第58話【りんごジュース】


「大分熱が下がってきたわね。何か食べられそうな物はある?」

「......りんごジュースが飲みたい」

「話聞いてた? 私はいま食べ物って聞いたんだけど」

「えーいいだろ母ちゃん。こっちは病人だぞ。それに母ちゃん、俺が風邪で寝込んでる時にしかりんごジュース作ってくれないじゃんか」

「そりゃあんな手間のかかるもの、そう頻繁に作ってやれるわけじゃないからねぇ」

「いいから早く作ってくれよー。作ってくれきゃこの風邪、一生治んないかんな」

「はいはい分かったわよ。じゃあこれからちょっと作ってくるから、あんたはその間にもうひと眠りしてなさい」

「はーい」


 *


「......さん......吉田さん!!」

「んっ......沙優? どうして......」


 確か仕事を早退して、家に帰ってきて、それから......ダメだ。そのあとの記憶が全く思い出せない。

 ひんやりとした床の上、ぼーっとする頭で事態を把握しようする俺の胸元に、沙優が突然のしかかった。


「バカ! 吉田さんが死んじゃったんじゃないかって心配したんだから!」

「んな大袈裟な」

「だって部屋の鍵は開いてるし、開けたら吉田さんが倒れてて......そんなの最悪な想像するに決まってるでしょ!!」


 目の前に迫る沙優の瞳からは大粒の涙が。不意に出てしまった言葉とはいえ、心配する彼女の気持ちを無下むげにする態度に、俺は強く後悔した。


「......すまなかった。沙優の気持ちも考えずに」

「うん......でも良かった......生きててくれて」


 いや全然良くはないんだが。とは安堵する沙優に言いづらい。


「ところでお前、なんでこんな平日の昼間からうちに来てんだ」

「.....吉田さん、今日は何曜日?」

「......あ」


 そういえば沙優が金・土と泊まりに来ると言ってた気が。

 玄関にその食材が入ったビニール袋が放置されたままになっている。中からは長ネギやらカレーのルーなんかが飛び出し、多分倒れてる俺を発見し慌てて駆け寄ったんだろう。沙優には本当に悪いことをしてしまった。


「もしかして吉田さん、どこか具合でも悪い?」

「当たりだ。だから早くどいてもらえると助かる」

「ご、ごめん」


 このままこうして沙優の温もりを感じていたいところだが、心は癒されても身体のほうが益々悪化してしまいそうだ。現にちょっと背中と後頭部が痛い。

 名残惜しそうに俺の胸元から上体を起こし、そのままおでこに手をつけ熱を確認する。と、今度は顔色を変えて自分のおでこを密着させた。

 長いまつ毛に光るものが付着し、キラキラとした輝きを見せている。


「――いつから?」

「週の頭くらいから」

「もう、なんで言ってくれないの!」

「いやだってお前、家遠いだろ。たかがこの程度の体調の悪さで迷惑かけるわけにも」


 沙優が今住んでいる場所はここから電車で約一時間の距離。

 北海道の実家に比べたら大分だいぶマシにしても、往復二時間というのは地味にある。


「へ〜。部屋に入ってすぐ倒れた人がねぇ」

「......すまん」

「あきらかに吉田さん熱あるよ。体温測らなかったの?」

「熱があったところで納期は止まってくれないからな。仕事してりゃ多少は気が紛れるし」


 じとっとした視線向け、呆れを含んだため息を吐き出す沙優。


「あのね吉田さん。吉田さんはもっと自分を大事にしたほうがいいと思うよ。吉田さんの身体は、もう自分一人の身体じゃないんだからさ」

「......それ、男が身重みおもの奥さんに言うセリフだろ」

「うるさいっ! いいから早く黙って布団に入りなさい!」


 怒った沙優から額に軽くデコピンされてしまった。

 体調が悪いはずなのに、沙優と話しているだけで不思議と元気が湧いてくる。

 肩を借りてベッドのある居室まで行き、その場ですぐに部屋着に着替えてベッドの中へと潜り込む。

 カーテンの隙間からは茜色の夕陽が差し、暗がりの居室に淡く綺麗な線が加わっている。


「その様子だとご飯もまともに食べれてないんでしょ。おかゆでも作ろうか?」

「おかゆか」

「おかゆ無理っぽい?」


 キッチンで買ってきた食材を冷蔵庫にしまう沙優に、いま無性に飲みたいものを言ってみた。


「なぁ、りんごジュースとか買ってきたりしてないか」

「りんごジュース?」


 普段ジュース類をほとんど飲まない家にまさか買ってきたりはしないよな。


「りんごジュースはないけど、作ろうか?」

「え?」 

「ちょうど夕飯のカレーの隠し味用にりんごを買ってきてあるんだよね。私が昔100円ショップで買ったおろし金も残ってるし、コンビニで買ってくるよりも早いよ」


 わがままは言ってみるもんだ。

 いまの俺には市販の食品添加物まみれの甘ったるいりんごジュースより、余計なものが一切入っていない、素材本来の甘味のみのりんごジュースのほうがありがたい。


「じゃあよろしく頼む。無理して丸々一個すらなくていいからな」

「は~い」


 キッチンと居室の間から沙優がひょっこり笑顔を出す。

 体調が悪い時。誰かが家にいてくれるのは本当に心強い。

 一人暮らしは誰に気を遣うわけでもなく自由に過ごせる反面、今回のような普通じゃない状態が起きた場合、全て自分で処理しなければならない。

 エプロンを身に着けおろし金で早速りんごをすりはじめるパートナーの後ろ姿に、改めて俺は感謝の気持ちを贈った。


「――どう? 美味しい?」

「......ああ。すげー美味うまいよ」


 起こした身体で一口飲むと、りんごの優しい甘さが弱った全身に一気に広がり、癒しを与えた。 

 頬を引っぱたくような栄養ドリンクの刺激的な味ではこうはいくまい。


「ふふ。良かった。でも吉田さんがりんごジュース飲みたいだなんて意外だね」

「そうか」

「うん。吉田さんってほら、甘い物そこまで好むほうじゃないし。やっぱり体調悪くて味覚がおかしくなってるせいなのかなって」

「それもあるだろうが......思い出したんだよ」


 沙優が小首を傾げる。

  

「俺がガキのころ風邪引くと、おふくろがよくりんごジュースを作ってくれたこと。おふくろは沙優みたいにお世辞にも料理が上手いほうじゃないんだが、あの人が風邪引いた時にだけ作ってくれるりんごジュースが妙に美味しく感じてさ」

「いい思い出だね」


 昔の沙優になら言いづらかったかもしれないが、母親と正面から向き合った今の沙優にならきっと問題無いはずだ。

 そう思ったら、沙優に俺のことをもっと知ってもらいたくて。昔話を話していた。


「りんごの繊維が全部細かくなってなくて、こんな風にたまにちょっと大きめな欠片かけらが入ってるのが、また得した気分でいいんだよな」

「吉田さんのお母さんも多分すり金ですりおろしてたんだろうね。ミキサーじゃそうはならないだろうし」

「結構大変だったろ」

「まぁ、それなりに、ね」


 量からしてどのくらいすったのかは検討がつかないにしても、女性の力でりんごをするのはなかなか重労働だろうに。

 そりゃおふくろも特別な時にしか作ってくれないわけだ。


「でも大好きな人のために作るのは全然苦じゃなかったよ。むしろ幸せな気分だった。吉田さんのお母さんも多分、早く直って元気な姿を見せてほしくて作ったんじゃない」

「......だといいな」


 最後に会ったのはいつだったか、ぼーっとした頭ではすぐに出てこない。

 しばらく実家にも帰っていないことだし、丁度いい機会だから沙優を連れて久しぶりに帰省するのもありではある。

 しかしあの二人の前に、こんな若くて美人JDな彼女を連れて帰ったら一体どんな反応をされるだろうか? 変に怪しまれたりしないだろうか?


「今度吉田さんのお父さんとお母さん紹介してね☆」

「人の頭ん中を読むんじゃねぇ」

「バレバレだし」


 そう言って沙優は穏やかに微笑み、俺の口元をティッシュで拭いた。

 何気ない気遣いと上品な所作にふと母性を感じ、恋心とは別の、ポカポカと懐かしくも感じる温かい想いが胸に現れた。


 ピンポーン


「はーい」


 時間をかけてゆっくり沙優の手作りりんごジュースを堪能していると、部屋のインターホンが突如鳴った。

 動けない俺に変わって沙優が対応しに玄関に向かう。

 会話の口振りから、どうやら沙優と親しい人間なのはなんとなく分かった。

 玄関のドアが静かにしまり、誰だとベッドの上から視線を向けて待機する。


「......え?」


 緩んだ身体に一筋の電流が走った。

 幻覚などではない。

 パリっとした高そうなスーツに身を包む、俺とそう年の変わらない爽やかな男性――会うのは実に、一緒に沙優を北海道に送り届けた時依頼――二年ぶりだった。


「お久しぶりです吉田さん。では早速参りましょうか」


 居室へと入ってきた意外すぎた人物。

 素っ頓狂な声を上げる俺に対し、沙優と、その兄である一颯さんは、兄妹揃ってよく似た柔和にゅうわな笑顔を浮かべた。


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