りたたみテーブルに置いた。
「どうしたんだ、アナ。食べられないのか?」
悪びれていないところが全く憎たらしい。
「おかげさまでね。昨日はひどいやり方をして下さったから、大好きなスコーンも口に入らないわ」
エマが食堂の端で「まぁ」と思わず口元を押さえていたが、今さら訂正する気力もない。
「悪かったよアナスタシア。隣に失礼するよ?」
返事も待たずにニールは立ち上がり、私の左横に座る。スコーンを手に取って大きな手で割るとあんずジャムをつけた。
私の代わりに食べるつもりか……
「はい、アナ。口を開けて……あーん」
目の前に差し出されたスコーンに驚く。
思わず彼に目を向けると、ニールはわざとらしくにこやかな笑みを作った。
「どうした? 昨夜はあんなに大きな口を開けてくれたじゃないか?」
背後に控えていたセバスチャンが突然咳き込み、新聞を片付けに来た従者のジョンが手から滑らせて床に取り落とす。エマに至っては顔を両手で隠している。思わず大声が出た。
「こ、こんなところで、変なことを言うのはやめて! 使用人が聞いているでしょう?」
「冗談も大切だろ? それだけ口が元気に動くなら食べらそうだな」
そう言いつつ、自分でスコーンをパクりと一口で食べてしまう。
「冗談のつもりだったわけ? 全く笑えないわよ」
「笑えないのは事実だからか? だがアナスタシア、眠るときは口を閉じて眠った方が健康には良いよ」
いけない、これ以上何か言っても墓穴を掘る気がする。ニールは愉快そうな笑みを浮かべたまま、半分になったスコーンにあんずジャムを塗って私に差し出した。
「また食べさせた方がいいか?」
「いい! 自分で食べられます」
腹が立ってスコーンをひったくり口に頬張る。もぐもぐ……もぐもぐ……
思わず2個目に手を伸ばしてスコーンを割ってジャムを塗り口に頬張るとやはりいつもより美味しく感じた。そう言えば紅茶も美味しい。
「ゴクン……何かこのスコーン特別な材料でも入れているの?」
3個目のスコーンを手にとってニールに尋ねると彼は微笑んで椅子から立ち上がった。
「アレをした後は、感覚がリセットされて研ぎ澄まされるからね。かなり美味しく感じるはずだ」
意味深な言葉をわざと使われたことに思わず眉根を寄せると、エマが親指を立ててウインクしているのが視界に入った。だからそういう意味じゃないって!
「アナスタシア」
誤解させた当人に文句を言おうと思ったが、視線を合わせるように屈んだニールに見つめられ言葉を飲み込んでいると、ふと彼の首元に視界が遮られた。そして額に、不意打ちのキス。
な、なななな。
思わず口をあんぐりと開けてしまう。
「昨日は悪かった。これで許してくれ」
にらみ返そうと視線をあげると、思いほか彼は真面目な顔を向けていた。近くで見る彼の碧眼は波のない冬の海のように物静かだ。
もっと言えば哀しそうな目で、こっちが罪悪感を感じてしまう。
戸惑う私から彼は離れるとテーブルの上のポットを手に取り、優雅に紅茶を私のティーカップに足してくれた。
「旅行の出発は昼に遅らせた。まだ出発まで2時間はある。ゆっくり朝食を楽しんで」
そっか……旅行だった。昨日は食事に集中していて予定が上の空だったが、昨日の夕食時にハネムーンに行くって言ってわ……。
昨夜、夕食の席で魚のパイにさしかかった所でニールは私に切り出した。
『披露宴ができない代わりに汽車に乗って二人で遠出しないか?』
披露宴と新婚旅行は一緒に行うのが常識だったので、披露宴がなければ旅行もないと思っていた。
だから私は危うく魚のパイを床に落としそうになった。
『ご立派なお部屋に用意してくれたのに、旅行まで良いいの?』
側に控えていたセバスチャンが補足した。
『旦那様もなかなかまとまったお休みは取れませんので、どうかご一緒して頂けませんか?』
『旅行は好きだし構わないけれど……どちらへ?』
ニールはほっとした様子で表情を和らげた。
『ありがとう。さっそくで悪いが、明日から海辺の温泉街に宿を手配している』
彼は心から嬉しそうにそう言ったのだ。私も内心は嬉しい。二人きりなら彼を知るいい機会だ。
まぁ今度こそ眠らされないように、気をつけないといけないけど。
そんな事を思い出しつつ、紅茶を急いで飲むと、エマを連れて3階へ上がる。おっと、まだ足がおぼつかない。
「大丈夫です? お嬢様。……その、やっぱり激しかったんですね」
ちがーう! 誤解は解かないと……。
「違うわよエマ。ただ早く寝ろって睡眠魔術をかけられただけ」
というより、激しいの前になぜ「やっぱり」という言葉をエマは付けたのよ? 口に出すとややこしくなるので心の中で突っ込んでおく。
「なーんだ。旦那様がアグレッシブだったのかとエマは思ってしまいました。でもまぁあんな冗談を言われるなら、お嬢様が心配するようなことも無いでしょう?」
いやまぁ確かに真面目一辺倒というわけでもななさそうだけど……軽くからかわれたのか、気遣われたのかわからないが、彼を攻略するのはなかなか難しそうだ。
エマに支えられつつ3階へ上がり、自室で着ていくドレスの支度をする。
「そういえばどこへ行くんだっけ?」
「もう、お嬢様ってやっぱり昨日は食事に夢中で、旦那様やセバスチャン様のお話を聞いていらっしゃらなかったんですね?」
「う……ごめん。ご飯が美味しくてちょっと上の空になっていたかも」
エマがやれやれと首を振った。
「今日から3泊4日で海辺の街まで行くんですよ? 温泉ですよ温泉! エマが特別なものを荷物に入れておきましたからね。お楽しみに!」
「何? 特別なものって?」
「秘密でーす」
エマは愛らしい笑顔を私に向けた。
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