永遠の有明

 指輪「黎明」は生命の輪廻を象徴する。

 有明は「この世の生命の営み」を装備したのに等しい。


 指輪を通じ、全生命の感情が有明の体に流れ込んでくる。

 彼女は全生命の感情をダイジェストのように追体験する羽目になった。


 ほとんどの感情は些末なものだが、時折、苦痛を伴うものがあった。

 

 生きたまま体を捌かれる魚と、刺身を食う人の感情を同時に得た。身を切断された苦痛があるのに、歯ざわりがコリコリして美味しい。

 子の生誕を喜ぶ親と、親を看取る子、両方の心情を同時に味わった。大事なものを得て嬉しいのに、失った悲しさに涙する。


 無数の想念が現れて消える。痛いと思ったら気持ちよくなり、気持ちよさを得ても空しくなり、理由もなく泣きたくなる。

 飢え、妬み、エクスタシー、軽蔑、満腹、劣等感……感情の乱流に飲まれ、有明は正気を失いつつあった。

 そんな有明に「黎明」は慈悲心から教えを授ける。

 ヴィパッサナー


 事実に意識を向けて妄想を断つ瞑想技法で、自覚的に感情を止める手法だ。

 多数の感情に触れて発狂しつつあった有明には、この技法が救いとなる。

 



 感情は自発的に止められる。


 人が感情を得るとき、このような情報処理プロセスを経る。


 何かを認知する。

 過去の記憶と突き合わせる。

 見たいものに注目する。

 解釈を加える。

 感情が想起する。


 このプロセスを意識的にどこかで止めれば、感情は止められる。


 例えば、他人にバカにされたときはこんな思考プロセスが生じる。


 耳が、音を聞く。

「バカ」という音声を聞く。

 バカという語が過去の記憶と照合される。

 他人にバカにされた記憶が過去の悪感情を呼び覚ます。

 発言者は自分に敵意があると解釈する。

 怒りが湧く。


 一連のプロセスは無意識に行われる。

 苛立ちを感じつつある――と思いながら怒る者は稀だ。


 感情を止めるにはどうすればよいか。

 無自覚に走る情報処理プロセスのどこかを可視化すればよい。


 初歩の段階では、今の状況を一言に要約する「ラベリング」で情報処理プロセスを止める。

気づきサティ」とも呼ばれるもので、現状を一言に要約することだ。極めれば言葉は不要とされる。


 例えば「バカ」と聞いた瞬間、「敵意を受けた」と現状を一言で要約する。

 これが「ラベリング」。


 ラベリングにより「バカにされた」「あいつは敵だ」という後続の思考を止めに行く。

 状況に合うラベリングが入れば腹落ち感などが生じ、脳の情報処理プロセスが止まり、怒りは湧かない。

 事象に集中し、思考プロセスを打ち切ることができれば、感情を止められる。難事ではあるが実践できれば感情に振り回されることはない。


 万事例外なく事象を認識し、感情発露までのプロセスをコントロールできるようになれば、そのものは喜怒哀楽全てから自由となり、何者にも揺るがなくなる。

 日夜徹底すると、ある日突然に悟りを「体感」して解脱に至るという。

 そこまで行かずとも、ヴィパッサナーは「マインドフルネス」心理療法の原型で、実践すれば感情変化に対する防御効果を得られる。


 そして、ヴィパッサナーとは感情に伴う苦痛から自由になる方法論であると共に――輪廻から脱するための道程パスでもある。




 指輪「黎明」は、感情の嵐から有明を救うため、ヴィパッサナーを教えた。

 五感や想念に意識を向け、現状に言葉を付与し、事実を観よと。


 有明は教えに従い、指輪から流れ込みつづける多数の感情に対し、ラベリングを行い始めた。


 ――親を殺された。「怒り」。殺してやりたい。怒りが強くなる……失敗。


 ――「舌に当たる」、「甘味」、「喉を通る」……こんなのでいいの?


 初めのうちは上手くいかない。指輪から流れ込んでくる多数の感情、嵐のように暴れる思い、無限に変化する喜怒哀楽に弄ばれた。

 しかし、長く続けるうちに慣れていく。


 ――老衰、苦しみ、「寂しい」。そう、このおじいちゃんは寂しかった。お疲れさまでした。


 ――腹を刺される、「痛み」、「理不尽」。理不尽も運命。諦めるしかないよ……。


 そうやって多数の感情を見送るうち、次第に、有明の意識は遠のいていく。




 教えに従った有明は今まで通りではいられない。

 いまだ彼女は色彩ルーパに在って、形状しき物質いろに囚われている。

 彼女はいまだ輪廻する生命、物質界しきかいにある存在でしかなく、悟りや解脱からは億、兆、京以上の隔たりがある。

 だが、変化が始まった。


 万物は変化する。

 有明も変わるだろう。

 彼女が元に戻ることはない。


      ◇◆◇◆◇


 サタケ対策本部二階、医務室のベッドにて有明は意識を取り戻した。ぱちっと目を開け、勢いよく上半身を起こす。

 ベッドの傍でパイプ椅子に座っていた高砂は驚いたように声を上げた。


「うわっと! 有明さん、急に起きるとくらっとするよ」


「……大丈夫です。ところで私、どうしてここに寝てるんです」


「指輪を装備した直後に有明さんが気絶したから、担架で医務室に運んだんだよ」


「ご迷惑をお掛けしたみたいで――」


「気にしないで。みんなを呼んでくる」


 返事を待たず、急ぐように高砂は部屋を出た。

 高砂さんの様子が変。なんでだろう。そう思ったとき、有明の脳内に声があった。


 ――気まずくなっていたからだ。彼は同好の士以外と接するのが苦手である。特に女性はどう接すべきか分からない傾向が強い。


「え」


 周囲を見回すが誰も居ない。


 有明は深見の動画を思い出した。確か「知りたいことがあれば『黎明』に聞いてください」と言っていたような……。

 有明は脳内で尋ねる。この脳内の返事って指輪のせい?


 ――然り。問われれば答える。全生命のうち誰か一人でも答えを知っていれば、彼に代わって回答する。「黎明」が回答すると考えて差し支え無い。


 めんどくさい奴を付けちゃったみたい。

 その思いに「黎明」が答えることは無かった。問いではないからだ。


 窓の外は真っ暗になっていた。いま何時だろうと有明は思った。


 ――午後七時十八分十三秒。


 なんでもかんでも答えなくていいから。必要な時だけにならないかな、スマホのアシスタントみたいに。


 ――合言葉を決めればいい。音声認識によるロック解除機能を有する。


 なんでそんなところだけウェアラブルなのかな……。

 そう思いつつも、有明は知恵をひと絞り、AIアシスタントへの呼びかけをもじった言葉を思いつく。

 気取った風に右手を掲げた。


「おっけー、れーめ」


 がちゃりと扉が開く。鹿島だ。


「有明? 何をしている」


「……い」


 有明の耳が赤くなる。変なポーズを見られ、怪しい呟きを聞かれたのが恥ずかしかった。

 鹿島の瞳が赤くなった有明の耳を捉える。まずいと察したように目を逸らした。


「外で待つ。準備が出来たら声を掛けてくれ」


 ぱたんとドアが閉じる。


 有明は喉から変な声を出し、枕をひっ掴んで、ぼふん、ぼふんと八つ当たりする。

恥ずかしい感情が発露していた。

 指輪から教わった瞑想法を忘れたかのようだが、物事はなんであれ、すぐ身につくものでもない。


 ――合言葉は「おっけー、れーめ」。

 

 有明の脳内に声が響く。

 おどけている父の声に似ている気がした。

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